44七話『偽眼の女が薄ら嗤う九段の恐怖劇場』

「少佐の言う直線的な構造の意味は分からへんけども、情念が渦巻く古めかしい怪談よりは好みやねん。演劇だと想定すると、蝋人形館は舞台として面白そうやし」


 御河童頭おかっぱあたまこと櫻子にもロルド卿の戯曲は好評だった。忖度せず、思い付いたことを噛み砕かずに喋る娘である。そして、初御目見えの女性とも気安く言葉を交わす。とあって、早くも打ち解けているようだ。


「耿之介さん、この原稿はどうしますか。飲み物をこぼしてしまったらいけないし、もう仕舞っても良いでしょうか」


 與重郎は目の前にうずたかく積まれた原稿が邪魔で、珈琲カツプを置くのにも往生していた。


「回覧する時間はないし、仕舞っておこう。零細の版元に掛け合って活字にしてみたいんだが、内容的に穏便とは言えず、微妙な線かな。この訳出やくしゅつで検閲を通過するか否か、須磨子さんに渡して検分して貰おうかと思ってね。宜しいですか」


「はい。私で不足がなければ、承りますわ」


 依怙贔屓えこひいきだ、と忠嗣は思った。本来なら、先輩格で帝國圖書館の司書でもある自分に依頼することが正しい筋道であるが、耿之介は何処の馬の骨とも知れぬ新参者に大切な原稿の束を預けるという。


 忠嗣は少しばかりそねんだが、彼女も禁書類に詳しい書記であり、通り縋りの一見客ではない。


 自動車で書肆に乗り附け、あの人体解剖模型を即金で払った上客。原稿を持ち逃げして行方を晦ますことは有り得ない。勤め先も硬い役所同然で、身形も整っている。人はそれだけで信用を勝ち得るものだ。


「それじゃあ、これ随分と重たいですが、預けます」


 美少年は原稿の束を行李こうりに詰め、更に紙袋に入れて須磨子に手渡した。特製の紙袋。表裏には片假名でグラン=ギニョヲルと記され、九段富士見の文字もある。それを見て、忠嗣は禁書庫での一幕を思い出した。


 卯月の桜花おうか賑やかなりし頃、文机の脇に放置した謹製紙袋を侵入した彼女に見られたことがあった。特徴的な屋号で、所在地まで丁寧に記される。その持ち主、忠嗣がこの書肆に足を運んでいる事実はうにていたのだ。


 円卓の下をちらりと窺うと、彼女の足許には紙袋のほかに洒落た布鞄。それに着替えを収めたようだ。須磨子は普段の素っ気ない事務服ではなく、しろぎぬに花鳥を遇らったモダンなワンピイスを纏う。ここに到る道中で更衣ころもがえしたに違いない。

 

「それじゃ、卓上がいたところで、うちの傑作を見て貰いまひょか」


 胡散臭い上方訛りとは裏腹に、櫻子が手提げ包みから抜き出した一冊の書物は、傑作と呼ぶに相応しいものだった。以前、禁書庫の閑人が與重郎に授けたロルド卿の原書である。


 正確には、その複製本だが、おそれ入るたくみの技で、一瞥した限り、実物との差が見当たらない。綴じ目も丁寧なら、紺色の表紙もそのまま。無断で館外に持ち出した司書が、図書館へ返し忘れたのかと狼狽するほど完璧な模倣だった。


「相変わらずの徹底した仕事ぶりだ。御父上に宜しく伝えておいてね。では、その原書よりも重厚な双子を回覧しつつ、グラン=ギニョヲル座の戯曲に関して、能書きでも垂れようかな」


 講談の再開を前に、櫻子は隣席の須磨子に複製本を授けた。少佐はそれを機に新参の女のほうに眼を向けたが、銀髪紳士と異なって眼差しに卑猥な色はない。ふくよかな胸許よりも複製本に興味ありといった雰囲気だ。


 受け取った後輩書記は、本の重さに戸惑った素振りを呈しつつ、ぱらぱらと捲る。その姿、主に彼女の顔の辺りを凝視しながら、耿之介は満足そうな表情で再び話し始めた。


「息子のデスマスクが喋ったり、夫の墓の横に育ったかしの木が人と化したり、そんな幻想譚風味の戯曲もあるが、たいていは思い違いや妄想で、怪談を期待すると足を掬われる」


「デスマスクって聞いたことがあります。エドガア・ポオの小説だったかな」


 書肆の二代目店主は探偵小説が好みらしく、以前、会計卓に雑誌『新青年』が置かれていたこともあった。また、店内の書架にはポオ以外にも名の知れぬ外国作家の圓本が並ぶ。どれも背表紙が傷み、持ち主が熱心に読み込んだか、或いは相当に古いものと見受けた。


「向こうの習慣らしいね。葬儀社がサアヸスの一環として屍相の写しを取るんだ。石膏せっこうや蝋でね。のこされた家族は遺影を飾るんじゃなく、デスマスクを飾り付ける。好い趣味だと思わないかい」


 耿之介が屍体愛好家であることをあか科白せりふだった。笑顔の遺影なら故人を懐かしくしのぶことが出来るが、立体的な死顔しにがおは頂けない……忠嗣には悪趣味の極みに思えてならなかった。


