33五話『扉の向こうに光背を備えたる君がいた』
──
禁書庫の入口に近い書架、第一門の神学宗教の棚。そこで忠嗣は奇妙な書物を掘り出した。菊版假綴の小冊子とあって薄い為、背表紙に文字はなく、表に十文字余りの英語が記されているだけだ。ラティラハスヤと読める。
「これって宗教関連の本に含まれるのか」
瞠目したのは、その英単語の和訳で、性愛秘義とあった。文章は詩篇や経文に似て格調高く、佛教用語も鏤められているが、内容は概ね男女の交会に関するものだ。翻訳者は印度文學研究會で、大正十五年の発刊と記載される。
その小冊子の横には、革表紙の分厚い書物があり、題名は『婆羅門神学・愛経』。見知らぬ単語に出会し、閑人は暫し頭を捻った。愛経は恐らく造語で、性典に類するものなのか……
「学生の時に聞いた覚えがあるな。確か、印度方面だったはず。そう、カーマスートラとか、そんな名前の卑猥な書」
実際は下劣な淫本の類いに非ず、生真面目に綴られた経典で、技巧の指南書とも言える趣きだった。流し読みする限り、神秘の立ち入る隙はなく、円満な夫婦関係を説いているようにも受け取れる。別の類書を検分しても、男色に纏わる秘術は見当たらず、
「男と女なら猿の交尾と一緒で、技も術もなかろうに」
小冊子だけ手許に残し、ほかの辞書紛いは書架に押し戻した。
巷の助平共が興奮気味に小声で囁く幻の聖典。そんな禁書が身近にあったことは嬉しくも誇らしいが、利用できるか否かは微妙なところだ。勿論、房中術として自ら活用せんとする魂胆ではない。
ここ三日ばかり、忠嗣は金曜會で披露する
百科全書に記述されるような在り来たりの雑学では、嘲笑されて終いだ。講談や落語の小噺、結論が見え透いた寓話なども有り得ない。誰もが唖然とし、次いで漏れなく喰らい付く程の大きな仕掛けと鋭い針が必要で、展開も二転三転、意外性に満ちた筋書きでなければならない。
御河童頭こと
せめて一種くらい隠し玉を懐中に納め、切り札を携えていたい。しかし、いざ手配するとなると難しく、暗中模索、五里霧中の足掻きっぷりである。
「御免下さい。巌谷司書先輩、御在中でありますか」
扉を叩く音がした。妙な呼び方をする者は独りしかいない。目録室の新入り書記、濱口である。禁書庫を尋ねて来るとは如何なる風の吹き回しか。若干、胸騒ぎも覚えるが、ここは
「構わん。入り給え」
断続的に軋む音を耳にし、さも億劫な雰囲気で振り向くと後輩の背後に
「突然、押し掛けて済みません。築地のほうに用件があったもので、
余りに唐突な、場違い甚だしくも喜ばしい登場の仕方に、忠嗣は見惚れて暫し言葉を失い、自分を見失い、前屈みで生唾を呑み込むのが精一杯だった。
「目録室で巌谷司書先輩の所在を
「ああ、そうなんだ。じゃあ、君はとっとと帰って……じゃなくて有り難う。與重郎ちゃん、じゃないや、與重郎君、ええと、奥のソファアに掛けて頂戴。で、濱口君は食堂に行ってクリイムソオダを二杯、ここに出前するよう給仕に告げてくれ給え」
後輩は怪訝な面持ちで小首を傾げたが、問答無用で扉を強く閉める。密室の完成。忠嗣は緊張感に塗れ武者震いした。ふと
「間違えた。これじゃ暗過ぎだ。ま、與重郎君、奥に奥に。座って座って」
「渡して直ぐに帰ろうかなと思ったんですが、宜しいのですか。お仕事中ですし」
「ああ、今は丁度、手隙の時間帯で区切りも付いたところなんだ。入館者の相談をするのも重要な職務と言えるし」
変わらぬ衣裳、似合いの書生服である。学生服姿も拝みたいところだったが、訊けば今日は休校日だという。
「立派な図書館で驚きました。四階建てにも五階建てにも見えます。失礼ながら、小さな文庫を想像していたんですが、名前に帝國とある。吃驚しました」
心底、驚嘆している風だった。霞ケ関を
白煉瓦に覆われたルネッサンス様式のモダンな館。外壁には熟練工が設えたメダリオン*と呼ばれる彫刻の飾りがあって、風格も品格も高い。勤め始めて暫く経った頃、華美な装飾に気付き、他人事ながら感心したものだ。
「時々、長い列が出来ているけど、直ぐに入れたのかな」
「閲覧券を買うのに少し手間取りました。それと中に入ってから広くて迷って、本を配る
借出用紙と引き換えに書物を手渡す部門の輩である。閲覧室の奥、高い壇上に立って閲覧者を見下ろす姿は、まるで裁判長のようだと
それは司書の職務で、実際に館内では偉い立場だが、所詮は立ち仕事。ソファアで寛ぐ禁書庫の閑人忠嗣は、ご苦労様、としか言えない。加えて今は、まったり過ごすどころか、美少年相手に相好を崩し、夢心地だ。勤務中とは思えない。
「結局、教えて案内してくれたのは相談掛って訳か。仲々、見所のある後輩だ。
暫しの沈黙。それを軋む扉の音が破った。心臓が止まり掛ける程、忠嗣は
それは舌が
<注釈>
*メダリオン=徽章などを模した大型の立体的な装飾。ドア上部や壁に飾られる。(参考寫眞↓に有り〼)
<参考図書>
印度文学研究会訳『ラティラハスヤ(性愛秘義)』(大正十五年刊 五百部限定私刊本)*作者未所持
大場正史訳『バートン版 カーマ・スートラ』(角川文庫 昭和四十六年刊)
<附録>
【寫眞解説】帝國圖書館潜入編〜⑤〜
https://kakuyomu.jp/users/MadameEdwarda/news/16818023211722471980
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