第五章〜血の絨毯を敷き詰めた残酷卿の舞台〜

38一話『安息の地は怖い女人共に占拠された』

 まだ入梅には早い季節だったが、昨日も今日も淫雨いんう止まず、篠突しのつく折もあった。下足番の居る辺りは既に水浸し。泥の河に葉っぱの浮舟流れ寄せ、新入り娘は一心不乱に床を這うが、雑巾ひとつで氾濫は食い止められぬようだった。


「そいつぁ、無駄な足掻きだ。モップと馬穴バケツたたかわないときりがないよ。直ぐそこ、食堂前に火夫かふ室があるから借りると良い」


 忠嗣は蝙蝠傘を雑に立て掛け、不案内な下足番娘を誘導した。雨天荒天への備えと対処は、これから重要になって来る。余計な御節介ではなく、小さな親切、時宜に適った助言だ。雨で袖も裾も濡れ、出勤時は気分が優れなかったが、それも晴れた。


 上機嫌で禁書庫の扉を開くと、奥のソファアに人影ふたつ。しかも女だ。匂いで判った。独りは九鬼須磨子くき・すまこで、片割れは誰か。


「おっと、部屋を間違えました。失敬、失敬」


 見なかったことにして逃げ去るのが正解だ。威勢良く開けた扉をそっと閉じる。


「巌谷司書、お入りなさい」


 命令口調である。先輩に対してと申すところは容赦するが、敬語の使いどころも知らぬようだ。抑々そもそも、他人の持ち場で寛いでいるとは何事か。図書館の風紀が乱れているようにも感じられる。


「いや、お客さんが居るので邪魔かと思い……」


「あら、こんにちは。貴方、文部省から出向中の兼任官けんにんかんなんですってね」


 上半身をひねり、見知らぬ年増が親しげに話し掛けて来た。何奴なにやつなのか。少年の顔はその美醜を問わず、鮮明に記憶する性質たちだが、女のつらは一度見たきりでは覚えられず、たいてい忘れる。


「いえどうも、今日は好い御日柄で」


「雨よ。大雨よ」


 軽口が通じず、須磨子にここぞとばかり叱られた。中に入れと命じられたものの、若干、脚が竦んで動かない。片割れも鬼教師風の女。閻魔羅闍えんまらじゃの法廷に引き立てられる感が否めない。


「御待たせ致しました」


 入り口附近で立ち尽くしていると、背後から声がした。第三の女の登場。良く見れば、食堂の給仕だった。女給に押される恰好で忠嗣は足を踏み入れ、文机の隅に隠れようとしたところで、年増の素性を思い出した。


 夜盗侵入事件で立ち入り捜査に来た女だ。内務省警保局図書課の幹部。親族が局長候補とあって、特高警察の頭領までもが怯んでいた。閻魔様のほうがまだ可愛げがある。


「文部省のお兄さんも、こちらに参りなさい。御一緒しましょう。ウエイトレスさん、世話だけど、カツプを余分に一箇、持って来て下さらないかしら」


 強引に茶会に招かれてしまった。引き摺り込まれたと形容すべきか。蟻地獄の巣に墜ちた蟻の如し。どう足掻いても取って喰われる運命から逃れられぬようだ。但し、図書課の年増は事件捜査の時と比べ表情も柔和で、直ちに舌を抜かれる気配はない。


「あのう、本日は如何なる用件で、こんな場所に参られたのでしょうか」


 忠嗣はそう話し掛けつつ、ソファアに腰を下ろそうとしたが、須磨子は中央に座したまま譲らない。二人掛けで隅に寄れば済むものを一顧だにせず、と構えて、優雅に紅茶を啜る。


 仕方なく、部屋の主は床に正座した。かかあに一喝される悪餓鬼のような体裁だ。来客のほうは少し気に留めた様子だったが、それでも譲らず、坐上ざじょうから見下ろす。


 年増によると、新刊図書の閲覧数記録を受け取りに来たという。毎月の順位表を内務省に伝達する義務が科され、普段は書記が一覧を届けに行く。今回はついでの用事があって、須磨子から直接受け取る次第になった。

  

「それ、内務省の仕事なんでしょうか。もし小職が霞ケ関で偉くなったら、雑務は文部省が一手に引き受けます」


 年増は軽く笑っただけで何も答えず、代わりに西洋菓子の苺を口に放り込んだ。悠長な仕事振りである。御堅い官職であるにも拘らず、真っ昼間から茶会をたのしむ。男性官吏に置き換えれば、職務中に酒を煽っているに等しい。


「苺が新鮮で美味しいのよね」


 その菓子はショオトケエキなる名で、本邦考案のものだという。無智な忠嗣が感心する一方、須磨子は名称を知らなかったことに大層驚く。仰天する程のことなのか。おとこの渡世にケエキの名前など一毛も関与しない。


「この子は、うちの後輩なのよ」


 注意散漫にして横道から横道に逸れる。話題がころころと七変化し、容易に定まらぬのも女の会話の特徴だ。女史によると須磨子は、東京女子高等師範学校の後輩に当たるという。