「デスマスクの話は場所が屋敷だったかな。ほかに城館なども出て来るけど、醫院いいんが舞台の戯曲が多い。かなり著しい偏り方だ。しかも避病院*みたいなところじゃなく、脳病院。これは『カリガリ博士』や『狂つた一頁』にも重なるね」


「病院が舞台ってのは少し地味じゃないかな。蝋人形館や古い城はゴチツク調で恐怖心を掻き立てるだろうが、病院は造りも調度品も簡素だ」


 少佐は少し不満を抱いているようだった。巴里グラン=ギニョヲル座は今や悪趣味の代名詞になっているという。その評判、印象と掛け離れ、肩透かしを喰らった恰好か。


無声映畫むせいえいがとは違って次々に殺人が起こる。当然とばかりに惨劇は繰り返される。後半はどれも血塗れだね。そして脳病院の患者だけではなく、醫家も狂気に満ちていて、患者の両眼を抉ったり、あ、失礼、心臓に電極棒を刺したりと野蛮の限りを尽くす」


「成る程、それはグロテスクだ」

 

 番町ばんちょうのと或る寫眞館で作成された複製本が美少年に廻ってきた。り気無く身体を寄せて、忠嗣も一緒に閲覧する。活字は鮮明で小さな但し書きも読み取れるが、如何せん佛蘭西フランス語とあって内容は僅かにも理解できない。


 その中に何点かの挿絵があり、與重郎は捲る手を止めて眺めた。


 意味不明の活字を追っても詮方なく、今は絵を吟味するしかない。稚拙な学童向け漫畫まんが風の挿絵。ベッド上の女が三人組に襲われている……忠嗣はその絵に見覚えがあった。


「芝居小屋の寫眞はないんですね。これは戯曲集の為に描かれた絵でしょうか。済みません、耿之介さん。この挿絵が何という物語のものか分かりますか」


 そう言って美少年は重い本を持ち上げ、くるりと反転させて講談師に見せた。


「ええと、それは多分『メゾン・ド・フの犯罪』だね。直訳すると気狂いの館になるけど、検閲を恐れて穏当に癲狂院てんきょういんと訳したんだっけかな。まあ、実際、それも病院の殺人事件で、女性患者が頭のおかしな女たちに惨殺される」


「癲狂院でそんな恐ろしいことが起きるんですか」


「いや、いや、それは恐怖芝居の話さ。現実では起こり得ないから安心してくれ給え」


 忠嗣は、ふと思い出した。殺人の場面の挿絵は原書を返却する際に目録室で須磨子が眼を止めていたものだった。帝國圖書館から蔵書を持ち出した挙句、印刷所に送って複製本を作るという極めて不都合な事実も知られた次第だ。


 あの時は偶々たまたま臨時の相談掛そうだんかかりを勤めていた。折り重なる偶然。彼女はこの書肆に妙な縁があったとも言える。


「いわゆる精神医療分野は十九世紀末に飛躍的な発展を遂げ、知識人層の関心が高かったようだ。ロルド卿は医者の息子であったことに加え、ソルボンヌ大學の専門医とも親交を結び、智慧を授かっていたとも言われる。異常心理、狂気に対する探究心が戯曲に結実してると言っても過言ではないね」


 今宵は耿之介の独壇場だった。翻訳を精読したのは彼独りで、時折、少佐と與重郎が質問を投げ掛けるに留まった。新参者の女は意見を挟まず、押し黙っていたものの、終始、笑顔を絶やさない。ある意味不気味で、忠嗣にとっては、この書肆こそが恐怖の劇場に等しかった。

 

 講談師の舌は益々滑らかに、殆ど横道に逸れず、語りも更に熱くなった頃、不意に書肆入り口の黒檀こくたんの扉が開かれた。


 大男の影。久方振りに佐清すけきよが姿を現したのである。書肆の奥ではなく、何故かおもてからの登場。そして背後に何者かを率いている。  


「皆様方、大変恐縮で御座いますが、限度を迎えました。御嬢様、御帰宅の時刻になります」


 背後の者は、御抱えの運転手であった。店内にある売り物の柱時計は、二十一時の鐘が鳴る寸前。語り部の息荒く聞き逃したが、何時の間にやら表に迎えの車が到着していたようだ。開け放たれた扉の向こう側、書肆前の通りには臙脂えんじ色のドアも仰々しい自動車の影があった。


「ああ、そうでしたわ。話の途中、腰を折るようで大変失礼致しました。私には門限というものがあるので御座あます。とても満足の行く、興味の深いひと時を過ごせましたこと、御礼を申し上げ、退席させて頂きます。それでは、御機嫌よう」


 一礼し、須磨子が足許の紙袋と布鞄を取り上げようとするや、運転手はそれを制し、脇に抱え持つ。明らかに下男ではなく、身形も立ち居振舞いも上品。一同が呆気に取られる中、令嬢は足早に去り、そして、通りには自動車の静かな排気音が響いた。



<注釈>

*避病院=明治期に設置された伝染病専門の隔離病舎。


<参考図書>

アンドレ・ド・ロルド著/平岡敦訳『ロルドの恐怖劇場』(ちくま文庫 平成二十八年刊)

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