31三話『鬼女が夜更けの東郷公園に独り彳む』

 尺八の音が耳に届いた。煌々こうこうあかりともる屋敷の二階は、待合茶屋か貸席か、将又はたまた、半玉風情の溜まり場か。ここは富士見の花柳街、眠らぬ里の眠れぬ夜に、通りを抜ける風もなく、色香漂い、熱気も籠る。


 幇間ほうかんらしき小男独り、風呂敷片手に小走りで、ひたひた行くは裏の筋。ふたり三人肩組んで、酔客よろめく横丁の、奥の奥にも光あり。匂い白粉おしろい、半分に、酒のさかなが焦がれて焦げる。


「いや、色街散歩は趣味に合わんし、今宵は素直に帰宅するか」


 追い払われるような無粋はなかった。金曜會は間延びして続くことなく、約二時間、売り物の柱時計が二十一時半を指した頃、御開きとなった。與重郎よじゅうろうの勉学の邪魔にならぬよう、興が乗っても幕を降ろすという。


 會の面々は円卓を片付けるや、間もなく漏れなく、そそくさと書肆を後にした。花柳街の料亭で一杯引っ掛ける習慣も流儀もなく、急にしおが退くように居なくなり、気付けば忠嗣独りが店内に取り残される恰好となった次第だ。


「疲れた勤め人にも見えないが、それなりに忙しい連中なのかも知れん」


 二回目の参加とあっても挨拶は淡白で、各々の詳しい素性は分からぬままだった。尋ねる雰囲気でもなく、また、尋問を受けることもなかった。


 新たに知ったのは、和装の御河童おかっぱ女が奇人変人であると知れた程度。二代目店主こと與重郎に関しても同様で、私語を交わす機会も僅かにして、新たに判明した事柄は皆無と言って良い。釣果乏しく、小指一本の肉体的な接触さえ得られなかったことが至極残念で、若干の虚しさも募る。


「涯がないのが貧民窟で、涯があるのが色里か。幾度か来ても、御座敷の広がり具合が見当付かん」

 

 やや広い通りと交叉する四ツ辻が境界線のひとつで、華やかな夜の街は、あっさりと終わる。置屋も茶屋も無際限に広がることなく、明確な涯があり、民家が立ち並ぶ堅気の町と区劃くかくされる。


 吉原遊廓で言えば四方を囲む御歯黒溝おはぐろどぶ。刀を預ける大門の《おおもん》は無いにせよ、色里の造りは何処も似ていて、忠嗣が学生の時分に遊んだ内藤新宿の盛り場も同じだった。


 遊んだのか、弄ばれたのか。そこは花柳街の風情に欠く、寂れた岡場所に等しかった。大學の悪友に誘われて、知りたくもない女を初めて知った町。詮無せんなくもあり、無様でもあり、記憶から消し去りたい苦い想い出でもある。


「女と一緒に居る時の表情を見れば、凡そ判別できる。與重郎ちゃんは、どう見てもで穢れがない」


 俄かに妄想が肥大化したところで、木立に付き当たった。九段の坂上から小さな谷が見渡せる箇所、大樹が育つ空き地がある。明治の御代に築かれた屋敷は何処に移ったのか……日露の戦役も昔語りに成りにけりだ。


 職場の東京市地図にも記載がない真新しきくつろぎの場、その名も東郷元帥記念公園という。引っ切りなしに自動車が行き交う都心の路も、塀が延々と連なる街並みも未だ慣れず、人気の無い静寂の杜に接して忠嗣は安堵した。


 前に偶然から発見した恰好の公園である。初めて書肆グラン=ギニョヲルを訪ねた夜、手当たり次第に古書を購入し、財布が空になった。圓タクを拾うどころか市電の切符も買えず、仕方なしに徒歩で帰途に就いた。


 一時は野宿も考えたが、それこそ無知蒙昧で、富士見花柳街から自宅のある平河町は至近だった。隣町とは言えずとも、元帥公園から南に下って一粁いちキロにも満たない。市内詳細地図を検めて忠嗣は愕然とし、自嘲したものだ。國電やら市電やらの複雑な路線図が帝都の縮尺を歪めている。


「嫌だな、あれ、人が居るじゃないか……え、人だよな」


 奥の長椅子に腰掛けようと木立を縫って進むと、向こうに人影が認められた。花壇の傍、ぼうっとたたずみ、夜空を見上げている。暗がりの中、肉眼では覚束ないが、身形は古風な老女のようだ。昭和の世に現れて宜しい代物ではない。


 立ち止まり、懐中時計を確かめると、時刻は二十時に迫る。子供も御老体もうに寝床に就く頃合いだ。茂みを越えて公園を出ようと決意し、四歩五歩と歩んだ瞬間、枝を踏み付けてしまった。


 忽ち、乾いた音が静寂の杜に響く。ぎょっとして振り返ると、老女の首が小刻みにゆっくりと、恰も壊れた絡繰からくり人形であるかのように、と廻る。


 生唾を呑み込む音が、耳の奥、雷鳴の如く轟く。


「あら、忠嗣さんじゃないですか。こんな街外れで会うなんて……いいえ、そんな偶然があるはずもなく、何でかんが働かなかったのかしら、私、ずっと尾行されていたんですね」


 此岸と彼岸の狭間に漂う山姥やまうばの霊に非ず、御河童頭だった。しかも、とんだ勘違い女である。


「そんな酔狂な趣味があるはずもないし。あれだ、家がこっちの方角なだけで、歩いて帰る途次という次第」


「なんだ詰まらない。けられて、寂しい公園の植え込みで乱暴された挙句、くびくくられて千鳥ケ淵の藻屑になるのかと、そう想ったのに残念だわ」


 妄想も激しい。典型的な厄介女で、深く関わって損のは此方……忠嗣は愛想笑いひとつで場を去ろうと決意したが、面白そうな物を抱え持っている。小柄な永池櫻子ながいけ・さくらこの手に余る大きく、無骨な器械。遠くの街燈を反射して、単眼がきらりと光った。寫眞機だ。


