32四話『ふしだらな流言蜚語が図書館を徘徊する』
鼻歌を奏でる奴は、莫迦で阿呆で間抜けである。気狂いの一種と言っても良い。そう信じている時もあったが、近頃、忠嗣はふと鼻歌を唄ってしまう自分に気付き、考えを
機嫌上々なれば、欠伸も
騒がず目立たず淑やかに、
出勤時間も少しばかり早くなった。加えて今日は、風呂敷包ではあるが、手荷物もあって勤め人の風格がある。
中身は重く
「あ、面倒な者が居る……」
閲覧券売場の
思わず怯んで身を屈め、階段の手摺りに隠れて様子を窺うと、実に意外なことに須磨子は莞爾と微笑んでいた。愛想笑いとは全く異なる豊かな表情で、暢気な女学生のような屈託なき朗らかさがあった。
次に、下足番娘が持つ
「こんにちは」
壁伝いに通り過ぎようとしたが、無駄な足掻きだった。隠遁の術、失敗でござるの巻。新顔の元気娘に見付かり、大声で挨拶された。社会に出たならば、無視するところは無視すると学ぶべきである。視なかった振りで、穏便に済ませられる事柄が実に多いのだ。
「相変わらずですね、先輩」
打って変わって怖い顔で言う。相変わらずではなく、常日頃より一時間相当も早めの出勤で、褒めて貰いたいところだが、遅刻は遅刻である。既に、ひと仕事ふた仕事終えている館員が苛立つのも無理はない。
「まあ、あの
逃げ去る背中に、そんな声が届いた。須磨子が告げたのだろうが、これまで何様だと思っていたのか。大方、早番も遅番もあって出勤時刻が
「あの新人娘、年周りは與重郎ちゃんと同じくらいだろ。
俄かに不安も
「滅入って来た。少し横になろう」
禁書庫に入るなり、忠嗣は奥のソファアに寝そべった。今は枕も備え付けられ、肘当て部分の硬さに頭を悩ますこともなくなった。
過日、巡視長に予備の枕がないか尋ねたところ、直ちに若い巡視が新品を持って来た。ものの数分と待たさず、走って持ち寄ったのだ。一体、何様だと思っているのか。柔らかな枕で、禁書庫は快適さを日々増して行くばかりである。
ところが天邪鬼なもので、日がな一日、忠嗣がソファアで過ごすことはなく、
過去に出会ったことのない手合いの知識人たちであり、彼らを凌いで上回るのは容易くない。博覧強記と敬われる人物は大学教授にも居たが、志向も嗜好も性向も異なる。古き佳き時代の教養人とは決定的に違うのだ。
恐らく、暗がりに集う男女は、百科全書から漏れる学識、青史から駆逐された歴史を好んで食す。がっぷり四つで競り合うには、相応の覚悟と忍耐力が問われる。
「あの隠しようもない変態、変質者の匂い。そればかりは何冊の書物を繙いたところで、
仕切り役の
自ら偉大なる常識人を任じる忠嗣にとって、御河童女の奇行は目に余り、畏れを抱かせた。豊富な見識と弛まぬ努力で奇人になれるものではない。芸人衆と同じく、天賦の才に拠る部分が大半を占め、模して真似て互角に競える筋合いではない。
「あれ、うちの一番の変わり者。何だか今日は早いねえ」
扉を叩きもせず、巡視長が押し入って来た。時刻は十一時を回った頃か、日頃の常で、禁書庫には誰も居ないと思ったようである。
「いきなり驚いたな。巡視長殿、どうされたんですか、ここに何か用事でも。まさか昼寝しに来たとか」
「勘が良いね。半分当たりだよ。昼寝じゃなくって昼飯。最近、ここで食べてるんだ」
知らぬ存ぜぬだった。巡視長は混み合う食堂を嫌い、禁書庫のソファアで昼飯を喰らうと明かす。一昨日くらい、忠嗣は醤油の残り香を嗅ぎ取って不審に思ったことがあった。嗅覚の異常かと疑念を膨らませたが、種を明かせば単純。ここで料理を平らげていた猛者が居たのだ。
「料理を運んで来るのは面倒では」
「いや、出前だよ。上の階は無理だけど、近くなら持って来てくれるんだって。ここなら気兼ねしなくて良いし、弁当のない日は今後も恒例だね」
間もなく、出前のライスカレーが運ばれて来た。飲料水も盆に載せて持ってくる完璧なサアヸス。忠嗣は朝飯を食べたばかりであったが、給仕に同じ品を注文した。館長室でも無理な出前が、何故かここでは可能なのだ。偉くなった気分がしないでもない。
「一風変わった噂を小耳に挟んだのだが」
大きなスプウンでライスカレーを
「九鬼君って後輩だから分かるよね。訳あり美人の九鬼君。彼女が秋口にも結婚するとかでさ、そのお相手が巌谷司書って噂なんだよ。婚約者……許嫁って言ってたかな、正確なところは忘れたけど、本当なのかい」
嘘八百の噂で、根も葉もなければ茎もない。風説には浮き足立つ足もなく、常に荒唐無稽で根拠の
更に巡視長は、九鬼須磨子が男爵家の令嬢であるとも付け加えた。同じく側聞したこともない噂だ。実現すれば玉の輿、などという軽口も耳に煩わしく聴こえる。忠嗣は福神漬けを摘み喰いし、俄かに表情を引き締めた。
自分は書肆グラン=ギニョヲルの御婿さんになる、と決意したばかりで、その一途な想いは寸分も狂わない。
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