41四話『津山三十人殺しのラプソディ』

──失戀・病苦に狂ふ農村青年 岡山縣下の鬼熊自殺


 当該の記事を掘り当てる作業は簡単だった。目録に頼る必要もなく、製本された新聞の日付を追えば速やかに辿り着く。


「実在した事件だったのね」


 古新聞の紙面を食い入るように見詰め、永池櫻子ながいけ・さくらこは感心することしきりだった。


 前回の金曜會で話題となった岡山県北部の大量殺人事件に関する記事である。それから間をかず、御河童女は帝國圖書館を訪ねて来た。個人的な趣味にも拘らず、否、趣味だからこそ機敏に動き、遠方にまで足を運ぶものだ。


 この日も図書館の玄関附近には閲覧券を求める人の列が形成されていたが、彼女は所謂いわゆる、裏口からの入館である。


 先ず、来たなり一階宿直室の窓を叩き、巡視を呼ぶ。その巡視が地下の禁書庫に参って来客を告げ、忠嗣が迎え入れるという仕組み。前に閑人ひまじんが與重郎に教えた技法であった。


「しかし、夕刊の二面とは意外だな。ええと、最初に二人殺し、次いで村民二十七名を殺害とある。狂気の沙汰の大事件だけど、二面扱いで寫眞もなしか」


 最初に閲覧した紙面は、現在より遡ること丁度一年前に当たる昭和十三年五月二十二日付の東朝*夕刊だった。記事の冒頭に「津山電話」とある。これは現地に入った記者が支局か本社に電話を繋ぎ、口頭で概要を伝えたという意味だ。


 奇妙なのは事件を報じる記事がその一本しかないことだった。帝國圖書館では新聞各紙を一箇月分纏めて製本していた。しかし、翌日も翌々日も続報はなく、関連した論説も見当たらない。完全に掻き消えてしまった恰好である。


「これは気付かずに終わるのも不思議じゃないわね。夕刊なんて余り読まないし、ラヂオで聴いた覚えもないわ」


──就寝中の部落を襲ひ 獵銃りょうじゅう卅名さんじゅうめいを射殺す


 東日*は夕刊での第一報に加え、翌日の朝刊で詳しい続報も掲載していた。岡山の鬼熊おにくまこと都井睦雄とい・むつおが自宅に残した遺書。そこで廾一歳にじゅういっさいの青年は自らを正気だと訴え、冷遇し虐待した村人に復讐すると宣言する。


「有言実行という仕誼しぎか。労咳ろうがい持ちだが癲狂てんきょうではなく、逆に尋常の頃は学業優秀で級長を務めたこともあったと」


 かつての秩父の神童は俄かに親近感を覚え、病苦で挫折した下手人に同情を寄せたが、決定的に異なる面があった。岡山の殺人魔は無類の女好きで、愛執の念強く、未練も引き摺り、惚れた女が嫁ぎ先から帰省したのを狙い、犯行に及んだ模様だ。


「何だか古めかしいわね。怨念と情念に塗れたお能みたい。それは置いといて、ここ少し暗すぎるわ。もっと明るい部屋はないんやろか」


 櫻子は手提げ鞄から寫眞機を取り出した。新聞記事の内容を書き写すのではなく、撮影して保存するという。新聞貯蔵室の照明は普通だが、窓が小さく、うつすには明るさが足りないとこぼす。


「え、新聞を直接撮影するのか。紙も粗悪で活字も粗いし、見出し以外は潰れてしまうような」


「大丈夫よ。専門家なんだから任せて頂戴」


「明るい場所って言われても、この時間帯だと二階の婦人閲覧室かな」


 いざ撮影する段になって図書館司書は案内役のみならず、その身が器材のひとつだと知った。女性専用閲覧室の窓の脇、胡座をかいて大判の新聞製本を抱え、微動だにしてはならない。坐禅の如き苦行だった。


 女學生風の連中が本を閉じ、二人の周りに集まって来ては可笑しそうな顔でみつめる。櫻子は手早く三脚を立て、撮影に取り掛かったが、焦点が合わないのか、光の当たり具合が不満なのか、寫眞機の各種摘みをいじくり回し、一向に終わる気配がない。


「本当に上手く写せるのかな」


「はい、またれた。端っこをしっかり押さえて、動かない。出来れば呼吸も止めて欲しいわ。さっき古新聞が嵩張かさばるので順次廃棄してるとか言ってたけど、紙で保存するから駄目なんよ。フイルムに収めれば、小さく纏まるはずや」


