42五話『花柳街の風物詩を愛で、扉を開けて戦慄する』
かきというらしい。牡蠣の水揚げとも柿の収穫とも季節が異なる。梅雨の晴れ間、蒸し暑い日和になるや、野郎共は忍び足で現れ、時に列を成す。ここ富士見に限らず、帝都の花柳街では風物詩とされる模様だ。
芸者置屋に待合、料亭、小料理屋。色里の表通りに
斜向かいに見えるは、老舗を
湯浴みを終えて夜の支度。うら若き芸者衆は
空き地に侵入して様子を窺う野郎共。二階を仰いで手は下に、ここぞとばかりに手淫に励む。彼らを俗にかき*という。
帝都では如何わしいレビュウも花盛りなれど、空き地とあって木戸賃要らず。只より安いものはなく、拝み放題、かき放題の開放区。事情通の連中は頃合いになるや、ひとりふたりと現れて、手仕事に精を出す。
そんな野郎共を覗き見る痴れ者が居た。
「こっちも見放題だけど、小汚い親爺しか居ないのか。まあ、そりゃそうだよなあ」
花柳街の古狸しか知らぬ情報をもたらしたのは、永池櫻子だった。冬場は勿論、春寒の時期は皆無。然れど湿気が増えて蒸す頃になると、置屋の窓が開かれ、かきが雨後の
「覗くほうも大概だけど、覗かれるほうも腹が座っているもんだ。露出魔という訳でもなく、肉體美が誇らしいとか、そんな感覚なのか」
櫻子が一家で編纂する地下流通本と富士見花柳街は、直線で結ばれていた。卑猥な寫眞の被写体が、この色里の芸者衆だと申すのである。どのような伝手を辿って依頼し、
特別な秘密ではなく、ただ図書館の婦人閲覧室で大っぴらに話せる事柄ではなかっただけである。その割には、かきに関しては大胆に語った。節度を保つ基準が若干不明だ。
「売れっ子には
被写体になった芸者には、相応の手間賃を支払う模様だ。誰もが損をしない商いだと自慢するが、違法である。しかも、藝術作品だと居直るのも無理筋な猥褻寫眞が十割で、下品である程、良く売れるとも話していた。
その際、櫻子が見本を一冊謹呈すると申し出たが、忠嗣は言下に断った。裸婦寫眞には幾らの興味もない。
しかし、淫本と聞けば、少しばかり色めき立つのが通常の男ごころ。即座の否定は不自然とも言え、高尚な趣味を悟られた可能性があった。勘の鋭い者であれば、察したに違いない。
「まあ、勤務先が御堅いし、その辺の事情だと汲んでくれることを祈るばかり」
花柳街の裏風物詩をひと眼見んとして、この日は早々に退勤した。最近は稀にしか使わなくなった逃走経路。安川書庫の陰から東京音樂學校の敷地を抜ける非常口である。
上野で市電に乗ったのが、十六時を過ぎた頃とあって、時間が有り余った。かきは尚も現れそうな気配だが、萎びた胡瓜や土筆坊を何本と眺めたところで胸も
櫻子は予科生のかきが出没するようなことも匂わせたが、僅かでも羞恥心があれば、屋外での手淫など出来るはずもなく、未成年が難関に挑むとは思えない。空き地の野郎共は筋金入りの変質者で、己が覗かれることを
「まだ會の幕開けには相当な余裕があるな」
花柳街の支度は遅く、陽が傾き掛けてから暖簾を掲げ、黄昏が近付いた頃になって漸く
飯屋と思しき看板は幾つも並ぶが、大層な
「いくら馴染みの花街と
靖國神社を抜けて暁星学園の辺りを散策しようとも案じたが、終業時刻はとっくに過ぎ、與重郎は自宅に帰っている頃合いだ。書肆の裏手に廻ったところで若干、東西南北が朧げになり、慌てて三業会舘ビルヂングを目指す。
三階建の立派なビルヂングは、色里のランドマアクである。事情通の御河童頭によれば、数年前に建造されたという。三業とは芸者置屋、茶屋、
「要は労働組合みたいなものか。社會主義者の牙城かな」
重厚な
