32四話『ふしだらな流言蜚語が図書館を徘徊する』

 鼻歌を奏でる奴は、莫迦で阿呆で間抜けである。気狂いの一種と言っても良い。そう信じている時もあったが、近頃、忠嗣はふと鼻歌を唄ってしまう自分に気付き、考えをあらためた。


 機嫌上々なれば、欠伸も噯気おくびも笑いとなり、洟水も止まって旋律を奏でるようになる。吉日凶日、悲喜交々と言うが、目出度いことばかりで運気は限りなく上昇する気配。若干、嫌な予感がしないでもないが、辺りに躓く石もなし。渡るに危うき橋もなし。


 騒がず目立たず淑やかに、何時いつもの通り、従来通り、三歩下がって控えれば、つつがなく過ごせるに相違ない。元より出る杭などではなく、常に水面に隠れているのだ。水遁の術に勝る忍法はなし。


 出勤時間も少しばかり早くなった。加えて今日は、風呂敷包ではあるが、手荷物もあって勤め人の風格がある。


 中身は重く嵩張かさばる書類ではなく、甘い香りが外に漏れる甘味類。先日、思わぬ実入りがあり、それを図書館の親しい諸君に振舞ふるまわんと行き掛けに大量購入した。邪念塗れの賄賂ではなく、純粋な感謝の念が仕舞われた菓子折と言えよう。


「あ、面倒な者が居る……」


 閲覧券売場の権亮ごんのすけにひと箱贈呈した後、下足番の陣地に向かうと、そこには立ち話をする九鬼須磨子くき・すまこの姿があった。新入り下足番の町娘と言葉を交わしているようだ。幸い、あしおとなく階段を降りる忍には勘付いていない。


 思わず怯んで身を屈め、階段の手摺りに隠れて様子を窺うと、実に意外なことに須磨子は莞爾と微笑んでいた。愛想笑いとは全く異なる豊かな表情で、暢気な女学生のような屈託なき朗らかさがあった。


 次に、下足番娘が持つはこを見て、再度ぎょっとした。薄紫と白の組み合わせ。自分の風呂敷包の中にある品と包装が全く同じだ。菓子店の包は何処も在り来たりの意匠なのか……ここは偶然の一致と信じたい。


「こんにちは」


 壁伝いに通り過ぎようとしたが、無駄な足掻きだった。隠遁の術、失敗でござるの巻。新顔の元気娘に見付かり、大声で挨拶された。社会に出たならば、無視するところは無視すると学ぶべきである。視なかった振りで、穏便に済ませられる事柄が実に多いのだ。


「相変わらずですね、先輩」


 打って変わって怖い顔で言う。相変わらずではなく、常日頃より一時間相当も早めの出勤で、褒めて貰いたいところだが、遅刻は遅刻である。既に、ひと仕事ふた仕事終えている館員が苛立つのも無理はない。


「まあ、あの小父おじさん、司書の方だったんですか」


 逃げ去る背中に、そんな声が届いた。須磨子が告げたのだろうが、これまで何様だと思っていたのか。大方、早番も遅番もあって出勤時刻が区々まちまちな巡視か請負業者と想像していたに違いない。それよりも、小父さん扱いに気を揉んだ。


「あの新人娘、年周りは與重郎ちゃんと同じくらいだろ。十歳とおも離れると、おっさんに見えてしまうのかしら」


 俄かに不安もぎれば、焦燥にも駆られる。あくまでも書肆の美少年は戀愛の対象で、深みのある交際を念頭に置く。魚心あれば水心、出来心あれば下心。欲を掻かない心算であっても、大人の交際を心懸けたい。


「滅入って来た。少し横になろう」


 禁書庫に入るなり、忠嗣は奥のソファアに寝そべった。今は枕も備え付けられ、肘当て部分の硬さに頭を悩ますこともなくなった。


 過日、巡視長に予備の枕がないか尋ねたところ、直ちに若い巡視が新品を持って来た。ものの数分と待たさず、走って持ち寄ったのだ。一体、何様だと思っているのか。柔らかな枕で、禁書庫は快適さを日々増して行くばかりである。


