わたしだけの吸血鬼

「そういえば、らんは吸血鬼の噂って知ってる?」


 お昼休みの教室。一緒にご飯を食べている友達がなんの脈略もなくそうきいてきたので、わたしはお弁当を食べる手を止めた。


「吸血鬼?」

「うん。ここ最近有名になってるじゃん。夜な夜な女の子を探し歩いて、血を吸うって話」


 友達──まきむらづるちゃんはそう言ってトマトジュースをひとくち飲む。赤く染まるストローを口に含み、美味しそうに飲む千鶴ちゃんのほうが吸血鬼じみていると思い、慌てて話をきくことに集中する。


「それって……なにかの創作の話?」

「いやいや、実際にあった話。ほらこれ見て」


 千鶴ちゃんが差し出してきた携帯端末を受け取り、画面を見る。そこにはSNSのタイムラインが表示されており、そのなかの「ウチの友達が吸血鬼に血吸われたんだけど大丈夫かな(´;ω;`)」という投稿が目に入った。


「ね? ほんとでしょ?」

「でも、これってこの町で起きたことなの?」


 わたしが携帯端末を返しながら尋ねると、千鶴ちゃんは苦笑混じりに頷いて、


「この町っぽいよ。位置情報切り忘れてるみたいで、おもいきりこの町の名前出てたし」

「吸血鬼より怖い話だね……」


 吸血鬼よりもはるかにリアルな恐怖に、わたしはぶるりと震える。その様子を見て、千鶴ちゃんがおかしそうに笑った。


「そもそも蘭はガラケーだし、大丈夫だと思うよ」

「でも、わたしもそろそろスマホに乗り替えたいと思っていたし、気をつけないと……」

「あはは。蘭はおっちょこちょいだからなぁ」


 千鶴ちゃんはひとしきりわたしをからかったあと、「それでね……」と真剣な表情になり話を再開した。


「最近は少し大人しくなったみたいだけど、蘭も気をつけたほうがいいよ。先生も完全下校時間を少し早めるみたいなこと言ってたし」

「……千鶴ちゃんって、どこからそんな情報仕入れてくるの?」


 少なくとも、完全下校時間云々についてはまだ公開されていない情報だ。訝しむわたしに、千鶴ちゃんは「まあ、先生と仲いいからね」となんでもないように答える。


「はぁ……というか、血を吸われるって危ないものなの?」

「うーん……失血死するほど吸われている子はいないみたいだけど、それでも貧血くらいにはなるんじゃないかな」

「そうなんだ……じゃあ、血を吸われて死んじゃった子はいないんだ」

「みたいだよ。いまは事情聴取の真っ最中で、それが終わったら警察が動くことになるのかなぁ」

「でも、相手は吸血鬼だし……」


 いくら日本の警察がすごいといっても、空想上の怪物には勝てないのではないだろうか。だって、わたしはその吸血鬼のことを……。

 っと、いけない。またぼんやりするところだった。

 慌てて千鶴ちゃんを見ると、彼女は少しばかりうっとりするような表情を浮かべていた。


「え、どうしたの千鶴ちゃん」

「いや……噂によれば、その吸血鬼ってすごく美形な女の子らしいんだよね。フード被ってるから詳しい見た目までは分からないけど、目が紅いことだけは覚えているひとがいたみたいだよ。そんな子に血を吸われるって考えると、意外と悪くないかも……」

「……千鶴ちゃん、もしかして面食い?」


 わたしが苦笑しながら言うと、千鶴ちゃんは「そういうわけじゃないけどさ」とそっぽを向いた。そもそもこの子、気になってる男の子がいるんじゃなかったっけ……。


「あ、ほら、ちょうどあんな感じだよ」


 千鶴ちゃんの視線はいま教室に入ってきた女生徒に向けられる。その姿はわたしも知っていた。


「あれ、生徒会長のあさ先輩だよね」

「うん。あんな美人に血を吸われるならいいかなぁって」


 千鶴ちゃんは少し頬を染めてそんなことを言っているが、その気持ちも分かる。美羅先輩はこの学校いちの美少女だからだ。

 銀色の髪はどんな手入れをしているのかききたくなるほどサラサラだし、お人形さんのような愛らしさと気高さが同居した顔はいつ見ても綺麗だと思う。文武両道で、先生方からの信頼も厚い、まさに非の打ち所のない少女だった。

