欠損
高黄森哉
欠損
私は、横断歩道の対岸にいる少女を、観察した。足が一本、欠けている。松葉づえと、左足で、歩く。時折、彼女のような人間が羨ましいと、思うことがある。当然、羨ましいはずは、ないのにも関わらず。
その羨望は決して、思ってもいない性欲や、勘違いの美的価値観から、くるものではない。もっと、実用的で、切実な願いから、そう考えるのだ。
ところで、世の中には多種多様な欠損がある。
四肢の欠損。これは、最もわかりやすいと言える。切断すれば、間違いなく日常に、他人が見て取れる支障はでるだろう。
次に、内臓の欠損。周囲に分かりにくいため、苦労を強いられる。しかし、欠損を主張すれば、周りは同情し、また配慮するだろう。
そして、精神の欠損。周囲は全く、分からない。本人すらもわからないときがある。医師の診断書があれば、なんとか周りは納得して、配慮してもらえるかもしれない。
どれも、それぞれの苦労がある。そして、それぞれの悲しみがある。強弱は図れない、それぞれの不幸がある。
あちらの彼女は、不幸である。少なくとも、私よりかは、ずっと不幸せだ。こっちは、四肢がそろっていて、内臓も問題ない。それなのに、なぜ、私は彼女になりたいのだろう。
世の中には、多様な保障がある。大抵は、バラストのように考えられている。不幸を図る天秤があって、幸福を乗せて水平にする制度がある。
障碍者手帳、というのは、この範疇だ。詳しいことは知らないが、取得できれば、様々な支援を受けられるらしい。だからといって、今までのことを、帳消しにできるかは、人によるのだろうが。
責任能力の欠損。法律的には、無能には責任を問えないことになっていて、精神障碍者は、罪に問われないことがある。確かに、病気のために犯罪者にまでなってしまったら、たまったものではない。
私は、信号が青になるのを待ちながら、ずっと考えていた。世には、ここまで述べてきた以上にいろいろな欠損があるのではないか。
制度の多くは有限で、必ず、漏れが発生する。保証が覆えない範囲が存在する。線引きが、あって、その向こう側にも、欠損は広がっているのだ。
向こう側の欠損について。世の中から、無視される、苦しんでいる人々に関して。そういった、欠損者が、如上の人間たちよりも、苦労していない、ということは決してないはずなのに、どうして。
まず、青春の欠損。これは深刻な病気で、悪いことに、医療では完治することはない。科学的にも、光より遅い物質で構成される我々が、過去に遡れないことは、証明されたようなものだ。
そして、道徳の欠損。社会に害をなすので、保障の範囲外に置かれる。かたや、精神障碍者の凶悪犯罪を、許したこともあるのに(念のため、実は彼らが、健常者と比べ、犯罪を起こしやすい傾向がないことを、精神障碍者の名誉のために、ここに記しておく)。
物語の欠損。全てが、輝かしい、生活を送れるわけではない。この理想郷からして、発展途上の国では、難しい話だ。本人の手の届かない場所に、幸せがあるなら、それはある種の欠損である。
信号が青になる。自分は一体、どんな空白を、日常に感じているのか。なにを、落としてきたのか。どうして、そんなはずないのに、彼女よりも不幸だと、考えてしまうのか。
そして欠損の欠損というのは、存在するのだろうか。
欠損 高黄森哉 @kamikawa2001
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