 撮影助手は小馬鹿にして笑った。そんな簡単に済むとは思えないが、櫻子は名案だと言って憚らない。相応の機材があれば、新聞の丸写しも可能だと話す。


「その東朝にも東日にも現場の寫眞はないけど、卅人さんじゅうにんも殺されたのよね。探せば絶対に凄惨なものがあるはずだわ。耿之介さんは、ねられた首とか猟銃で蜂の巣になった姉妹とか、そんな寫眞で事件を知ったのかも知れないわね」


 司書を床に座らせたまま、櫻子は妙なことを言い始めた。金曜會の面々の知られざる素性。仕切り役の垣澤耿之介かきざわ・こうのすけは、その筋では有名な屍体愛好家だと明かす。


「ええ、かなり変わった趣味だな。その筋ってどんな筋なのか」


「はい。動かない、どうじない。新聞筋のことよ」


 新聞社に属する報道寫眞家たちは事件事故直後の現場に立ち入り、在りと凡ゆる場面を撮影する。犠牲者の溢れる悲惨な事故、そして殺人。血塗れの屍体もフイルムに納めるが、紙面に掲載されることは滅多にない。あっても故意に不鮮明な寫眞を用いる、と櫻子は語った。


 どの新聞社であれ、おぞましい寫眞の陰画は大量に倉庫に眠る。通常の業務とは別に、耿之介はそれらを引っ張り出し、個人的に蒐集しゅうしゅう、所蔵しているという。


 一部を見せて貰った櫻子によれば、いずれも生々しく、市販の猟奇雑誌が少年倶樂部か婦人公論に思えるくらいの代物で、三日三晩、悪夢にうなされること請け合いだという。


「見てたのしいものなのか……」


 そう疑問を呈しつつ、忠嗣は前に残忍極まる死刑の儀式、凌遅處死りょうちしょしの寫眞を眺めて陶然とした自分を思い出した。しかし、あの青年は肉を削がれ、血を滴らせてはいたが、尚も息はあった。屍体ではない。


「愉悦も歓楽も人其々ひとぞれぞれよ。でも、屍体愛好家は特殊過ぎる趣味で、寫眞を蒐めて本を編んでも売れそうにない。結局、企劃きかくしただけで、嫌な夢を観させられて終わったわ」


 余談で、櫻子の渡世とせいも明らかになった。地下出版の春画を密かに製作して売り捌いているのだ。正しくは絵ではなく、寫眞。裸婦を自ら撮影し、一冊の薄い畫集がしゅうに仕立て、帝都の助平共に高値で販売する。


 禁書どころの騒ぎではない。はなから検閲を無視し、製本段階から既に違法である。


「それって、当局に摘発されて本を没収されるだけではなく、造った本人も捕まるやつでは」


「まあ、下手を打てば罰金だけで済まないけれど、覚悟の上って言うか、度胸よ」


 忠嗣にとって実に意外な事実だった。


 高額な獨逸製機器をぶら下げ、朧月夜の撮影に取り組み、明媚な風景寫眞を揃える……そんな淑やかな趣味を持った都会の女性だと思い込んでいたが、矢張り、金曜會に名を連ねるだけのことはあって、ひと筋縄では行かない。単なる道樂者でも放蕩娘でもないようだ。根性が座っている。


「簡単に言うけれど、本を造るのは料理と違って、色々と機械が必要なんじゃないのかな」


 真っ当な疑問を向けると、彼女は家業の寫眞館に製本の道具一式があると開けっ広げに語った。影印本を作成する工房でもあり、造作もない。しかし、内容が内容だ。家人に内緒での製本作業など困難を極める。


「父ちゃんも好きやねん。御目々見開いて、御股を眺めてはります」


 また、怪しい上方訛り全開になった。家族揃って仲睦まじく地下流通本の編輯へんしゅうに励んでいるということか。


 忠嗣は、何時ぞやの晩に番町の店舗兼自宅で会った娘似の父親を脳裡に浮かべた。気風きっぷの好い大尽だいじんで、必要以上の足代を貰ったものだ。素性の宜しくない金にも思えるが、全て仲間内に配る菓子折に化け、既に手許には一銭すら残っていない。


「局部を頁一杯にでかでかと載せたりしおって、これがほんまのグラフや」


 気のいたことでも言ったのか、櫻子は寫眞機の脇から得意気な顔を覗かせ、愉快そうに笑った。周りに集まった女共もくすくすと笑う。


 忠嗣には冗談の意味が理解できなかったが、少なくとも帝國圖書館の婦人閲覧室に於いては最も相応しくない部類のものであることは分かった。


<注釈>

*東朝=東京朝日新聞。*東日=東京日日新聞の略称で現在の毎日新聞。


<参考図書>

小池新『戦前昭和の猟奇事件』(文春新書 令和三年刊)

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