40三話『呪われし物と聖なる神の眼球譚』

「一瞬、背筋がぞくりとした。その小さいの全部、眼玉だよね。ひと束になって、群れていると気色が悪いな」


 女児が遊ぶ御弾おはじきに似ている。大きさは指爪しそうぐらいで平たく、独特の輝きから硝子製と判った。しかし、色鮮やかな遊具と違って、描かれるのは奇妙な眼だ。


 紺碧の縁に四白眼、更に水色の円の中に黒眼がある。それが数珠のような一条の紐に結ばれている。頸飾くびかざりと同じ仕様だが、余りにも不気味で、全ての眼が一斉にこちらを睨むかの如く、妖しく光る。


「洋の東西の狭間、土耳古トルコの魔除けで、ナザール・ボンジュウ*と呼ばれます」


 與重郎よじゅうろうは忌わしい頸飾りを持ち上げ、円卓の上に雑に置いた。同じ硝子製でも風鈴の艶やかな音色とは対照的な、神経を逆撫でする摩擦音が響く。


「宝石とか、値の張るものじゃないのか」


 少佐が尋ねた。粗雑な開陳の仕方で分かる。前に観た骸顱しゃれこうべの附属物たる黒穂くろんぼは、舶来の函の中に恭しく納められていた。それに比べ、群れなす眼玉の扱いは手荒だ。


「本邦では珍しいかも知れませんが、土耳古ではどの家庭にもあって、日用品の域を出ないのだとか。古い品でもなく、安い土産物と捉えても宜しいでしょう」


「良く見ると可愛らしいわね。くりくりっとして、子供の眼みたい。魔除けって言うけど、効果あるのかしら」


 さすがに爪先で弾きはしなかったが、櫻子はひと粒に触れ、質感をあらためるかのように指の腹を押し当てた。人によって見方は様々、忠嗣にはそれが童のあどけない瞳には見えなかった。


「調べるのに少々苦労したんだよね。手掛かりは南方熊楠みなかた・くまぐす博士の研究書にあって、そこでは印度のナザールと紹介されていた」


 司会進行役の耿之介が舵取りを始めた。美少年店主の知恵袋にして後ろ楯。得体の知れぬ品を徹底的に調べ上げ、価値を割り出す。根っからの学究肌であるが、当人は愉快な趣味と言って憚らない。


熊楠翁くまぐすおうが間違っていたってことですか。珍しい」


「そうとも言い切れないんだ。これは土耳古産だけど、波斯ペルシャにも全く同じものが存在する。ナザールは回教徒の言葉で、監視とか厳しい視線といった意味を持つらしい。元は印度近辺にまで広がりを持っていたと考えるほうが正しいかもね」


 銀髪紳士は大層な知識人だが、博覧強記の老教授とは一線をかくす。人脈を駆使して世に知られざる古物や舶来品の正体を追い、時には専門家の自宅や研究室にまで押し掛けて暴き出すという。


 探偵か刑事のようだ、と以前に與重郎は評した。初代店主と二人三脚、苦労もあれば濡れ手で粟の幸運や奇縁も度々、そうして集めた品の一部が書肆グラン=ギニョヲルの店内に陳列されているという。


「中近東から西亞細亞と言うのなら、今の宗教とは関係のない古いものなのかしら。私にはこれ可愛く見えるし、本当に魔除けになるのか、少し疑問だわ」


「まあ、呪いの道具のように禍々しくはないよね。双眸じゃなくて、単眼ってところに意味があるのかも知れないけど、熊楠博士は邪視という概念を中心にして考察しておられる」


 よこしまな眼とは何か。英語でイブルアイ、伊太利亞語でマロキオ、梵語でクドルシュチス。それらは全て等しく、東洋では東晋とうしんの代に悪眼という表現が用いられた。因みに、邪視じゃしの名付け親が熊楠翁であるようだ。


「この硝子の眼玉が、悪い眼なのかしら」


「旧約聖書じゃないけど、眼には眼を歯には歯をだね。このつぶらな硝子細工の眼で邪視を跳ね除けるってことさ。人間は古代から他人の眼を恐れた。畏怖心の対象と言っても良いのかな。力を備えていると考えた」


 瞳に魅入り、魅入られる。魅惑そのものの根源で、刃のような鋭さを備え、恐怖の極致にもなり得る……耿之介の解説は再び講談調になって、枝葉末節から根っこに下り、幹に戻る。


 た者を石に変える希臘神話のゴルゴン三姉妹。そして天孫降臨にさきがけ猿田毘古神サルタヒコノカミ。異形の神の赤い酸漿ほおずきの眼は、侵入者を威圧する邪視の一種とも考えられるようだ。


 天狗の原型とも説かれる異形の神は兎も角、目撃者を石に変化させるメデュウサは現実感を伴う。


 石化は比喩だと忠嗣は決め付ける。與重郎に魅入られて身体の一部が石と化すことは稀ではなかった。単に海綿体に血流が集まるといった生理学的な現象として片付けられないのだ。


「邪視を跳ね返すのは、強い力を持った眼だけとは限らない。ええと、與重郎君、例の鏡はどこにあるんだっけか」


「あ、忘れてました。置きっ放しです」


 粗忽者の振りである。時折、美少年と司会役は小芝居に似た芸を披露する。打ち合わせの類いは殆どないと語るものの、多少の段取りがあるようだ。與重郎は店の奥に行って、角張った鏡を取って来た。売り物のひとつである。