 と、先輩が急にこちらを向いたので、わたしたちは蛇に睨まれた蛙のように固まった。


「あ……朝香先輩!」


 追いかけようとする後輩たちを手で制し、わたしたちのところへとやってくる。血のように紅い眼に、わたしたちの姿が映り込んでいて、魅了されたようにくらくらする。


「ど、どうしたんですか?」


 千鶴ちゃんが上ずった声で訊ねると、先輩はわたしのほうを向いて、


「放課後」


 とだけ言った。

 その言葉で全てを察した。わたしに拒否する理由なんてないので、こくりと頷く。

 それを見ると先輩は何事もなかったかのようにわたしたちから離れていき、後輩との会話を再開させた。


「……ちょっと蘭、先輩となんかあったの?」

 

 しばらく固まっていた千鶴ちゃんが恐る恐るといった様子でわたしに訊ねる。わたしは曖昧に誤魔化しながら、放課後を待ち遠しく思っている自分に気がついた。

 ……をされているのに、なぜだろう?

 いや、本当は分かっている。

 だって、わたしは先輩のことが……。


 複雑な気持ちを抱えつつ、食べかけのお弁当に箸を伸ばした。


   *   *   *


 午後の授業は夢を見るように過ぎ去っていき、放課後がやってくる。

 用事があるらしい千鶴ちゃんと別れると、わたしは旧校舎へと向かった。

 旧校舎は本校舎の隣にある。かつてはここが本校舎だったけれど、いまは移動教室や文化部の部室として利用されている。

 古いからか、掃除が行き届いているはずなのに埃臭いような気がする。部活の場として利用されているとはいえ、本校舎に比べると活気がないのも事実なので、生徒が好んで寄り付く場所ではない。

 そんな旧校舎の最上階、その一番奥にある部屋が、目的地だった。

 この教室は空き部屋で、部室としても割り当てられていない。なので当然施錠がされているはずだけれど、引き戸はすんなりと開き、わたしは教室のなかへと入った。

 室内には夕陽が差し込み、幻想的な景観を作り出していた。使われなくなった椅子や机が隅の方にまとめられているだけで、教壇すらない。

 そんな殺風景と呼ぶにふさわしい教室のなかに、ひとつの影がいた。

 銀色の髪と紅い眼。壁にもたれていた躰を起こし、影──朝香美羅先輩はこちらに歩み寄ってきた。


「……準備はできた?」

「は、はい。大丈夫です」


 わたしはカバンを床に下ろし、ぺたりと床に座る。それから制服を脱いでいき、肩と首筋を露出させた。

 この場にはふたりしかいないとはいえ、さすがに少し恥ずかしい。血が顔に昇り、顔が赤くなるのを自覚していると、背後からふわりと抱きしめられた。

 それと同時に、肩甲骨の辺りにむず痒い感覚を覚える。思わずぶるりと躰を震わせると、感覚が肩甲骨から移動していき、右肩を経由して首筋に到達した。

 熱い吐息を感じる。そこに含まれた感情を察する。ご馳走をまえにして我慢しているような、微細な振動が伝わってくる。

 唇は安住の地を探すようにわたしの首筋を這い回り、鎖骨の少し上で止まる。

 そして──


「……っ!」


 ずきり、という痛みのあと、えもいえぬ感覚が脳を侵していく。

 脳が痺れ、意識がぼんやりしていく。それは生命力が吸われていくようでもあり、快楽に身を堕とすようでもあった。例えるならば湯船に浸かっていて、だんだん意識がぼんやりしてのぼせる時の、あの感じ。一歩踏み外すと不快感に変わるような快感。

 

