30二話『女は漢の逸物を口に咥えんとした』

 書肆グラン=ギニョヲルは屋号が示す通り、書店である。しかし、書架は両端の隅に並ぶ限りで、得体の知れない古道具が数を上回る。ふらりと立ち寄った一見いちげんの客は、骨董屋と見紛みまがうだろう。


 忠嗣も秩父市中の古道具屋を冷やかした経験があったが、この九段富士見の見世は決定的に違う。時代掛かった壺や箪笥、描き手の知れぬ絵画など有り触れた骨董はひとつとてなく、奇妙奇ッ怪、曰因縁いわくいんねんを帯びていそうな代物が幅を利かす。人体解剖模型の眷属たる骸顱しゃれこうべが、そうだった。


「今では島津製作所の一手専売になった骨格標本だけれど、引く手数多で高く売れると知って、真似する輩も続出した。贋物が本物に擦り変わる、本物が贋物を騙るって、頓知か落語みたいな話だね」


 仕切り役の銀髪紳士、垣澤耿之介かきざわ・こうのすけの談話は、脈絡なく右往左往し、次元を超えて差し替えられる。


 寸前までは、骨を自宅に飾る趣味が少しも可笑しくないという論旨だった。曰く、欧州の貴族は狩った鹿の頭蓋骨を誇らしげに居間に飾る。曰く、骨は人に恐怖心を抱かせる一方、本能的な好奇心を呼び起こす要素を秘める……


 金曜會の新参者は、身を乗り出して拝聴したが、話は途中で尻切れ蜻蛉となり、急に本物と贋物を巡る講談調の小噺に飛躍した。展開を追うのも精一杯だが、與重郎よじゅうろうも含め、ほかの會員は慣れた雰囲気である。


「もしかして骨格標本の贋物って、本当の人骨ということですか」


「その通り。與重郎君、勘が鋭いな。島津製作所の傑作商品だと偽って、人骨を売りさばく輩が多く居たらしい。見た目は同じ骸骨だし、何処かに商標や製品番号が刻まれている訳でもなし。やりたい放題だね」


真逆まさか、そこに座っているのが、贋物で本物の人骨という落ちじゃないでしょうな」


 少佐と渾名される男が、ぎょっとした顔で会計卓のほうを見遣った。角帽は被った骨組みの美少年は、そのままの姿勢でたたずむ。改めて観察すると書生服の肩の辺りが細っこく、異様な感じは否めない。明るい電燈の下に置いたなら、遠目でも造り物と知れただろう。


 黙して座る骨格標本は、與重郎の父君が、という触れ込みで入手したものだという。中古品としていちに流れた標本。それをあたかも闇の逸品のように騙り、高値で卸そうと謀った模様だ。 

 

「残念ながらと申すべきか、紛い物ではなく正真正銘の標本で、贋の人骨だった。特殊繊維とあって手触りで判別できる。まあ、昔の人でも本物の人骨に触れたことがある者は滅多に居ないだろうけどね」


 そうした入手経緯を笑って聞きつつ、忠嗣は父君の安否を懸念した。先週、離れの二階で骨の片脚を瞥見して以来、それを父君の遺骸だと信じ込み、妄想を膨らませ、會の面々を犯罪集団一味と決め付けたのである。


 事実は異なった。なれば、健康が芳しくないという父君は、何処に居るのか。大方、屋敷の一室で養生しているのだろうが、耿之介の口振りからは既に故人であるかのような印象も感じ取れた。少々の謎は残る。


「苔類が樹木になる過程で獲得したのがリグニンと呼ばれる化合物で、木質素と言う場合もある。しかし、それを分解する白色不朽菌はくしょくふきゅうきんの登場まで長い長い歳月をけみした。三億年ほど前かな」


 気付くと、人骨詐欺師の話から恐竜の物語にうつり変わっていた。一瞬の早業、どんでん返しのよう。


「朽ちた植物が分解されず、酸素が減った。その頃に出現した恐竜は小さかったようだけど、リグニンの御蔭で炭素が減り、酸素が急激に増えたんだよ。それで恐竜も植物も巨大化することになった」


 話の流れも辻褄も解せぬが、恐竜には余り興味がない。


 忠嗣はカツプを手に、隣の美少年を窺った。鶯色の着流しが粋で格好良く、肌襦袢などを着ていないのか、頸筋から胸板の上まで露わで、これが如何にも色っぽい。


 口腔こうこうに生唾が溢れるのも自然の摂理。直向ひたむきに努力すれば、乳首ちちくびも拝めそうである。それは必ずや桃色で可愛らしい。


「各国の地層から恐竜の骨が続々と発見されている。ジュラ紀や白亜紀と言ったら一億年以上も前だよ。それなのに骨は分解されず、好物にするバクテリア、微生物も登場していない。妙だよね」


 再び骨の話に舞い戻った。化学的に正しいのか否か、知識の乏しい忠嗣には分かりかねるが、会話の骨子は概ね崩れていないようだった。骨折り損のひと苦労、などと軽口を挟みたい場面でもある。 


「それじゃ、人骨も土葬の地域なら探せば、掘り起こせば手に入るということでしょうか」


 與重郎は会話の流れを把握している模様だ。熱心な学生に似て、性格は生真面目と言える。恐らく、授業中に居眠りした経験はないに違いない。

 