「人相や手相のように土地の定めを調べる地相。漢人に伝わる占いに似た風水に関連する品なんだ」


 耿之介が紹介すると、與重郎は小皿ほどの鏡を胸の前で抱え、煌めかせた。角張った縁、黄色の地に赤や黒の漢字が記され、中央には少し曇ったまるい鏡。正式には、八卦羅盤凸面鏡はっけらばんとつめんきょうと呼ばれるものらしい。 


「んん、それ南洋で見掛けた覚えがあるな。飾りが付いた高級な鏡という訳じゃないのか」


 少佐が興味深そうに身を乗り出した。金曜會の面々の中で唯一、今以って生業など素性の知れない人物だが、異国に行った経験がある模様だ。忠嗣は意外に思い、鏡と中年男を交互に眺め回した。

  

「この凸面鏡を玄関や部屋の扉の上、或いは奥まった場所、突き当たりの路地にある家の門。そうしたところに飾って、跳ね除けるんだとか。風水で言えば邪気、或いは瘴気。ただ私には、悪い眼を阻むように思えるんだよね」


 邪視は鏡につかって、元に還る。耿之介は、鏡自体が眼の役割を果たしていると説く。眼を模した造形物は不必要で、相手の眼を鏡に映せば済むという仕掛けだ。更に、そこから解釈が飛躍する。


「邪視のほかに熊楠博士は類するものとして見毒、見る毒、見られる毒についても語っているんだが、奥に潜むのは悪い念だよね。羨ましいとか妬ましいとか、そんな人の思念。良からぬ思いが残り、蓄積して災いをす」


 極めて観念的な話になった。耿之介は、残留思念という聞き慣れない熟語を持ち出し、新参者は眉を顰めた。どうにも理解が追い付かず、展開も不明。こうした際に、軌道を修正するのが紅一点の役回りのようだ。


「怨霊の恨み辛みのようなものかしらね。それも気にはなるけれど、やっぱり眼玉よ。人体で最も神秘性がある。口程に物を言うし、認識の根源。南洋の食人族が好むのは人の眼玉だそうよ」


「それは聞いたことがない。第一、食べて旨いものなのか」


 少佐が飛び付いた。未開の部族、裸族に蛮族。忠嗣は凶暴で悍ましい連中が生捕りにした者の眼を抉る光景を思い浮かべ、胃を痛めた。肉料理は数あれど、決して皿に載せられないのが眼玉という部位だ。想像するだけで気味が悪い。


「味じゃなくて、きっと象徴的な意味合いよ。人体でぶよぶよして丸いものは眼球と金玉だけ。男性は余計にふたつ持っているということね」


 強引に性器の話に持って行きたいようでもあった。真っ当な婦女子なら口が裂けても人前で金玉などという単語は用いないが、櫻子は恰もそれが小道具か装具であるかのように平然と使う。


 忠嗣の頭には、大事な球体を喪失した佐清すけきよの面影が過ったが、口に出すことは憚られた。


「睾丸と眼球が一緒とは言い切れない。明確に左右があるのが眼球だ。埃及エジプト神話のホルスの眼は、右がラーで左がウジャトと区別される。いずれも護符だけど、ナザール・ボンジュウに近いのウジャトかな」


 耿之介が話を元に戻した。そろそろお開きの頃合いである。與重郎も終いの雰囲気を嗅ぎ取ったようだ。 

 

「この眼玉軍団を売り物にしたいんですけど、うーん、値段が難しい。一個当たり、御弾きの百倍くらいにしたら暴利かなあ。舎利甲兵衛しゃりこうべえの代わりに置く算段ですが、刺戟は少ないかな」


 先程、かれが角張った鏡を取りに行った際、陳列棚の装いがいささか異なっていた。忠嗣が改めて書肆右奥の辺りを見ると、骸顱しゃれこうべが見当たらない。片付けて蔵に仕舞ったのか、しくは……


「売れたんです。前に話した自動車を横付けにする女性。包茎さんを購入して持ち帰った人です」


 包茎さんではなく、六腑五臓君である。全く似ていない。それは然て置き、人体解剖模型に加えて骸顱と黒穂くろんぼを買い上げるとは、物好きな女が居るものだ……忠嗣は感心し、恐れ入った。


「その時、偶々、耿之介さんが来ていて、誘ったんです。金曜會に」


「お金持ちみたいだからとか、そういうのではなく、まあ、趣味も上々で、ほら、會も男の数が多いので、新規で女性も良いのかなと。少々会話しただけで、先方の返答も曖昧。来週の日付を教えたけれど、来るか否か」


 珍しく耿之介の歯切れが悪かった。二度目の来店での勧誘は忠嗣と同じで、例外とも言えない。そうであるにも拘わらず、銀髪紳士は何処か気恥ずかしそうに、粒らな眼玉の数珠を握ってと鳴らした。


<注釈>

*ナザール・ボンジュウ=青い縁取りに白眼と黒眼……🧿←こやつで御座あます。


<参考図書>

南方熊楠『十二支考 蛇に関する民俗と伝説〜(付)邪視について〜』(青空文庫)

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