39二話『本物の猟奇事件が大流行に引導を渡す』

「何とも言えないなあ。脈絡がないように思える」


 書籍の題名を見て、垣澤耿之介かきざわ・こうのすけは首を傾げた。この夜、忠嗣は野党が盗み去った蔵書の一覧を書類に纏め、書肆グラン=ギニョヲルに持ち寄ったのだ。


 狙われた杜若文庫かきつばたぶんこ。奪われた本の割り出しは容易たやすかった。書架に残る分と照らし合わせ、不明の書を簿冊から丸写ししただけである。全部で十一冊。いずれも社会部門に分類される事件及び犯罪に関する書籍だった。


「もう一度、僕の推理を整理します。うちの父は猟奇犯罪に凝った時期があって、関連する本を蒐集していました。軒並みです。神保町の古書店街が発展した頃とも重なり、金に糸目を附けず、買いあさったと聞きます」


 大正から昭和の初めに掛けての時代だろうか。神田に法律学校が相次いで開校して以来、學生相手の書店が増加し、神保町は世界有数の本の街となった。先の震災で焼け野原と化したものの、程なく復興を遂げた。


 與重郎によれば、その中には犯罪の真実を告発した私家本もあったという。真犯人とされる者を指名し、官憲も検察も知らない犯行の手法や動機を暴く。帝國圖書館に忍び込んだ賊こそが名指しされた真犯人で、痕跡を奪い去りたかった……


「でも、該当する本は盗まれずに残っていた。殆ど流通しない私家本に限らず、昔は名誉毀損罪とか侮辱罪とか、その辺りが緩やかだったので、新聞も雑誌も平気で嫌疑者の実名を書き立てたんだよ」


 耿之介の推察も美少年とほぼ同じだった。佛蘭西語でルポルタアジュという一群の文学的な手法があると話す。紀行文よりも従軍戦記に近く、本邦では探訪たんぼうと表現されることが多いようだ。


「私もルポルタアジュって聞いたことがあるわ。それ、実録とは違うのかしら」


 金曜會の紅一点、永池櫻子ながいけ・さくらこが問い掛けた。主に、男衆の中の唯一の女性を形容するが、忠嗣にとっての紅一点は、草叢でひと際目立つ可憐な華、與重郎に他ならない。

 

「実録は実記と同義で、歴史的な重みがある。ルポルタアジュは風俗も織り込んだり、もう少し身軽で卑近な問題を取り扱うんだ。一例を挙げるなら、鬼熊おにくま事件の狂騒かなあ。色んな手合いが現地に入って針小棒大に大騒ぎする感じだ」


 忠嗣も鬼熊事件については良く知っていた。尋常を卒業したばかりの小僧の時分だったが、連日、新聞が騒ぎ立て、秩父の田舎も熱波に煽られた。


 大正末年の夏に千葉で発生した連続殺人事件である。犯人の熊次郎は失戀から二人を殺し、火を放ち、行方を晦ます。新聞記者ばかりか野次馬も現地に殺到する騒ぎが続く中、下手人は更に巡査を殺めて逃亡。報道は益々過熱し、遠く九州から成田詣する好事家も現れる始末だった。


「風説もデマゴオグもお構いなしに何でも書く。土地の因縁話を絡ませる牽強付会は生易しいほうで、名推理と称して実名で真犯人を唱えたり、そんなルポルタアジュ擬きが氾濫した時期もあったんだよね」


 話は横道に逸れたが、詰まるところ、そうした本の中に真実が語られているものがあった。捕縛を免れた真犯人は露見することを恐れる余り、市中に流れた本を買い集め、そして上野の図書館に残る一冊を奪い去った……


 耿之介の推理こそ堅白同異けんぱくどういの域を出なかったが、與重郎は至極納得したといった面持ちで頷く。


「確かに、告発めいた本が何冊もありました。犯人しか知り得ない状況を詳しく、目の当たりにしたかのように書くんです。点数が多くなって父の書斎に収まりきれず、奥の階段に積み上げてあったりも。何時いつの間にか無くなってましたが」


「無用になって帝國圖書館のほうに寄贈したって顛末か。棄てずに預けたのなら、値打ちがある本とも思える。禁書扱いでもう閲覧できないのは残念だ」


 少佐は烟草タバコを燻らせながら、忠嗣を瞥見した。自らの差配に非ずとも、禁書庫の主は幾分か申し訳なく感じる。但し、残された杜若文庫を通読したところ、後世の研究に役立つ貴重な典籍とは言えなかった。 