 同校は全国に二校しかない官立の男子禁制だんしきんぜい教育機関で、女学生の最高学府とも位置付けられる。帝都のみならず近隣や以東の各県から成績優秀な生徒が集まることでも有名だ。


 須磨子は卒業後に図書館員教習所に通い、当館に就職したという。至極、真っ当な経歴で、司書への昇格も確約されている。

 

「何処ぞの令嬢で、縁故採用って訳でもないのか。あ、そう言えば男爵家の独り娘って聞いたような」


「男爵なんかじゃ御座あません。芋じゃあるまいし、男臭くて穢らわしい」


「でも、九鬼男爵って実在するわよ。珍しい苗字だから覚えているのだけど、岡倉覚三おかくら・かくぞう翁と一緒に、少輔せふ*として文部省を牽引した大立者。美術にも造詣が深く、帝國博物館の総長を務め、晩年は枢密院顧問だったはず」


 須磨子は大立者を遠縁だと語るが、文部省官吏の忠嗣も全く知らなかった。岡倉天心の名は語り継がれるが、九鬼某に関しては側聞した記憶もない。その遠縁なれば、須磨子も名家の一員に数えられるのだろう。田舎者の閑人にとっては雲上の存在とも言える家柄だ。


「そろそろ中入の休憩時間も終わる頃合いで……」


 女の会話に首を突っ込んだところで、道化方どうけがた以上の役回りはない。忠嗣はやんわりと退去を促してみたが、図書課の女史は「心配無用」などと申して居座る気満々。手持ち無沙汰で脚も痺れ、部屋の主がこの場から遁走するしか打つ手がなかった。


 居場所を奪われた閑人ほど哀れなものはない。


 第二の安息の地たる一階の宿直室は、椅子も硬くなって長居には不向きな場所となった。忠嗣は中庭の奥、安川書庫の裏手の土手で午睡をしようと企んだが、窓の外には瀑布。雨脚は先刻よりも強まり、低く垂れた雲も黒味を増していた。


「あ、いかん須磨子に頼み事があったんだっけか」


 大階段の踊り場で、ふと重要な職務を思い出した。前の金曜會で與重郎から調査の依頼を受けたのである。夜盗が奪い去った杜若文庫かきつばたぶんこの書名を是非知りたい、とかれは訴えた。


 ここ最近、富士見花柳街で泥棒が頻発しているという。狙う獲物は、芸者置屋の肌襦袢はだじゅばんに裾除け。所謂いわゆる下着類であるが、芸者に下女、将又はたまた、婆アのものとも見分けが付かぬ中、物干竿に吊るしてあるところを悉く盗み去る。限りなく変質者の匂い漂う鼠盗そとうだ。


 その盗難騒ぎで盛り上がった際、忠嗣が何気なく、四月に帝國圖書館で発生した夜盗侵入事件について話した。小噺程度の軽い調子で明かしたが、耿之介こうのすけと美少年が大いなる関心を寄せ、盗まれた書籍について詳しく知りたいと口を揃えたのである。


 捜査の時に須磨子が持ち寄った簿冊ぼさつを検分すれば、数分で片付く軽作業である。しかし、簿冊を入手するまでが、ひと苦労。普段にして偉そうな後輩書記に頭を下げるのも癪だ。


「いや、優秀な後輩に任せれば簡単に済むか」


 厄介事を避けることに於いては素早く智慧が回る。忠嗣は向かい先を目録室に変え、相談掛そうだんがかりの新入り書記を捕まえた。


「濱口君、折り入って相談があるんだけども……」


 甘味で手懐けた新入りは、丁稚の使い走りの如く飛んで行き、代わりに閑人が臨時の相談掛に任ぜられた。どうせ退屈な職務だろうと安請け合いしたが、そういう時に限って相談者が陸続と現れる。面倒臭いし、破れかぶれ、悪戯心が表に出た。


「へい、いらっしゃいまし。今日はどんな品をお探し、お求めでしょうか。当方、古今東西、稀覯本から変わり種の新刊書まで有りと凡ゆる書物を取り揃えておりやす」


 御徒町おかちまちの怪しい小売商を真似てみた。粋な売り文句と思ったが、相談に来た学生はくすりともせず、難しい醫學書の名を告げた。編者か著者は外国人で、翻訳で数年前に出版されたはずだと畳み掛ける。


 分野的に門外漢で、全く見当も付かなければ、異様に長たらしい外国人の名前は二秒で忘れ去った。返答に窮していると、もう独りは浮世絵師の誰それの絵草紙と叫ぶ。そちらも専門外で取り付く島もない。 

 

「いや、目録になければ、ここの蔵書には……」


 素気無く突っ撥ねるのが精一杯。脂汗を額に滲ませ、愈々窮地に差し掛かった頃、濱口が戻って来た。指定の簿冊は無事に受け渡されたようで、脇に大判を抱える。忠嗣はそれを抜き取って、目録室から逃げ去った。



<注釈>

*少輔=現在の事務次官に相当。明治十八年の内閣制度創設に伴い廃止された。

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