閑人は入り口横の階段を登った。上の階から、花街全体が展望でき、杜若家の全景が俯瞰できると考えたのだ。書肆には何度も足を運んだが、離れを含めて屋敷の構造は今ひとつ窺い知れない。
「よお、兄ちゃん、ちょっと待ちな。見たことねえ顔だ。車屋って
二階に昇ったところで、
「いやあ、怖いなあ。凄味があったし。用心棒とか、そんな手合いか」
遊里には
世の
未だ色里に慣れぬ風来坊は見番を後にして、やや俯き加減で通りを歩んだ。すると、石鹸の香りが鼻腔を
暖簾には、ふじの湯。煙突を仰ぐまでもない。銭湯である。
富士見花柳街に限ってのことか、聞くところによると、置屋に内風呂はなく、芸者は着付けの前に三々五々、銭湯に赴くという。一体、何百人の女が通うのか。曲輪内に銭湯は二軒ばかりで、定めし女湯は鮨詰めの有様に相違ない。
この流儀は一方で、芸者も半玉も自由な身柄であることを物語っている。桶や手拭いを下げて、ふらふらと往来を歩き回る。濡髪で串物を買い食いする姿も見掛けた。
ひと頃、飢饉の涯に身売りされる娘の哀話が巷間を賑わせた。多額の前金を親が貰う代わりに、娘は遊里へと引っ張られる。悪質なブロオカアも横行し、二度と生地に還れぬ子も多いと伝わる。
不憫な娘は何処に連れて行かれるのか……少なくとも帝都の大きな花柳街ではない。目と鼻の先には市電が通う。小銭片手に飛び乗れば、逃げることも容易く、忠嗣には、ここが檻の中とは思えなかった。粋に遊び、色香に酔う町である。
「おや、珍しい。男の子も風呂屋に参るのか」
色里の仕組みに想いを馳せる中、不意に、ふじの湯から二人の少年が連れ立って出て来た。年の頃は中等生くらいだろうか。丁稚にしては
勿論、與重郎と比肩するような目立つ容姿ではないにせよ、肌も白く、妙な艶かしさを備えている。肩の線ばかりか、腰回り、歩き方まで芸者に似て、しゃんとする。一種異様で、趣味人は瞠目し、思わず暖簾に近寄って残り香を嗅いだ。少年特有の芳しい匂いがする。
「空き地で覗きなんてしている場合じゃなかった。銭湯に行けば良かったんだ。これは盲点。今度、脱衣場で待ち構えようかな」
桶も貸手拭いもあるはずだが、上等な背広にネクタイを締めて銭湯に行く者は居ない。花街に君臨する風呂屋を覗きたい気分だったが、そこは諦め、次回以降の課題とした。
陽が暮れるまで銭湯前の電柱横で粘り、犬に小便を掛けられそうになった。それでも時間は余りある。千鳥ケ渕に足を向け、汁粉屋で暇を潰したものの、金曜會の開幕時刻には尚早だった。
「やや早めに参っても問題はなかろう。與重郎ちゃんと二人でお話しする機会も近頃少ないし」
十九時も十五分を過ぎた頃、書肆グラン=ギニョヲルの
「あれ、忠嗣さん、今宵は早いね」
垣澤耿之介が変わらぬ口調で叫ぶと、女も振り向いた。
足が竦み、動悸が起こり、昂まる。見知らぬ女などではなかった。今日の昼過ぎにも館内で接した後輩。そこに
<注釈>
*かき=昭和初期、神楽坂花柳街に実在した変質者軍団。芸者に見付かると水を浴びせられたという。「かき」の漢字表記は不明。
<参考図書>
野口冨士男『かくてありき』(講談社文芸文庫 平成三年刊)
永井荷風『おかめ笹』(新潮文庫 昭和二十七年刊)
※和装の描写にオマージュが有り〼。
<附録>
近況ノオト〜【寫眞解説】富士見花柳街漫游編〜
https://kakuyomu.jp/users/MadameEdwarda/news/16817330669563917439
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