43六話『東洋の書肆に降臨せし伝説の“残酷卿”』
新参者の女と忠嗣の勤め先が同じと聞いて、
「かなり難儀したんですけど、漸く翻訳が仕上がりました。結構な量です」
二代目店主は、原稿用紙の束を机の上に置いた。書肆の屋号の由来となった
忠嗣は原書を入手した功績を讃えられたが、発掘したのは
それよりも、今は視界にちらつく
「赤色で記される修正部分もそのまま。達筆過ぎて、原稿用紙だと読み辛い箇所も多いと思う。一話は幕数も少なく、小説で言えば短編か掌編に当たるのだけど、回し読みしている時間はなさそうだね」
どの作品も甲乙が付け難い、と言いつつ司会進行役は一篇を選び、粗筋を語り始めた。題名は『蝋人形』と短い。
「巴里市内、ブールヴァアル通りの酒場で男たちが口論を始める。議題は恐怖感についてだ。幼い頃、怪談を聞くと、誰しも真夜中の寝具の中で縮み上がるものだ。すると独りの男が、自分には生来、得体の知れないものに対する恐怖感が全くないと言い出す。それで賭けを始めるんだ」
小説ではなく、芝居の脚本であることを強調した。演劇独特の視覚効果が常に考慮され、言葉だけでは伝え難い点が多々あると釈明する。
忠嗣は神妙に聞き入ったが、視線は定まらない。耿之介の隣席には須磨子が座り、従来と異なる円卓の風景が奇妙な、一種の幻のように見える。悪いほうに作用する視覚効果だ。
「賭けの場所はモンマルトルの蝋人形館に決定した。荒れ模様の夜更け、何ものにも怖れないと言い張る男は、そこで一夜を過ごすことになった。恐怖に駆られ、外に逃げ出したら、男の負けという仕組みだね」
滔々と喋る弁士を隣の須磨子は仰ぐようにして
「蝋人形館の管理人は袖の下を受け取ると、喜んで迎え入れた。普通の蝋人形じゃない。どれも古くて黄ばみ、見るからに
「視覚効果を考えているんだろうけど、舞台背景は矢張りグロテスクなんだな。恐怖劇場の中にもうひとつの恐怖劇場があるって入れ子構造か」
少佐が口を挟んだ。時計回りで忠嗣の左隣。その脇が
「大衆向けだから仕掛けは分かり易い。当時、ベルエポックの巴里市民もグロがお好きだったようだね。それで暫くすると、取り残された男に恐怖感が芽生えて来た。隙間風が人の笑い声にも聴こえる。近くに誰か居るのではないか。
異形と言って差し支えない。日中、帝國圖書館の廊下で擦れ違った時とは髪型が大きく様変わりしていた。須磨子は長い前髪を纏め上げ、頭頂部で結んでいる。
芸者の
都会風の髪型を誇る彼女にしては、型破りとも言えた。普段は前髪を垂らし、顔の半分を見え難くしている。左側の
忠嗣は
「また笑い声が聴こえた。芽生えた恐怖感は確実なものとなった。
「生ける生首の恐怖譚でしょうか。良いですね。ぞくぞくします」
「おや、與重郎君は、原稿を読んだんやあらへんの」
櫻子が怪しい上方訛りで訊ねた。翻訳原稿は
「本邦の怪談なら、ここで逃げ出すところだが、西洋は事情が違う。生ける生首に
「解決の仕方が乱暴だなあ」
「だよね。そして銃撃した場面の次は翌朝で、管理人が屍体を発見する。生首は友達が演じていたものだった。賭けに勝とうとして悪戯を仕掛け、殺されたんだ。一方、撃った男は狂乱し、正気を取り戻すことはなかった」
一巻の終わりである。掌編と紹介されたとあって、短い物語だった。忠嗣はやや呆気に取られたが、須磨子や與重郎が気になって、講談を一語とて漏らさず聴いていた訳ではなく、上の空で聞き逃した部分もあった。寸評する資格はない。
話の途中、新入り女をちらちらと窺う美少年の仕草に不安を覚えたのだ。須磨子は美人との誉れも高く、時折、発情した牝犬と化する。寝取られる
「新派演劇とは随分違う印象だ。話の構造が直線的で、
少佐がどのような感想を得たのか、言葉からは推し量れなかった。辛口の好い評価とも甘口の批判とも受け取れる。忠嗣も似たような印象を覚えた。ロイド卿に与えられた「恐怖のプランス」なる二つ名とは開きがある。
「私は何と申しましょうか、とても興味深く拝聴させて頂きましたわ」
唐突に須磨子が会話に参加した。しかも、日頃の無表情でも不貞腐れた顔でもなく、愛想笑いを浮かべている。勝気な口調はすっかり影を潜め、淑女然とした振る舞い。忠嗣は
「ほほう、須磨子さんに好評を貰えるとは、この一篇を
講談師は優しく微笑みを返した。こちらも
図書館の後輩を何者とも知らず、強引に金曜會に誘った張本人が耿之介だった。あわよくば
所詮は他人事。美少年さえ奪われなけば良いのだ。
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