34六話『見返り美少年とのランデブウに酔う』
突出した記憶力を誇りながらも
巴里グラン=ギニョヲル劇場の座付き作家、アンドレ・ド・ロルドの戯曲集。二回目に書肆を訪ねた折、自慢話の種として誇らし気に持ち寄ったものだ。場の流れに沿って、請われるまま貸し出し、放置していた。書庫の奥から発掘した相談掛の濱口に返却を求められたが、それも忘れていた。
「耿之介さんはロルド卿と呼んでいましたね。伯爵だそうです。座付き作家としてグラン=ギニョヲル座を牽引する傍ら、図書館司書*でもあったというのです」
「恥ずかしながら良く知らなかったんですが、司書って書庫の
唐突に褒められた。座付き作家の素性に関して閑人は何も知らず、また興味もなかったが、同じ司書の職種とあって、得点を挙げる結果となった。好感度上昇で気分も上々。偶然とは言え、悪くない。
「詰まり、ド・ロルドは司書をしながら膨大な量の戯曲を書き綴っていたってことなのかな」
「そうなりますね。司書の仕事をサボタアジュしていた訳ではなく……そう、大学教授が専攻とは微妙に違う分野の本を上梓したりするじゃないですか。それと同じなのではないでしょうか」
微妙に誤解してくれた模様だ。実際のところ、博士が異分野に挑むのとは情況が異なる。忠嗣が知る限り、グラン=ギニョヲル座で上演される芝居、即ち、ロルド卿が紡ぎ出した物語は、どれも悍ましく、低俗であるという。これは佛ラルウス百科事典から獲得した知識だ。
「怪談調のおどろおどろしい芝居なんじゃないのかな」
「ロルド卿は、恐怖のプランス*という異名を持っていました。僕も残忍な怪奇譚だと思い込んでいた
あの銀髪紳士、
「あれ、耿之介さんはこの原書を読んだってことなのかな」
「一部です。僕の通う学校の先生が翻訳中で、完了するのは尚も先かと。翻訳料は耿之介さんが全額負担したんですよ。気前良く前払いで」
中学校の教諭風情に難解な佛蘭西語を自在に扱えるのか、と忠嗣は不安視した。論文と違って戯曲は会話主体で、そこには俗語も気取った言い回しも入り乱れる。簡単そうに見えて実は難易度が高いのだ。
疑義を挟もうと思ったが、
「ここに、手元に原書が戻って来たけれど、翻訳作業の途中なんでしょう。どういうことだろう」
「複写したものがあるんです。陰翳本……違うな、影印本だったかな。全ての頁を丸写しにして、元は
影印本である。歴史的価値の高い貴重な書物を寫眞撮影し、主に研究用に活用するものだ。館内の書架にも多数の影印本が眠り、底本は恩賜京都博物館や宮内省の図書寮などに鎮座する。古文書学の基礎とも言えない。それは司書ならずとも高等行政官なら誰でも知っている。
「でも、影印本を作成するのは結構大変で、手間と技量が要るはず。簡単には作れない代物だ」
「複写は全て
夜更けに対面した風変わりな父娘を忠嗣は思い浮かべた。多数の使用人を雇っていそうな大型の寫眞館だった。御婿さんがどうとか冗談が非常識で、娘が娘なら父親も変わり者の匂いがした。
一瞬、別件の婿話、
「飲み物だけじゃなく、何か食べるかい。天丼が旨いとの評判で、まあ、ほかでも良いんだけど、直ぐに出前を頼めるし」
「いや、お腹が空いていることもなく……しかし、職場で座っていながら出前も取れるんですか。はあ、司書さんって偉い身分なんですね」
盛大な勘違いである。単純に食堂が近いだけという理由で、少しも偉くも畏れ多くもない。忠嗣はソオダ水が底を突いたのを見計い、図書館内を案内すると申し出た。風通しの悪い禁書庫だけ覗いても風味に欠く。
「はあ。でも、お仕事の障りになるのではないでしょうか」
「どっちにせよ用事はない……じゃなくって、さっきも言ったように丁度手隙だし、閲覧者に施設を紹介するのも重要。所謂、サアヸス向上ってやつだね」