「内務省の担当官によれば、禁書指定の理由、検閲対象の区分とか言ってましたが、寫眞や図説の残虐性と猟奇性だそうです」


「ああ、そんなのに凝っていた時期もあったなあ。私は今でも嫌いじゃあないけれど、惣弦そうげん氏、ここの初代店主ね、彼は途中で興味を喪失してしまった。飽きたという訳でもないのだろうけど」


 耿之介はそう言って往時を懐かしむかのように眼を細めた。美少年の父君である創業者の盟友を自任する人物。妙に口が重く、書肆開業の経緯ゆくたてなどを詳らかに語らないが、銀髪紳士は多くを知る人物だ。


「飽きたと言って良いのかどうか。あれよね、猟奇事件への熱気って急に醒めちゃったような。雑誌も色んな版元から競って出ていたのに、どれも廃刊になっちゃったわ。もうこの見世にだって僅かしか残っていない」


「それは忠嗣さんが買い占めたのが理由です。初めていらした日、袋一杯に購入してくれました」


 忘れもしない初夜である。不安を胸に書肆の扉を開いた一見客は、売り子にひと眼惚れし、本棚の雑誌類を鷲掴みにして買い漁った。『獵奇畫報』に『グロテスク』。それらは匂いを堪能した後、今も禁書庫の奥に眠っている。面白い雑誌ではあるものの、再三読み返すような類いではなかった。


「急に流行が終わったんだよね。珍しく終焉の時期もはっきりしている。帝都騒擾の後、昭和十一年の五月だ。阿部定あべさだ事件がピリオドを打った」


 また、耿之介が新たな話題を切り出した。この屋敷でひっそりと暮らす可哀相な下男、佐清すけきよの悲劇でも触れられた阿部定事件。最も著名な猟奇事件が流行に終止符を打ったとは、聞き捨てならない。


「小職には矛盾しているように思えますが、どういうことですか」


「雑誌の記事が空想や夢想とは言えないが、それらを現実が凌駕してしまったんだ。猟奇や猥褻を売りにした小説でも描かれない事件が眼の前で起きた。バイロンじゃないが、小説よりも奇なりってやつだね」


 紳士は廣告社こうこくしゃの重役で、流行を産み出すことは造作もないと言い切る。流行の始まりには根拠も背景も動機もあって明確だが、終わりは曖昧。その中で猟奇怪奇の流行終焉は例外的だったと話す。

 

「少し意地の悪い質問をするけど、皆さん、阿部定の二年後に岡山で起きた卅人殺さんじゅうにんごろしの凄惨極まる事件を御存知でしょうか」


「え、二年後って、それ昨年のことじゃないですか」 


「卅人って大事件じゃない。嘘よ、嘘でしょ」


 美少年と御河童女が悲鳴をあげる。忠嗣も全く知らず、趣味の悪い冗談と思ったが、少佐は知っていた。岡山県北部、瀬戸内より日本海に近い辺鄙な山里で起きた事件だと捕捉した。


「犯人は二十歳過ぎの青年。まず祖母の首を斧で刎ね、次いで日本刀と九連発の猟銃を持って村人を襲った。皆殺しに近く、殺害した人数も記録的。にも拘らず、地元紙以外の報道は限定的だったんだ」


「記者が押し掛けたんじゃないの」


「老舗の大手も続報は尻窄しりすぼみだね。犯人が自殺したことは理由にならない。何しろ鬼熊の十倍も犠牲者が出て、世界にも類例がない事件と言われるんだ」


 耿之介は殺人鬼の異様な出立いでたちなど詳細に、まるで自分で目撃したかのように全容を語った。それはルポルタアジュではなく、古めかしくも新しい講談調。実に愉快そうで、今でも猟奇事件に飽きていないという自らの言に偽りはなかった。


「去年の事件なら、図書館に新聞が残ってるんじゃないですか」


 美少年がそう提案すると、御河童も亢奮し、直ぐに調べろ、明日調べろと忠嗣を責付せついた。帝國圖書館一階の新聞貯蔵室は限界を越え、処分も進むと聞くが、昨年の発行なら残っている可能性が高い。司書は安請け合いし、卅人殺しの話題は幕を閉じた。


「では、今宵の面白可笑しい逸品を紹介します。うちの蔵に隠れていたものなんです」


 與重郎は意味あり気に懐中から小函こばこを取り出し、中身を披露した。眼玉だった。無数の小さな眼球が数珠繋ぎになっていて、実に薄気味が悪い。


 巷間の猟奇旋風は止んでも、この書肆に於いては流行が続いている模様だ。

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