31三話『鬼女が夜更けの東郷公園に独り彳む』
尺八の音が耳に届いた。
「いや、色街散歩は趣味に合わんし、今宵は素直に帰宅するか」
追い払われるような無粋はなかった。金曜會は間延びして続くことなく、約二時間、売り物の柱時計が二十一時半を指した頃、御開きとなった。
會の面々は円卓を片付けるや、間もなく漏れなく、そそくさと書肆を後にした。花柳街の料亭で一杯引っ掛ける習慣も流儀もなく、急に
「疲れた勤め人にも見えないが、それなりに忙しい連中なのかも知れん」
二回目の参加とあっても挨拶は淡白で、各々の詳しい素性は分からぬままだった。尋ねる雰囲気でもなく、
新たに知ったのは、和装の
「涯がないのが貧民窟で、涯があるのが色里か。幾度か来ても、御座敷の広がり具合が見当付かん」
やや広い通りと交叉する四ツ辻が境界線のひとつで、華やかな夜の街は、あっさりと終わる。置屋も茶屋も無際限に広がることなく、明確な涯があり、民家が立ち並ぶ堅気の町と
吉原遊廓で言えば四方を囲む
遊んだのか、弄ばれたのか。そこは花柳街の風情に欠く、寂れた岡場所に等しかった。大學の悪友に誘われて、知りたくもない女を初めて知った町。
「女と一緒に居る時の表情を見れば、凡そ判別できる。與重郎ちゃんは、どう見ても童貞顔で穢れがない」
俄かに妄想が肥大化したところで、木立に付き当たった。九段の坂上から小さな谷が見渡せる箇所、大樹が育つ空き地がある。明治の御代に築かれた屋敷は何処に移ったのか……日露の戦役も昔語りに成りにけりだ。
職場の東京市地図にも記載がない真新しき
前に偶然から発見した恰好の公園である。初めて書肆グラン=ギニョヲルを訪ねた夜、手当たり次第に古書を購入し、財布が空になった。圓タクを拾うどころか市電の切符も買えず、仕方なしに徒歩で帰途に就いた。
一時は野宿も考えたが、それこそ無知蒙昧で、富士見花柳街から自宅のある平河町は至近だった。隣町とは言えずとも、元帥公園から南に下って
「嫌だな、あれ、人が居るじゃないか……え、人だよな」
奥の長椅子に腰掛けようと木立を縫って進むと、向こうに人影が認められた。花壇の傍、ぼうっと
立ち止まり、懐中時計を確かめると、時刻は二十時に迫る。子供も御老体も
忽ち、乾いた音が静寂の杜に響く。ぎょっとして振り返ると、老女の首が小刻みにゆっくりと、恰も壊れた
生唾を呑み込む音が、耳の奥、雷鳴の如く轟く。
「あら、忠嗣さんじゃないですか。こんな街外れで会うなんて……いいえ、そんな偶然があるはずもなく、何で
此岸と彼岸の狭間に漂う
「そんな酔狂な趣味があるはずもないし。あれだ、家がこっちの方角なだけで、歩いて帰る途次という次第」
「なんだ詰まらない。
妄想も激しい。典型的な厄介女で、深く関わって損ずるのは此方……忠嗣は愛想笑いひとつで場を去ろうと決意したが、面白そうな物を抱え持っている。小柄な
「それって、もしかしなくてもキャメラか。お嬢さんこそ、夜更けに
「何よ、お嬢さんとか嫌らしい。ファアストネエムで呼び合うのが、會の決め事でしょ。まあ、それは良しとして、このツアイスで朧月を撮ろうとしてたのよ。梢の上、雲が過ぎるを待って、絶妙な瞬間を捉える」
大仰な寫眞機には単眼の上、人面に
「瞬間を撮影したいってのは分かるが、こんな
「それは言えないし、言いたくもない。あ、良い形の雲が近寄って来た。これ、背伸びしないと上手く撮れないわねえ。忠嗣さん、私の前でお馬さんになって呉れないかしら。背中に乗っかれば、たぶん具合が良い」
藪から棒に無茶を言う。地べたに四つん這いになれと命じるのだ。
金曜會の新参者は、この日、美少年を誘惑する思惑も半分、一張羅の背広を纏っていた。坑夫の作業着とは桁が違う。仕立ても生地も高級品であることは一目瞭然。土に膝を付けるなど有り得べからざる格好だ。しかし櫻子は、急げ、と言って引き下がらない。
有無を言わせぬ口振り。忠嗣は仕方なくズボンの裾を慎重に折り畳み、家畜宜しく踏み台となった。三脚ならぬ四脚。御河童頭が赫い鼻緒の草履を脱ぎ、足袋で背中に乗ったのは、せめても礼節だろう。
丈が足りずに梢が邪魔になるのであれば、二歩三歩と退けば良いとも思えるが、その智慧が足りていないのか。暫く背上で格闘した後、
「失敗したかも。どうにも光の加減が思わしくない」
言動と行動の不一致。忠嗣は、婦女子の自惚れた妄想だと一笑に
櫻子の自宅は、東郷元帥公園から西に向かった
「そこが与謝野ご夫妻のお屋敷のひとつなのよ」
近所の名物夫婦ではなく、歌人の
当代の人気作家が散策する姿を度々見掛け、挨拶を交わすこともあると申す。秩父の田舎者にとっては衝撃的だ。
「四ツ谷驛に行く途中には、有島武郎や菊池寛、泉鏡花のお家があってな、中村吉右衛門も住んどるんやで」
何故か関西方言で自慢気に話す。生まれも育ちも五代六代前も、生粋の江戸っ子だと言い張る彼女の自宅は、大きな女學校の
裏手に回って通用口の呼び鈴を鳴らすと、恰幅の良い親爺がぬっと出て来た。
「うちの父ちゃんや。なあ、父ちゃん、遅うなったさかい、送って貰うたんや。この人が、婚約者やで」
「ほんまか、櫻子。ええ背広着てはるし、靴もええ。こりゃ懐ろも温かいに違げえねえ。
一体、何を言い始めるのか。忠嗣は失禁し掛けたが、胡乱な上方言葉で、随所に江戸っ子が混じる。父娘の表情を見れば尋ねるまでもなく、それは冗談だった。面白半分で時々演じるのだと明かす。誠にけったいな親子だ。
娘を屋内に仕舞うと父親は改まって礼を述べ、問答無用といった雰囲気で駄賃を忠嗣に握らせた。今一度、卒倒し掛ける。東京市内の端どころか、秩父までタクシイで行ける程の額だった。
大儲けである。仕事を早退し、美少年と優雅なひと時を過ごし、その上で望外の報奨金まで手に入った。若干、後ろめたくもあるが、構わない。この父親に命ぜられれば、
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