35七話『男爵令嬢の風説に閑人は思い倦ねる』

 結局のところ、そう長い時間ではなかったものの、杜若與重郎かきつばた・よじゅうろうとの館内ランデブウは充実し、忠嗣にとって忘れ難いひと時となった。


「また今日も、ふらりと来ないかしら」


 禁書庫の扉を叩く音が聴こえるような気がする。幻聴に過ぎぬが、戀しくて戀して、音がないのに耳の奥に響き、気配もないのに心が躍る。勤務中、散漫の限りで、終始うわの空だが、取り立てて神経を払う仕事がある訳でもない。


「もう少し手許に置いて、添い寝でもしたいけど、いい加減、遅れているし、返さぬ訳には行かんのか」


 テヱブルには、ド・ロルド卿の戯曲集が置かれたままだった。付き添いで館内を巡った後、忘れ惚けていたのだ。閑人が手に取ると表紙から美少年の香りがした。


 これも幻嗅げんきゅうの類いに違いないが、洋書独特の匂いのほか、仄かに金木犀に似た芳香が纏わり付いているような……思わず恍惚とし、本能的に股間に当てそうになったが、自重した。借り物の貴重な一冊である。


「研究用とか言って預かった本だしな。耽読することがあっても、股座またぐらに挟んで耽溺してはならぬ」 


 親切心から熱心に掘り出してくれた新入り書記の生真面目な顔が頭に浮かんだ。館員への貸し出しであっても、研究者向けと同じく、返却が遅れると催促するという。


 忠嗣は原書を隠し持ち、大階段を昇った。昨日の昼下がり、美少年と連れ添った場所だ。自らの記憶力を誇ったことなどないが、渠が触った手摺りの箇所を何故か正確に覚えていた。取り敢えず、匂いを嗅いでみたが、消毒作業が行き届いているのか、アルコオル臭が鼻を突いた。


「濱口君、濱口君、居るかなあ」


 二階の目録室は相変わらず混雑し、人熱ひといきれで蒸れていた。目録カアドを捲る閲覧者は誰もが忙しなく、不愉快そうで、ここは帝國圖書館の中でも取り分け居心地の宜しくない場所だ。早々に原書を返却し、素早く立ち去るのが正解である。


「うげげっ」


 目録室の入口で反転するのが正解だった。相談掛は新人書記の職務ではなかったのか……部屋の奥には、九鬼須磨子くき・すまこが椅子に凭れていた。普段の地味な事務服ではなく、花柄のワンピイスを纏い、しかも鼈甲縁の大袈裟な眼鏡を掛けている。


 忠嗣は逃走を試みたが、大声で呼び掛けた手前、踵を返すのも怪しく、加えて、視線も見事に重なってしまった。引くに引けぬ蟻地獄の渕である。


「濱口の代わりの者ならりますが。何用でしょうか」


 早くも怒っている風である。蔵書の私的な持ち出しで、更に館外の無関係者に貸し出した経緯もある。叱られる筋合いもたっぷりだが、須磨子の職務に関係する事柄でもない。それでも、訳ありの原書を検分されるのは不都合で、嫌な予感がした。


「いや、本を返しに来ただけで、これ、書架に戻しておいて欲しいというか、そんな単純作業……」


「はあ。その洋書ですか。どちら様の本かしら」


 悪い予想は概ね当たるものだ。須磨子は本を受け取るや、表紙、背表紙、裏表紙と順番に検査し、ぺらぺらと中身を拝見した上、注意深く奥付を確かめた。戯曲集は何語であっても、活字の組み方で直ぐにそれと判る。


「巌谷司書は佛蘭西語フランスごが堪能なんでしたか」


「え、自慢じゃないけど辛っきし出鱈目で……いや、辞書と首っ引きで及第に達するような」


 思い起こせば、内容は一頁も読んでいない。目次部分の翻訳に苦労し、大して確認もせずに、書肆に持ち込んだのだ。忠嗣は少々狼狽えながら、その場凌ぎで適当に答えたが、須磨子は聞く耳を持たず、書物の中程にある挿絵を凝視していた。


 如何なる展開の涯か、ベッドに横たわる少女を三人組が兇器であやめんとしている。美少年によれば、戯曲は精神的な恐怖が盛り込まれ、知性的との評判だが、絵柄は稚拙で『少年倶樂部』の漫畫まんが風。子供騙しと言い換えても良い。 


「それじゃ、返却事務のほうは宜しく」


 逃げるように、ではなく、素早く逃げ去った。それ以上、余計な会話を交わしたら襤褸ぼろが出ることは確実。加えて須磨子も怖い表情のままで、言葉の兇器で刺される雰囲気だった。


