37九話『蒙昧なる斬撃が丁稚の至宝を奪い去った』

 膂力りょりょくも見掛けとたがわず逞しく、鉄の塊であろう映寫機を軽々と持ち上げた。まるで紙風船を抱えるかのようだ。濡れ鼠の巨人。ひと言も声を発さず、また大勢が座るテヱブルに眼を配ることもなかった。


「ああ、佐清すけきよ、済まないね。片付けは後でも良いんだけど、気を回してくれて有り難う」


 手にした珈琲カツプをことりと置いて、與重郎よじゅうろうは大男をおもんぱかる。何歳くらいなのか、新参者には見当も付かなかった。書肆の控え目な室内燈が照らし出すのは水気を含んで煌めく頭髪だけで、容貌は窺い知れない。


 それでも少年や二十歳前後の青年にあらず、丁壮ていそうの者と見受けた。店主格の美少年が呼び捨てにしたことから、下男であることは明らかだ。広い肩幅も大きな拳も、用心棒として申し分ない。しかし、得体が知れず、やや不気味な印象を醸し出す。


「今度、古典恐怖映畫の催し上映会があったら、前座か余興で一緒に出品してみようかな」


「今の『狂つた一頁』を紛れ込ますんですか」


「ただ、一時間を超す作品だから、扱いが難しいかも知れないな」


 座を囲む面々は、大男に少しも関心を向けず、雑談に興じる。何かの禁忌に触れ、敢えて避けるという風でもなかった。


 下働きの者の宿命だ。歌舞伎の黒子と同じく、そこに居て、そこに居ない。金曜會の面々にとっては、既に見慣れた、空気に近い存在。一方で新参者は気になって仕方がない。


 上の空で円卓の会話を聞き流しているうち、背後でびたんびたんと鞭を打つかのようなあしおとが鳴る。映寫機を奥に仕舞い、大男が戻って来た。濡れた髪を振り乱し、円卓の脇を横切って見世の奥に向かう。


「ああ、垂れ幕かあ。当家仕様の白い銀幕。それも後で始末すれば良いのだけど、佐清すけきよは纏めて片付けたいんだね。うん、仕事熱心だ」


 與重郎はおもむろに席を立ち、大男を追った。銀幕代わりに天井から吊るした布地を取り外すようだ。同年代、或いは年下に話し掛けるかのような口調が気になったが、忠嗣は眼前の光景を眺めて激しく心揺さぶられた。


 肩車である。與重郎は佐清と呼ぶ巨人の肩に跨って、天井に手を伸ばす。濡れた長い髪を嫌がる素振りもなく、軽やかに乗って留め具から布を取り外す。渠の股間は男のうなじに密着しているはずだ。


 幻聴だろうか、擦れる淫靡な音が耳に届く。


 忠嗣は次の上映会があるのなら、肩車の役回りを買って出ようと、志高く決意し、想像しただけで図らずも勃起した。自らの頸をそっと撫で、その日に向けて襟足を整え、ざっくりと刈り上げることもやぶさかではない。


「随分と気に懸かる様子ですね」


 少佐ら円卓の三人は、肩車を陶然と凝視する忠嗣を眺めていたようだ。


「いや、あの人、誰かなと。別に他意はないんだけども」


 邪な他意に満ちていたが、そう言って取り繕うしかなかった。もし店内が明るければ、微かに紅潮した頬や耳朶が判別されたおそれもあるが、訝しげに見詰める者は皆無。か弱い照明に救われた格好だ。


 四つの留め具から白幕を解放し、與重郎は大きな肩からひょいと飛び降りる。これも軽い身のこなしで、渠の馬乗袴うまのりばかまは濡れそぼっているに違いなかったが、色は黒柿くろがきみは認められない。


