43六話『東洋の書肆に降臨せし伝説の“残酷卿”』

 新参者の女と忠嗣の勤め先が同じと聞いて、杜若與重郎かきつばた・よじゅうろうは大層驚くも、それ以上は立ち入らなかった。誰の眼にも偶然とは映らぬが、たずねる者はなく、定刻を迎えて金曜會は至極普通に幕を開けた。やや不自然な印象も否めない。


「かなり難儀したんですけど、漸く翻訳が仕上がりました。結構な量です」


 二代目店主は、原稿用紙の束を机の上に置いた。書肆の屋号の由来となった巴里パリグラン=ギニョヲル座。その不気味な芝居小屋を名を高めた座付き作家、アンドレ・ド・ロルド卿の戯曲集を和訳したものだ。


 耿之介こうのすけが出資し、暁星ぎょうせい学園の教師が手間を掛けて日本語に移し替えた。俗語のほか、巴里市内の地名や街路名が頻出し、翻訳作業はたびたび停頓ていとんしたとこぼす。


 忠嗣は原書を入手した功績を讃えられたが、発掘したのは相談掛そうだんがかりの新入りで、褒められても苦笑するしかなかった。


 それよりも、今は視界にちらつく九鬼須磨子くき・すまこの存在が気になって、動悸が切迫し、珈琲カツプを持つ手もふるえる。周囲に悟られまいと考えると、余計に振動し、口許くちもとに運ぶことさえ容易くない。


「赤色で記される修正部分もそのまま。達筆過ぎて、原稿用紙だと読み辛い箇所も多いと思う。一話は幕数も少なく、小説で言えば短編か掌編に当たるのだけど、回し読みしている時間はなさそうだね」


 どの作品も甲乙が付け難い、と言いつつ司会進行役は一篇を選び、粗筋を語り始めた。題名は『蝋人形』と短い。


「巴里市内、ブールヴァアル通りの酒場で男たちが口論を始める。議題は恐怖感についてだ。幼い頃、怪談を聞くと、誰しも真夜中の寝具の中で縮み上がるものだ。すると独りの男が、自分には生来、得体の知れないものに対する恐怖感が全くないと言い出す。それで賭けを始めるんだ」


 小説ではなく、芝居の脚本であることを強調した。演劇独特の視覚効果が常に考慮され、言葉だけでは伝え難い点が多々あると釈明する。


 忠嗣は神妙に聞き入ったが、視線は定まらない。耿之介の隣席には須磨子が座り、従来と異なる円卓の風景が奇妙な、一種の幻のように見える。悪いほうに作用する視覚効果だ。


「賭けの場所はモンマルトルの蝋人形館に決定した。荒れ模様の夜更け、何ものにも怖れないと言い張る男は、そこで一夜を過ごすことになった。恐怖に駆られ、外に逃げ出したら、男の負けという仕組みだね」


 滔々と喋る弁士を隣の須磨子は仰ぐようにしてみつめている。彼女の加入で金曜會の面々は六人に増えた。席次は概ね決まっていて、忠嗣は初回から與重郎の隣に陣取る。


 かれの右横が司会役で、新入りの女は不幸にも真正面に位置していた。顔と顔が向き合う恰好だが、彼女が前を向くことは少なく、カツプを持ち上げる際は俯き加減で、こちらに視線を注がない。


「蝋人形館の管理人は袖の下を受け取ると、喜んで迎え入れた。普通の蝋人形じゃない。どれも古くて黄ばみ、見るからにおぞましい。更に、殺人事件を再現していて、ナイフを持った男も居れば、血塗れ屍体の人形もある」


「視覚効果を考えているんだろうけど、舞台背景は矢張りグロテスクなんだな。恐怖劇場の中にもうひとつの恐怖劇場があるって入れ子構造か」


 少佐が口を挟んだ。時計回りで忠嗣の左隣。その脇が永池櫻子ながいけ・さくらこという席次で、これは毎回変わらない。今宵は女性が並んだ恰好である。


「大衆向けだから仕掛けは分かり易い。当時、ベルエポックの巴里市民もグロがお好きだったようだね。それで暫くすると、取り残された男に恐怖感が芽生えて来た。隙間風が人の笑い声にも聴こえる。近くに誰か居るのではないか。たまらず、燐寸マッチを擦って明るくするも、えるのは気味が悪い蝋人形の顔」