「おや、巌谷司書様。お久し振りですね」


 目録室を出たところで今度は出納手の欽治と対面した。両手一杯に重たそうな書籍を抱えている。忠嗣は挨拶代わりに臀を触り、次いで本を奪い取った。行き先は三階の一般閲覧室だ。運搬を手伝うことに躊躇いはない。


「そんな司書様に運んで頂いたら、叱られてしまいます」


「んな、細けえこたぁ、どうでも良いんだ。了簡の狭い野郎は、こちとらが文句言ってやらあ」


 下手な江戸弁である。欽治は莞爾としたが、やや真顔になって、方言を指導した。漢字で記すと此方人等こちとら。複数形だ、と用法を正す。自分独りを指すことも決して間違いではないが、その際は背後に仲間が控えている状況が前提になる模様だ。


 文部省官吏でありながら、少年に言葉遣いを注意されてしまった。それでも東京方言に限り、欽治のような生粋の江戸っ子は最良の師範である。喋りも仕草も物腰も、学ぶべき事柄は実に多い。

 

「へい、来々軒です。出前を持って参りやした」


 支那蕎麦屋を真似てみたが、上役の司書は無反応で、仏頂面を下げたまま。実に、威張り腐った判事のようで、入館者の評判が宜しくないのも頷ける。


 閲覧室の壇上に重い蔵書を据えた後、欽治と一緒に奥の書庫に立ち寄ったところで、忠嗣はふと嫌な噂話を思い出した。あの須磨子の許嫁だか婚約者だかが、自分だという根も葉もない流言蜚語りゅうげんひごである。


「欽ちゃんはさ、九鬼っていう女書記が近々嫁入りするとか、そんな評判を聞いてるかい」


「いいえ、聞いたこともないです」


 欽治は存ぜぬと申す。風の噂を齎した巡視長は地獄耳を自認する一方、胡乱な情報も取り扱い、虚実を綯い交ぜにして速報する癖がある。下手に触れると、藪を叩いて蛇を出すおそれも高いが、気にならないと言えば嘘になる。


 書庫の奥とあって大声で立ち話をしているうち、手隙の出納手が集まって来た。幾人か見知った顔が口々に礼を言う。先日、ここの少年団にもシベリアを椀飯振る舞いしたのだ。菓子折には下心も詰めていたが、真心と受け取られたようで幸いである。


「九鬼書記って、あの片眼の姐ちゃんだろ」


「そうだけど、眼のことは余り言っちゃいけないよ」


 軽く諌めた。彼女の特徴ではあるが、人前で言葉にするのは礼節を欠き、倫理にもとる。但し、口さがない出納手は、色々な豆知識を持ち合わせ、須磨子が男爵家の令嬢で、地下鐡の青山六丁目駅近辺にある大邸宅に住むなど余分な噂を披露した。


 どうでも良い話だが、青山界隈は忠嗣も例外的に詳しく知る地域だった。母校の國學院大學の学び舎に接し、飯屋を探す等あちこちと散策した街。震災の被害も少なく、立派な屋敷が立ち並ぶ山手だ。


「俺、その噂を聞いたぜ」 


 新たに話の輪に加わった少年が明言した。腕白坊主の親分格といった体躯の出納手で、何やら下足番の娘から耳にしたと語る。更に、もう独り、食堂の女給が話していたと証言する者も現れた。


 いずれも又聞きにかず、火元は判然としないものの、確かに噂は流れているようだ。巡視長の独り合点がてんではない。帰り際に下足番の新入り娘を尋ねたが、早番なのか、不在だった。女給は複数名居て定かではない。


 翌日の出勤時、無論、朝ではなく、正午前の人の出入りが少ない時間帯、忠嗣は下足番娘をつかまえ、やんわりと問い質した。新入りの娘っ子が在らぬ噂の焚き付け役とは思えず、半信半疑であったが、彼女こそが拡散に努めた張本人に他ならなかった。


「誰彼と苗字までは言っておりません。ただ、ここの司書と婚約する話になって酷く困惑しているとか、そんな愚痴に似た感じでした」


 愚痴だったのか、と安堵している場合ではない。帝國圖書館に常勤する司書は四人で、うち独身は忠嗣のみだ。明示しているに等しい。そして何よりも噂の出元が須磨子自身だったことを知って、閑人は驚いた。


 意味が解せない。思惑が透けて見えない。そんな噂を流布して彼女に得があるのか、皆目見当が付かない。近頃の女狐に似たる妙な嬌態、やや丁寧になった口振り。一方で目録室などで対面すれば怒った顔を忘れない。どうにも辻褄が合わず、奸計の匂いが仄かに漂う。


 しかし、地下の廊下を進んで禁書庫に着いた頃には、もうすっかり忘れ、悩みも晴れた。週も後半、今宵は待ちに待った金曜會だ。美少年の味がする珈琲が、湯気も尊く香りも芳醇に、必ずや訪れる者を酔わせてくれる。

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