 作業を終えた佐清は幕を折り畳み、脇に抱えて引き下がる。そして座り直した美少年の背後を通過する時、不意に、忠嗣と視線が交叉した。瞳は澄んでいて、およ獣染けものじみた體躯たいくに似付かわしくない。年周りは三十路前だろうか。


「佐清さん、忠実まめに働くわね」


 大男が布地を束ねて見世の奥に去った後、ぼそりと櫻子さくらこが言った。一拍措いっぱくおいて、その言葉を耿之介が受け取る。


「気が滅入ることもあろうに、健気なものだ」


 思わせ振りな科白せりふだった。會の常連にとっては素性の知れた小間使いであろうが、新参者は好奇の眼差しを向けるばかりで、皆目見当が付かない。少々呆けた顔をした為か、與重郎が気遣った。


「古くから当家に勤めていて、まあ、身体は大きく、ともすれば柔道家のようにも見えますが、実直で、気立の善い男です」

 

 極めて簡潔に、十年以上前から屋敷で諸々の用を請け負っていると話した。與重郎は詳しく語りたくない様子だったが、櫻子がそれを阻んだ。


 丁稚奉公から手代に昇進するといった在り来たりの使用人ではなく、哀しみを背負った孤独な男だと宣言する。その刹那、美少年の貌に少なからぬかげが宿った。


「佐清さんは昔、少年だった頃に悪どい主人に性器を切り落とされてしまったの。男茎おはせ陰嚢いんのうを奪い取られたのよ」


 男性にとって大切なもの、といった濁す言い回しを嫌うのか、櫻子は直截的な表現を用い、尚且なおかつ、右手の中指を立て、手刀で手首の辺りをすぱっと切る真似をした。突き出した指が茎で、畳んだほかの指が袋。中指が若干、湾曲している点が写実的だ。


 わざわざ手先で性器の形状をかたどる必要はないが、忠嗣はその仕草に戦慄し、ち掛けていた下半身が俄かに縮こまった。少年の去勢……それは、三年前に帝都の尾久紅燈街おぐこうとうがいで起きた阿部定あべ・さだ事件を髣髴ほうふつとさせた。


「残忍で、主人とも言えぬ人非人です。しかも濡れ衣をかぶせられた恰好で、言い訳を検分する間もなく、無慈悲な所業に及んだと聞きます」


 與重郎は一層悲しげな貌をして呟いた。珈琲や紅茶を嗜みながら気軽に話す逸話ではない。少佐はともしたばかりの烟草タバコを揉み消し、小さく溜息を吐いた。


「奉公先で発生した猟奇的な事件で、阿部定のような分析の甲斐がある情動や情痴もなかった。只管に野蛮で前時代的な仕置き。常軌を逸した折檻だね」


 美少年に代わって耿之介が事件の顛末てんまつを語る。約十年前、小間物問屋で下女が手籠てごめにされたと騒ぎ出した。連続して二人。いずれも狼藉を働いた輩は佐清だと訴えた。


 申し出を受け問屋の主人は自ら家宝の日本刀を振い、丁稚の性器を切断する。時に佐清、齢十四か十五。神仏に誓って事実ではない、と説明したが、問答無用に太刀は振り下ろされたという。


「その町、常陸の山間やまあいなんだが、強淫は許されざる大罪で、咎人は等しく根っこから断ち切る因襲いんしゅうがあるのだとか。未だにそんな習わしが残っていることが驚きだ」


「でもね、直ぐに女の狂言だって判明したのよ。女中に惚れた男が佐清さんを恋敵と勘違いしてそそのかした。下働きの女も、そんな仕来りがあるとは思ってもなかったのでしょう。けれども切断した竿も袋も元に戻らない」


 今度は、竿と申す。そこら辺に関しては僅かに自制心が機能するのか、と忠嗣は感心した。


 阿部定事件でも新聞社は男性器の表現に苦労し、局所や急所、下腹部に肉片など各紙様々で定まらなかった。事件で定女さだじょの情夫は死に至ったものの、佐清少年は大出血にも拘らず一命を取り留めた。