「本邦は酸性の土壌が多いから何処にでもある訳じゃないよ。綺麗な状態で残っていることは稀だ。数が少ないからこそ、島津製作所の標本が人気を博して品薄になったって次第だろう」


「都合の良い人骨がそこらでただで手に入るなら、わざわざ特殊な繊維でこしらえる必要もなかった訳ですね。それで、微生物が存在しないのが妙とは、どういう意味ですか」


 矢張り美少年は、脇目も振らず教諭の言葉を片言も逃さずに聴く優等生のようだ。教諭役は、これも真摯な表情で受け答える。


「神の意思とか、自然の道理を超えた意図がそこにあると思えてならない。肉は間もなく土に還るのに、骨だけは残って存在を主張する。存在した、過去に在ったと生者に訴え掛けているようにも思えるんだ」


「ほほう、これは意見が一致したな。亡者は骨と化した後も永く地上に留まって、生きる者に向かって叫んでいるじゃないかな。向こうの髑髏みたいに。死を想え。京都学派の田邊元たなべ・はじめさんが言う、メメントモリだ」


 少佐こと筋肉質の中年男は、ひどく納得した風にうなずきながら、一言いちげんを挟んだ。聞き慣れぬ外国語が飛び出し、また横道に逸れる気配が濃厚。案の定、御河童女が不敵な笑みを浮かべて割って入った。


「メメントモリって、元の古代羅馬では死生観に繋がる宗教的な教えではないんだとか。死を想って今をたのしめといった、そんな享楽的な考えのようです」


 忠嗣は俄かに焦った。これまで御河童頭の永池櫻子ながいけ・さくらこについて、女学生に毛が生えた程度の変わり者と見做していたが、インテリゲンチャの匂いも漂う。


 人は外見では判断付かぬものだ。いや、和装一徹の後ろ姿が老婆に見えるのは、ある意味正しく、老練で奥深く、多くの智慧を隠し持っている人物かも知れない。


 多少ならず怯み、身構え、新参者は接し方をあらためようと心に誓ったが、櫻子は、純粋な知識人と呼べる並大抵の女ではなかった。


 会話が再び骨格標本に戻り、島津製作所のもうひとつの商品、あの人体解剖模型に及んだ時、彼女は異様な行為に及んで忠嗣の度肝を抜いたのである。


「骸骨は市販の商品ですけども、内臓剥き出し男のほうは試作品だか、回収品だか、ふたつと市場に出回らないものなんです」


 先ず、與重郎の案内で、一同が人体解剖模型の前に集まった。血みどろ五臓六腑の人型ひとがた、その下半身の最も特徴的な器官を値札が覆い隠している。陰部は陰部にかずといった有り様。日の当たるところにいずることは滅多にない。


「教材として不都合だったようです」


 人形とは言え、美少年が股間を弄る姿は卑猥だった。皆が視線を注ぐ中、ぺろりと値札を捲ると、そこには性器があった。男物の少々だらしない逸物いちもつ。それを見遣り、見下みおろして少佐が妙な声を上げた。


「あれ、人体模型に男性器なんてあったっけか。醫官いかんの研究室で見たことあるけど、記憶にないな」


「そうなんです。普通は附属してないらしいんですね。内臓や動脈静脈を学ぶ為の模型で、特に性器は必要なく、逆にあったら教える側が困るという。尋常*の学童には見せたくないとか。そこで島津製作所は市販品からぎ取ったんです」


「可哀相に都合で去勢されちまったってことか。まあ、こっちの坊やは痛くもないだろうけど」


 模型の設定年齢は何歳くらいか。中性的な要素はなく、丸刈り頭から男児であることは間違いない。忠嗣は、性器こそ教育に欠かせない部位だと考えるが、世間はそう捉えない模様だ。狭量な見識と言える。


 冴えない代物で覇気も精気もない。こんな粗末なものを見て、女学生が興奮する訳なく、男子が目覚めるはずもない。去勢する理由があるとすれば、精緻な血管や内臓の造りに対して性器は何処か抽象的で、現実離れしているという点だろうか。


「触るからじゃないかしら。ほら、美術館の塑像とか、皆が触って手垢で黒光りしてるでしょ。ついつい触っちゃうのが乙女心なのよ」


 櫻子は亀頭を指で爪弾き、更に何の戯れか、指で輪っかを造り、口で咥える真似をした。想像を絶する下品な仕草で、しもの忠嗣も意表を突かれ、驚愕する。


 しかし、周囲の男たちは少しも動ぜず、與重郎は小袖で口許くちもとを隠しながらも明け透けに笑った。


 ここにおわす面々、金曜會の者たちは破廉恥集団なのか。盗人の一味よりも非常識にして鄙陋ひろう麁陋そろう。エログロとは言い得て妙で、それは銅貨の両面にして不可分なのかも知れぬ。


 しかし、痛快とも表現できる。固い職場とは対照的な憩いの場だ。驚きながら、呆れながらも、忠嗣は確かな手応えを受け取った。

 

<注釈>

*尋常=尋常小学校のこと。

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