半ば強引に誘い出した。帝國圖書館は内部も豪奢な造りで
実際、来客に施設を観せたいとの親切心よりも、美少年を連れている様を見せびらかしたいという邪念が強かったが、成り行きに不自然な箇所は見当たらず、渠は喜んで従った。
「ほほう、吹き抜けの階段。手摺り部分はアールデコ調なのかな。
「館名は大層なんだけど、予算もそこそこの半官的な施設とも言えるね。文部省の外廓と言えば通り易いかな」
大階段で誰か顔見知りと擦れ違うかと想像したが、こういう時に限って館員の姿はなく、登り降りするのは閲覧者ばかりだった。但し、幾人かは興味深そうな視線を與重郎に差し向けた。
矢張り、ひと際目立つ美少年。余所行き仕様の書生服も凛として、名のある歌舞伎役者の如く見える。
「これ、何て書いてあるか、読めるかな」
「おす……あく。うーん、何でしょう。門を開ける呪文か符牒ですか」
大階段と一般閲覧室を隔てる
「答えは、草書体の登という漢字。おす登あくって書いてあって、まあ、これが押すと開くんだな」
旧時代の香りが漂う平假名と草書の組み合わせだ。その昔、本邦では襖や障子のような
「おお、これは見事な天井装飾。本を読む為とは言え、明る過ぎるのが少々勿体無い」
與重郎は吊り下がるシャンデリアよりも、天井に彫られた円形の花輪や、希臘風の石柱が気になるようだった。建物を支える大黒柱ではなく、柱頭飾りも艶やかな
渠によれば、彫刻を愛でるには陰が欠かせず、日差しを浴びて白く光るばかりでは真の姿が捉え難いと申す。芸術論なのか、独特の感性なのか。書肆の幽かな燈火から知れる通り、美少年は陰翳を好む。
忠嗣が傍らを一瞥すると、壇上から司書が睨み付けていた。眼が合った瞬間、面を伏せるのは止めて欲しい。上役の先輩だが、諌めるでも悪態をつくでもなく、ただ無視する。一切合切、関わりたくない様子だ。
「あれ、向こうにあるのは校舎ですね」
上役を監視して少々眼を離した隙、與重郎は大窓に手を凭れ掛け、遠くを眺めていた。窓の先にあるのは安川文庫に若葉賑わう一対の桜樹、そして東京音樂學校の敷地。
「あそこは音楽専門の大學みたいなところだな。奥にある奏樂堂が素晴らしく、時々、演奏会で一般にも開かれていたりする」
「奏樂堂は存じています。実は、あの學校に進みたいんですが、門戸は狭いようです」
初めて耳にする話だった。與重郎は幼少期からヴァイオリンを嗜み、個人教授も招いて練習に励んでいたという。頑なにヴァイオリンをヴィオロンと呼ぶ辺りが実に渠らしい。
「この図書館が東京音樂學校の裏手にあったとは。年明けに挑む予定ではありますが、はてさて、敷居は高いようでどうなることやら」
裏手でも裏庭の附属物でもなく、帝國圖書館は通りに面した表側にあるが、それは兎も角、忠嗣は美少年が音樂學校に通う姿を夢に描いた。隣り合わせで毎日逢える。早くも愛の調べが聴こえて来るようだ。
そして、與重郎が個人的な事柄、将来に関わる
夢を明かす相手は自ずから限られ、徒然に語らぬものだ。人を選ぶ。信用が置け、尚且つ気安く、未来を
<注釈>
*プランス=英語のプリンスと同義。
*図書館司書=ド・ロルドの勤務先は、パリ中心部アルスナルの図書館。執筆等の為、三箇月の長期休暇届を連発し、十数年後に左遷されて別の図書館に異動。
<附録>
【寫眞解説】帝國圖書館潜入編〜⑥〜
https://kakuyomu.jp/users/MadameEdwarda/news/16818023211771728229
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