「それって、もしかしなくてもキャメラか。お嬢さんこそ、夜更けに人気ひとけない公園で撮影とか、実に怪しい」


「何よ、お嬢さんとか嫌らしい。ファアストネエムで呼び合うのが、會の決め事でしょ。まあ、それは良しとして、このツアイスで朧月を撮ろうとしてたのよ。梢の上、雲が過ぎるを待って、絶妙な瞬間を捉える」


 大仰な寫眞機には単眼の上、人面になぞらえれば眉毛の辺に「ZEISS」なる商標とおぼしき刻印があった。訊くと櫻子は高価なことで遍く知られる獨逸の光学會社だと自慢する。「ゼイスス」ではなかった。


「瞬間を撮影したいってのは分かるが、こんな夜夜中よるよなかに物好きな。必要に迫られたとしても、第一、夜中に寫眞なんか撮れるとも思えず」


「それは言えないし、言いたくもない。あ、良い形の雲が近寄って来た。これ、背伸びしないと上手く撮れないわねえ。忠嗣さん、私の前でお馬さんになって呉れないかしら。背中に乗っかれば、たぶん具合が良い」


 藪から棒に無茶を言う。地べたに四つん這いになれと命じるのだ。


 金曜會の新参者は、この日、美少年を誘惑する思惑も半分、一張羅の背広を纏っていた。坑夫の作業着とは桁が違う。仕立ても生地も高級品であることは一目瞭然。土に膝を付けるなど有り得べからざる格好だ。しかし櫻子は、急げ、と言って引き下がらない。


 有無を言わせぬ口振り。忠嗣は仕方なくズボンの裾を慎重に折り畳み、家畜宜しく踏み台となった。三脚ならぬ四脚。御河童頭が赫い鼻緒の草履を脱ぎ、足袋で背中に乗ったのは、せめても礼節だろう。


 丈が足りずに梢が邪魔になるのであれば、二歩三歩と退けば良いとも思えるが、その智慧が足りていないのか。暫く背上で格闘した後、やがて四脚を椅子代わりにして草履を履くと、櫻子はぽつりと漏らした。


「失敗したかも。どうにも光の加減が思わしくない」


 ねぎらいの言葉はなかった。そして撮影を諦めると今度は用心棒を務めるよう、何か当然のように要求する。花街の周縁は治安も悪く、女性の夜歩きは危険極まりないと申す。


 人気ひとけない公園に独り彳んでいた経緯と大いに矛盾するが、界隈は破落戸ごろつきも酔っ払いも多く、場合によっては千鳥ケ淵に浮かぶ最悪の結果を招くと語る。


 言動と行動の不一致。忠嗣は、婦女子の自惚れた妄想だと一笑にそうとしたものの、実際、妙齢の女性がふらふらと徘徊して良い時刻ではない。


 櫻子の自宅は、東郷元帥公園から西に向かった番町ばんちょうだという。見知らぬ帝都の不案内な界隈だが、少々の興味を惹かれ、閑人ひまじんは諒解した。平河町の官舎に戻っても、與重郎と逢った日は悶々として仲々寝付けぬものなのだ。


「そこが与謝野ご夫妻のお屋敷のひとつなのよ」


 近所の名物夫婦ではなく、歌人の鐵幹てっかん晶子あきこの邸宅だった。御河童頭によれば、一帯には明治大正の頃より、歌人や文豪に畫家も加えて数多あまたが住まい、さながら「文人町」といった趣きだと誇る。


 当代の人気作家が散策する姿を度々見掛け、挨拶を交わすこともあると申す。秩父の田舎者にとっては衝撃的だ。


「四ツ谷驛に行く途中には、有島武郎や菊池寛、泉鏡花のお家があってな、中村吉右衛門も住んどるんやで」


 何故か関西方言で自慢気に話す。生まれも育ちも五代六代前も、生粋の江戸っ子だと言い張る彼女の自宅は、大きな女學校の斜向はすむかいにあった。和装の娘とは不釣り合いな西洋風の立派な寫眞舘。蓮っ葉でも獏連あばずれでもなく、都会の御嬢様だった。


 裏手に回って通用口の呼び鈴を鳴らすと、恰幅の良い親爺がぬっと出て来た。


「うちの父ちゃんや。なあ、父ちゃん、遅うなったさかい、送って貰うたんや。この人が、婚約者やで」

 

「ほんまか、櫻子。ええ背広着てはるし、靴もええ。こりゃ懐ろも温かいに違げえねえ。出来でかしたぞ。うちの道樂娘を貰うてくれるなんざ、有り難え」


 一体、何を言い始めるのか。忠嗣は失禁し掛けたが、胡乱な上方言葉で、随所に江戸っ子が混じる。父娘の表情を見れば尋ねるまでもなく、それは冗談だった。面白半分で時々演じるのだと明かす。誠にな親子だ。


 娘を屋内に仕舞うと父親は改まって礼を述べ、問答無用といった雰囲気で駄賃を忠嗣に握らせた。今一度、卒倒し掛ける。東京市内の端どころか、秩父までタクシイで行ける程の額だった。


 大儲けである。仕事を早退し、美少年と優雅なひと時を過ごし、その上で望外の報奨金まで手に入った。若干、後ろめたくもあるが、構わない。この父親に命ぜられれば、よろこんで四つん這いになる所存だ。

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