 ところが天邪鬼なもので、日がな一日、忠嗣がソファアで過ごすことはなく、文机ふづくえで書物を読み漁り、要点や考えを手帖に記す作業も増えた。金曜會の面々に面食らったというのが実情だ。


 過去に出会ったことのない手合いの知識人たちであり、彼らを凌いで上回るのは容易くない。博覧強記と敬われる人物は大学教授にも居たが、志向も嗜好も性向も異なる。古き佳き時代の教養人とは決定的に違うのだ。


 恐らく、暗がりに集う男女は、百科全書から漏れる学識、青史から駆逐された歴史を好んで食す。がっぷり四つで競り合うには、相応の覚悟と忍耐力が問われる。


「あの隠しようもない変態、変質者の匂い。そればかりは何冊の書物を繙いたところで、如何いかんともし難い」


 仕切り役の垣澤耿之介かきざわ・こうのすけのみならず、永池櫻子ながいけ・さくらこも変人の類いだった。


 自ら偉大なる常識人を任じる忠嗣にとって、御河童女の奇行は目に余り、畏れを抱かせた。豊富な見識と弛まぬ努力で奇人になれるものではない。芸人衆と同じく、天賦の才に拠る部分が大半を占め、模して真似て互角に競える筋合いではない。


「あれ、うちの一番の変わり者。何だか今日は早いねえ」


 扉を叩きもせず、巡視長が押し入って来た。時刻は十一時を回った頃か、日頃の常で、禁書庫には誰も居ないと思ったようである。


「いきなり驚いたな。巡視長殿、どうされたんですか、ここに何か用事でも。まさか昼寝しに来たとか」


「勘が良いね。半分当たりだよ。昼寝じゃなくって昼飯。最近、ここで食べてるんだ」


 知らぬ存ぜぬだった。巡視長は混み合う食堂を嫌い、禁書庫のソファアで昼飯を喰らうと明かす。一昨日くらい、忠嗣は醤油の残り香を嗅ぎ取って不審に思ったことがあった。嗅覚の異常かと疑念を膨らませたが、種を明かせば単純。ここで料理を平らげていた猛者が居たのだ。


「料理を運んで来るのは面倒では」


「いや、出前だよ。上の階は無理だけど、近くなら持って来てくれるんだって。ここなら気兼ねしなくて良いし、弁当のない日は今後も恒例だね」


 またしても秀れた智慧を授かった。食堂には欽治きんじ出納手すいとうしゅの少年団と戯れ合う愉しみもあるが、ほかの司書連中など顔を合わせたくない奴とも近接する。出前が頼めるのなら好都合で、心置きなく料理が味わえる。

 

 間もなく、出前のライスカレーが運ばれて来た。飲料水も盆に載せて持ってくる完璧なサアヸス。忠嗣は朝飯を食べたばかりであったが、給仕に同じ品を注文した。館長室でも無理な出前が、何故かここでは可能なのだ。偉くなった気分がしないでもない。


「一風変わった噂を小耳に挟んだのだが」


 大きなスプウンでライスカレーをすくいつつ、巡視長が思わせ振りな口調で言った。


「九鬼君って後輩だから分かるよね。訳あり美人の九鬼君。彼女が秋口にも結婚するとかでさ、そのお相手が巌谷司書って噂なんだよ。婚約者……許嫁って言ってたかな、正確なところは忘れたけど、本当なのかい」


 嘘八百の噂で、根も葉もなければ茎もない。風説には浮き足立つ足もなく、常に荒唐無稽で根拠の欠片かけらすらないが、如何なる風の吹き回しでそんな出鱈目が生じたのか。ここは笑い飛ばすところである。しかし、忠嗣は妙な胸騒ぎを覚えた。


 更に巡視長は、九鬼須磨子が男爵家の令嬢であるとも付け加えた。同じく側聞したこともない噂だ。実現すれば玉の輿、などという軽口も耳に煩わしく聴こえる。忠嗣は福神漬けを摘み喰いし、俄かに表情を引き締めた。


 自分は書肆グラン=ギニョヲルの御婿さんになる、と決意したばかりで、その一途な想いは寸分も狂わない。

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