 異形と言って差し支えない。日中、帝國圖書館の廊下で擦れ違った時とは髪型が大きく様変わりしていた。須磨子は長い前髪を纏め上げ、頭頂部で結んでいる。


 芸者の銀杏返いちょうがえしや平安絵巻の大垂髪おおすべらかしといった風流なものではなく、雑に護謨ゴム紐でゆわき、童女の丁髷ちょんまげに近い。


 都会風の髪型を誇る彼女にしては、型破りとも言えた。普段は前髪を垂らし、顔の半分を見え難くしている。左側の偽眼いれめを隠す為の独特の仕様だ。


 忠嗣はまなじりで捉えつつ、はたと気付いた。不自然な丁髷で須磨子は故意に偽眼を見せている……そう意図を読み解くことも出来る。


「また笑い声が聴こえた。芽生えた恐怖感は確実なものとなった。こらえ切れず、男が三本目の燐寸を点けると、高い位置に蝋で造られた生首が並んでいる。そのひとつが眼を動かし、口を開いて、舌を長く伸ばす」


「生ける生首の恐怖譚でしょうか。良いですね。ぞくぞくします」


「おや、與重郎君は、原稿を読んだんやあらへんの」


 櫻子が怪しい上方訛りで訊ねた。翻訳原稿はかれが仕入れたものだが、一部を読んだだけで耿之介に手渡したと説明する。活字と違い、手書きの原稿は振り假名もなく、読むのに苦労するものだ。  


「本邦の怪談なら、ここで逃げ出すところだが、西洋は事情が違う。生ける生首に出会でくわした男は、ふところから拳銃を取り出し、その額に一発、穴を開ける」


「解決の仕方が乱暴だなあ」


「だよね。そして銃撃した場面の次は翌朝で、管理人が屍体を発見する。生首は友達が演じていたものだった。賭けに勝とうとして悪戯を仕掛け、殺されたんだ。一方、撃った男は狂乱し、正気を取り戻すことはなかった」


 一巻の終わりである。掌編と紹介されたとあって、短い物語だった。忠嗣はやや呆気に取られたが、須磨子や與重郎が気になって、講談を一語とて漏らさず聴いていた訳ではなく、上の空で聞き逃した部分もあった。寸評する資格はない。


 話の途中、新入り女をちらちらと窺う美少年の仕草に不安を覚えたのだ。須磨子は美人との誉れも高く、時折、発情した牝犬と化する。寝取られるおそれも無きにしも非ず。別の意味で危険な要素と言える。

 

「新派演劇とは随分違う印象だ。話の構造が直線的で、獨逸ドイツ表現派とも異なる。恐怖と言っても小泉八雲なんかの怪談とは比較できない種類だし、怪異ではなく、日常に潜む恐怖かな」


 少佐がどのような感想を得たのか、言葉からは推し量れなかった。辛口の好い評価とも甘口の批判とも受け取れる。忠嗣も似たような印象を覚えた。ロイド卿に与えられた「恐怖のプランス」なる二つ名とは開きがある。


「私は何と申しましょうか、とても興味深く拝聴させて頂きましたわ」


 唐突に須磨子が会話に参加した。しかも、日頃の無表情でも不貞腐れた顔でもなく、愛想笑いを浮かべている。勝気な口調はすっかり影を潜め、淑女然とした振る舞い。忠嗣はおののいた。真夜中に独り観る黄ばんだ蝋人形よりも怖い。


「ほほう、須磨子さんに好評を貰えるとは、この一篇をり出して良かった」


 講談師は優しく微笑みを返した。こちらもまた珍しく、ついぞ拝んだことのない面持ち。親ほど年齢の離れた紳士が妙齢の女性に接するものとは違い、そこには男が女に対して催す春情しゅんじょうに似た淫靡な色があった。


 図書館の後輩を何者とも知らず、強引に金曜會に誘った張本人が耿之介だった。あわよくばめかけにでもしたいといった魂胆があるのやも、と先輩は訝ったが、それが実現すれば全て丸く収まるようにも思える。


 所詮は他人事。美少年さえ奪われなけば良いのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る