36八話『書肆の奥に潜む男のノイエタンツ』
「うむ、全然、理解が及ばん。何処で誰が何をする物語なのか」
閉鎖病棟。そんな単語が忠嗣の頭に浮かんだ。音は僅かにもない。無声キネマである。大正末の作品だが古臭くはなく、開幕から数分と経たず、低俗凡庸な
檻房に似た部屋の中、鋲打ち壁に囲まれたベッドもない病室で、若い女は縦横無尽にひらひらと、奔放に踊り狂う。舞い狂う……
しかし、難解であることに相異はない。時間も空間も錯綜する象徴的、抽象的な映像の連続だ。キネマの題名は『狂つた
この日、三回目となる金曜會に参加した忠嗣は、書肆の扉を開くなり、見違えた店内の様子に面喰らった。入って左端の奥には大きな白い幕が垂れ下がり、逆側には映寫機が置かれていた。
「内緒にする
映寫機は書肆の秘蔵品で、以前は頻繁に蔵から引っ張り出したと話す。純国産のエルモ
一度とて見掛けたことのない大柄な男。長い髪を後ろで束ね、
「映寫機の場所は合ってるね。後は垂れ幕。
そして前口上も手短にキネマ上映が始まった次第である。
醫院の門に到着した車から和装の娘が降りる。芸者風の髪型に
「それじゃ、一旦、ここで休憩にします」
何時の間にやら映寫機の脇に控えていた耿之介が上映を止め、店内には仄かな明かりが復活した。キネマの長さは一時間強で、前半部が終わったところだと解説する。
「私、半分以上というか全然、意味が分からないんだけど」
「背筋が凍るって内容でもない。封切り後の評判も上々とか初めに聞いたが、観客は理解したんだろうか。その辺が一番、不思議だな」
少佐も内容に困惑した
「製作陣、監督らの思惑と違って、弁士が付いて、あれこれ解説を加えたんだよね。まあ、文字すら殆ど出て来ないし、理解できないのが普通とも言える」
中断の真意は、耿之介が弁士に成り代わって解説を挟む為だった。忠嗣は、主人公に違いない髭男と頻繁に登場する乱れ髪熟女の関係を問い質した。
「簡単に言えば、夫婦。乱れ髪は心を病んだ女房で、旦那の髭男がこの脳病院に住み込みで働く小間使いなんだ。簪を付けた娘は二人の子供に当たる。入院中の母親を見舞ったってことだね」
「夫婦で家族だったんですか。それを伝える場面はあったのかな。僕、何か重大な見落としをしていますか」
珈琲を淹れながら、與重郎が訊いた。尤もである。男女が夫婦という間柄も、晴れ着が我が子だという
耿之介は、後半の重要な転換点に付いて解説を施した。女房の幻覚に旦那の妄想も入り乱れる展開になると申す。約二十分に及ぶ幕間の質疑応答を経て、再び照明が落とされ、映寫機がぎこぎこと働き出す。
日が暮れて、髭男は
特殊な加工の合成映像。そして消える電球。明るい街並み。一羽の鶏に水路。何処から出来てきたのか、髭男は患者に能面を配り、付けさせる。小面に童子。それらは笑顔で、雰囲気は様変わり、髭男も笑う翁の面を被る。大団円と言っても良い。
「これで終わりなんですか。さて、訓話でしょうか、哲学でしょうか」
「弁士が居ない場合でも、館内には簡単な筋書きの説明文が貼られ、観客は
「表現派ですか。ああ、僕は聞いたことがあります」
室内燈の操作盤を弄りながら、與重郎はそう言った。粗忽者の振りをしているのか、何度も間違えて桃色の電燈を点けたり、消したり、いつもの仄暗い雰囲気に戻すのに少々手間が掛かった。
「正しくは
キネマ上映会は今回が初めてではなく、過去には頻繁に催されたらしい。元来、忠嗣はキネマの話題に疎く、監督も俳優の名も覚束ないが、耿之介がテヱブルに置いた三色刷のチラシを回覧すると、そこには知った名前があった。
「ほほう、これって原作が川端康成なのか。驚いたな」
少佐も目敏く同じ名前を発見した。文豪とは言えないまでも、当代の著名作家の独りである。
「監督と文字の大きさも同じだから、当時から知名度があったのかな。十四年前だから、未だ二十代の頃。どうだろう、少佐。宣伝に使えるくらい有名だったかね」
「封切りが大正十五年の秋か。『伊豆の踊子』が発表された後だから、それはもう知名度は抜群で、謳い文句にもするだろうね」
外見とは裏腹に、少佐は金曜會きっての文學通だという。多読濫読の読書家が誰しも瓶底眼鏡を掛けているというのは偏見だ。この運動選手に似た図体の
「私は踊り子さんが印象に強く残ったわ。バレヱなのかしら、
「櫻子さんは眼の付け処が良いねえ。全編を通じて鮮烈な印象を与えている。獨逸表現派を象徴する最も純粋な結晶と言えるね。舞踊でもダンスでもなく、
金曜會が誇る司会進行役は、気持ちが昂ると
御家箪笥だの葡萄だのといった横道に逸れ捲る一方、唐突に、耿之介の素性と生業が明らかになった。
「廣告取次というと下請け工場みたいですが、実情は逆なんですよ。自慢したり致しませんが、実のところ、新聞社や雑誌の版元を裏から支配している特殊な会社です」
当人は肯定も否定もしなかったが、忠嗣は感心すること頻り、ブロオカア
膝を詰め、廣告社の裏稼業について首を突っ込んで色々と尋ね、場が盛り上がった時、店の隅でごとりと音がした。
忠嗣が慌てて振り向くと、映寫機の脇で、大柄な男が身を屈めていた。来店した際に見掛けた謎の男だ。
作務衣に素足。長い髪は束ねず、濡れたまま、だらりと垂れ下がる。
<注釈>
*『狂つた一頁』=実在するサイレント映画。著作権喪失により各種動画サイトで全編が視聴できる。撮影補助の円谷英一は後の巨匠、円谷英二。本作でも多彩な視覚効果を発案したとされる。
*東亞廣告社=架空の会社だが、本社の場所や役割などは戦後の電通を想定。
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