「ん……っ……」


 口を押えても、声は出てしまう。自分からこんなにも淫靡な声が出るのかと思うほど、色気に満ちた声。それを恥ずかしいと思い、鼓動が加速して──結果的に、多くの血を吸われることとなる。

 どれくらいそうされていただろう。名残惜しげに唇が離れると同時に、わたしはくたりと弛緩して崩れ落ちた。


「はぁ……」

 

 顔を上げると、美羅先輩がこちらを見下ろしていた。綺麗な舌が唇についた血を舐め取るさまはどこか淫らなものではあったが、そのあとに浮かべたもの欲しげな表情からは子供っぽさを感じる。いずれにしても、普段は絶対に見られないような表情だった。


「先輩……もう、おしまいですか?」


 わたしがきくと、先輩は少しだけ躊躇う様子を見せてから、ゆっくりと頷いた。


「ええ、もう大丈夫よ。ありがとう」


 返事をする口元から、ちらりと覗く牙。

 それを知るのは、わたししかいない。

 美羅先輩が、この街を騒がせる存在──吸血鬼と呼ばれる存在であることは。


   *   *   *


 わたしが美羅先輩の秘密を知ったのは、3ヶ月まえのことだった。

 春風が吹く、暖かい日のことだった。当時のわたしは進級したばかりで、1年生のときに仲が良かった子が転校してしまったばかりだった。加えて、新しいクラスには知り合いはひとりもいなかったので、わたしはどんどん不安定になっていった。

 学校が終わり、家に帰ってもその不安は続いていた。このまま部屋にいても辛くなるだけだと思い、気分転換に飲み物でも買うつもりで家を出た。

 夜空には満月が浮かんでいて、星も瞬いている。それに心が洗われるのを感じながら、わたしは近くのコンビニに向かい、飲み物を買った。

 そしてその帰り道、先程まではなかった光景に遭遇した。

 人気のない公園で、女の子が血を吸われていた。公園の東屋に座り、後ろから抱きしめられるように血を吸われていた少女は、しかし恍惚とした表情を浮かべていた。

 わたしはその光景を呆然と見ていた。あまりにも非日常的な光景だったし、その光景を見たとき、わたしが抱えていた悩みはどこかへと吹き飛んでいってしまっていた。

 そのうちに血を吸っていた少女がこちらを向いて……気付いたら、わたしの背後に立っていた。


「……あなた、とても美味しそうね」


 ふわり、と抱きとめられ、耳元で囁かれる。甘い声にぞくりとした感覚が背中を伝い、意志とは無関係に小さな声が漏れた。

 その声をきいて、少女はくすりと笑った。


「びっくりした? でもこれから、その驚きを忘れさせるほどの快楽をあげる」


 そう言って、少女はその牙をわたしの首筋に突き立てた。

 いままでに感じたことのない快楽が脳内を蹂躙し、なにも考えられなくなる。

 永遠にも感じられる時間が終わったあとには、いままで悩んでいたことも、吸血鬼と出逢ったことも、すべて頭から吹き飛んでいた。

 気怠い躰を起こし、少女の姿を視界に映す。そこでようやく、生徒会長である朝香美羅先輩だと気付いた。

 先輩は「また逢いましょう」と囁くと、闇のなかにその躰を投じる。

 あとには、呆然とへたり込むわたしだけが残された。

 


 それから、わたしはことあるごとに呼び出され、血を吸われるようになった。そこまで自分の血が美味しいとは思えないし、なにかわけがあるのかもしれないけれど、この関係を悪いものだとは思わなかった。

 自分でも驚くことに、先輩に血を吸われるようになってから、わたしの精神は安定し、クラス内に友達もできた。

 ……もしかしたら、わたしは心のどこかで、依存する対象を探していたのかもしれない。友達がいなくなったことで心の穴が生じて、先輩と秘密の関係を持つことでそれを埋めたからこそ、心が落ち着いたのだと思う。