 丁稚少年の場合は、下女が白状したことで町醫者に適切な処置が施され、致命傷とならずに済んだ模様だ。しかし、因襲に塗れた田舎町、蜚語ひごも飛び交い、一式を喪った少年の居場所はなかった。


「離れた町の別の卸問屋に送られたところで、偶然にも噂を聞き付けた人物が居た。それが與重郎君の父、私の生涯の盟友にして畏友である杜若惣弦かきつばた・そうげんだ。冴えない卸問屋と直談判し、ここに引き取った。そう、見世の屋号をあらためる少し前のことだね」


「以来、代替りしても良く働いて貰っています。朴訥ぼくとつとして余計なお喋りなんてしない男ですが、さとくて気配りも利く。今や当家に欠かない一員です」


 落武者の如く野放途に伸ばした長い髪、大男ならではの緩慢に見える動作。幾つかの印象から、忠嗣は下男を智慧の足りない粗野な者と捉えていたが、大いなる偏見に基づく勘違いだった。

 

「約束された一生不犯いっしょうふぼん得度とくどしたら立派な僧侶になれるわ。そこいらの姦通坊主は叶わない。私が薦めるのも変だけど、あれよね、女のほうこそ去勢願望があったりする訳よ」


 感心して損をした。それでも、この妙ちくりんな御河童女は、極端なまでに男性器に拘りと愛着があるようで、新参者は同好のよしみを感じた。世間的には非常識で堅気の仕事が務まらぬにせよ、突き抜けた新感覚の変人の部類で、実に悪くない。 


 まだ不犯だ童貞だと話を続けたいようだったが、御開きの時刻である。今回は映畫もあり、長丁場となった。與重郎が勉学に励む時間を奪ってはならぬ。


 早々に面々が帰宅の準備を始め、椅子を片した後、忠嗣は映寫機のあった書肆右奥の様子に違和感を覚えた。島津製作所が誇る人体解剖模型、失敗作とも回収品ともされる内臓剥き出し君が居ない。姿を晦ましている……

 

「ああ、売れたんですよ。忠嗣さん、名前付けてましたよね。六腑君だか五臓君だか。ぼったくり値段でまさか売れるとは思ってもなく、六腑君はここで生涯を終えるものと信じていたんですけど、新天地があったんです」


 正確には苗字が六腑でファアストネエムが五臓だ。身の丈に合わない豪勢な名前だが、忠嗣も同様に引き取り手があるとは考えてもいなかった。


「しかも買ったのが女性です。夜なのに黒眼鏡でしたけど、たぶん若い女性。付人も居て、何処ぞの御嬢様でしょうか。『婦人畫報』の表紙みたいな洒落た花柄のワンピイスを着ていて、小間物を買うかのように値切りもせず、大金を置いて行きました」


「不必要とされる下半身の附録が気に入ったのかな」


「それは櫻子さんだけにしといて下さい。買うに当たって注文がひとつだけあったなあ。剥き出しは嫌なので、布を巻いてくれ、と。手拭いじゃ頼りなかったので、女物の帯をぐるぐる巻き付けたんです」


 その酔狂な女客は持ち帰ると言い出し、與重郎も手伝った。書肆前に横付けした自動車に運び込んだところ、上手い具合に後部座席に収まったという。美少年は呆気に取られつつ、通りで去り行く車を見送った。


「本当に人が二人乗っているみたいだったなあ。媾曳あいびきと言うより、門出かな。我が子を花婿として送り出した父親のような気分でした」


 與重郎はそう言って微かに口角を上げた。確かに珍妙な光景だ。


 一見客の金満女に身請みうけされ、唐突に訪れた人生の門出。花婿となった六腑五臓君は、何処いずこかの屋敷で新たな暮らしを始め、慎ましく淑やかに今宵も突っ立っているに違いない。

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