 そしてその心が、別の想いで満たされるのには、そう時間はかからなかった。


   *   *   *


「そういえば先輩、また別のひとの血を吸ったんですか?」


 千鶴ちゃんに見せてもらった投稿を思い出したわたしが着衣を整えながらそうきくと、先輩は「吸ったわ。そうしないと生きていけないもの」となんでもないように言った。

 確かに、吸血鬼である先輩にはひとの血が必要で、様々なひとからそれを得るのは当たり前だ。わたしなんて、そのなかのひとりでしかないのかもしれない。

 だけど……


「わたしの血で良ければ、もっとあげるのに……」


 ぽつりと呟いた言葉が、先輩にきこえていたかどうかはわからない。

 でも、いちど溢れ出した感情は自分では止められず、堰を切ったように溢れ出した。


「先輩の秘密を知って、血をあげるようになってわたしは救われた。だから、そのぶんの恩返しがしたいんです」


 わたしの血では足りないのだろうか。

 遠慮なんてしなくていい。失血死したとしても構わない。

 わたしは、わたしはただ……


「先輩に、喜んでもらいたいだけなのに……!」


 小さな声だったけれど、ふたりだけしかいない教室のなかで、その声ははっきりと実体を持った。

 感情をぶちまけたわたしは小さく息をつく。と、不意に先輩が目の前にいることに気付いた。


「先輩……」


 先輩はわたしの肩を掴むと、自然な流れで押し倒す。


「……もう、後戻りはできないわよ」


 そう言った先輩の瞳のなかには、狂おしいほどの渇望が渦巻いていて。

 ああ、なんだ、先輩もわたしのことが欲しかったんだな……そんなことを思って、自然と笑みがこぼれた。

 

「いいですよ。わたし、先輩のためならどんなことでもします」


 そう囁くと、先輩の頬が少しだけ赤みを増した。普段は絶対見られないような表情を見ることができて、無性に嬉しくなる。


「蘭、あなたの血は、とても美味しいの。何度も吸いたいと思ったのは、あなたが初めてなのよ」


 だから、抑えが効かなくなるかもしれない──先輩はそう言って、まっすぐにわたしを見た。


「それこそ、あなたが死んでしまうかもしれない。それでもいいの?」


 先輩は本気でわたしの身を案じているようだった。その優しさで、必死に欲望を押さえ込んでいるのが伝わってきた。

 だけど、わたしは躊躇うことなく──その欲望を、肯定する。


「いいですよ。だって……」


 好きなひとに躰を捧げるのは、当然のことじゃないですか。

 そんな言葉を呑み込んで、わたしは「先輩の役に立てるのなら、わたしも嬉しいですから」と言った。この気持ちを隠しておかないと、わたしが死んだ時に先輩が悲しむかもしれないと思ったからだった。

 ああ、でもそれもいいかもしれないな……なんて思っていると、先輩の顔が間近に迫ってきていた。

 首筋にかかる熱い息は、色気を纏った淫らなもので、自然と躰が昂ってくる。

 牙が肌に触れ、そのなかに沈み込む。

 そして、わたしはまた血を吸われた。

 今度はもっと激しく、大量に。

 そのぶん、血を吸われているときの感覚も大きくなって……わたしは普段は見せられないような姿を晒すこととなった。

 そういえば、吸血鬼にとっての吸血は性行為と同義なのだと、どこかで見た覚えがある。

 じゃあ、わたしと先輩はいま、深く繋がっていることになるのかな。

 それはとても……ここで死んでもいいと思えるくらいに嬉しいことだ。

 だって、先輩とわたし、両方が幸せになっているのだから……。



 そのまま血を吸われていると、だんだん意識が遠くなってくる。

 貧血か、あるいはこの命が尽きようとしているのか。

 どちらでもいい。何度も吸いたいという言葉が嬉しかったし、先輩がわたしだけの吸血鬼でいてくれるという事実に酔いしれていたから。

 最後に見たのは、愛おしげに血を吸う、わたしの大好きなひとの姿。

 その姿に微笑みを浮かべ、わたしの意識は深い眠りの底に落ちていった。


   【おしまい】

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水底プロトタイプ〜古川早月短編集〜 古川早月 @utatane35

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