44七話『偽眼の女が薄ら嗤う九段の恐怖劇場』
「少佐の言う直線的な構造の意味は分からへんけども、情念が渦巻く古めかしい怪談よりは好みやねん。演劇だと想定すると、蝋人形館は舞台として面白そうやし」
「耿之介さん、この原稿はどうしますか。飲み物を
與重郎は目の前に
「回覧する時間はないし、仕舞っておこう。零細の版元に掛け合って活字にしてみたいんだが、内容的に穏便とは言えず、微妙な線かな。この
「はい。私で不足がなければ、承りますわ」
忠嗣は少しばかり
自動車で書肆に乗り附け、あの人体解剖模型を即金で払った上客。原稿を持ち逃げして行方を晦ますことは有り得ない。勤め先も硬い役所同然で、身形も整っている。人はそれだけで信用を勝ち得るものだ。
「それじゃあ、これ随分と重たいですが、預けます」
美少年は原稿の束を
卯月の
円卓の下をちらりと窺うと、彼女の足許には紙袋のほかに洒落た布鞄。それに着替えを収めたようだ。須磨子は普段の素っ気ない事務服ではなく、
「それじゃ、卓上が
胡散臭い上方訛りとは裏腹に、櫻子が手提げ包みから抜き出した一冊の書物は、傑作と呼ぶに相応しいものだった。以前、禁書庫の閑人が與重郎に授けたロルド卿の原書である。
正確には、その複製本だが、
「相変わらずの徹底した仕事ぶりだ。御父上に宜しく伝えておいてね。では、その原書よりも重厚な双子を回覧しつつ、グラン=ギニョヲル座の戯曲に関して、能書きでも垂れようかな」
講談の再開を前に、櫻子は隣席の須磨子に複製本を授けた。少佐はそれを機に新参の女のほうに眼を向けたが、銀髪紳士と異なって眼差しに卑猥な色はない。
受け取った後輩書記は、本の重さに戸惑った素振りを呈しつつ、ぱらぱらと捲る。その姿、主に彼女の顔の辺りを凝視しながら、耿之介は満足そうな表情で再び話し始めた。
「息子のデスマスクが喋ったり、夫の墓の横に育った
「デスマスクって聞いたことがあります。エドガア・ポオの小説だったかな」
書肆の二代目店主は探偵小説が好みらしく、以前、会計卓に雑誌『新青年』が置かれていたこともあった。
「向こうの習慣らしいね。葬儀社がサアヸスの一環として屍相の写しを取るんだ。
耿之介が屍体愛好家であることを
「デスマスクの話は場所が屋敷だったかな。ほかに城館なども出て来るけど、
「病院が舞台ってのは少し地味じゃないかな。蝋人形館や古い城はゴチツク調で恐怖心を掻き立てるだろうが、病院は造りも調度品も簡素だ」
少佐は少し不満を抱いているようだった。巴里グラン=ギニョヲル座は今や悪趣味の代名詞になっているという。その評判、印象と掛け離れ、肩透かしを喰らった恰好か。
「
「成る程、それはグロテスクだ」
その中に何点かの挿絵があり、與重郎は捲る手を止めて眺めた。
意味不明の活字を追っても詮方なく、今は絵を吟味するしかない。稚拙な学童向け
「芝居小屋の寫眞はないんですね。これは戯曲集の為に描かれた絵でしょうか。済みません、耿之介さん。この挿絵が何という物語のものか分かりますか」
そう言って美少年は重い本を持ち上げ、くるりと反転させて講談師に見せた。
「ええと、それは多分『メゾン・ド・フの犯罪』だね。直訳すると気狂いの館になるけど、検閲を恐れて穏当に
「癲狂院でそんな恐ろしいことが起きるんですか」
「いや、いや、それは恐怖芝居の話さ。現実では起こり得ないから安心してくれ給え」
忠嗣は、ふと思い出した。殺人の場面の挿絵は原書を返却する際に目録室で須磨子が眼を止めていたものだった。帝國圖書館から蔵書を持ち出した挙句、印刷所に送って複製本を作るという極めて不都合な事実も知られた次第だ。
あの時は
「いわゆる精神医療分野は十九世紀末に飛躍的な発展を遂げ、知識人層の関心が高かったようだ。ロルド卿は医者の息子であったことに加え、ソルボンヌ大學の専門医とも親交を結び、智慧を授かっていたとも言われる。異常心理、狂気に対する探究心が戯曲に結実してると言っても過言ではないね」
今宵は耿之介の独壇場だった。翻訳を精読したのは彼独りで、時折、少佐と與重郎が質問を投げ掛けるに留まった。新参者の女は意見を挟まず、押し黙っていたものの、終始、笑顔を絶やさない。ある意味不気味で、忠嗣にとっては、この書肆こそが恐怖の劇場に等しかった。
講談師の舌は益々滑らかに、殆ど横道に逸れず、語りも更に熱くなった頃、不意に書肆入り口の
大男の影。久方振りに
「皆様方、大変恐縮で御座いますが、限度を迎えました。御嬢様、御帰宅の時刻になります」
背後の者は、御抱えの運転手であった。店内にある売り物の柱時計は、二十一時の鐘が鳴る寸前。語り部の息荒く聞き逃したが、何時の間にやら表に迎えの車が到着していたようだ。開け放たれた扉の向こう側、書肆前の通りには
「ああ、そうでしたわ。話の途中、腰を折るようで大変失礼致しました。私には門限というものがあるので御座あます。とても満足の行く、興味の深いひと時を過ごせましたこと、御礼を申し上げ、退席させて頂きます。それでは、御機嫌よう」
一礼し、須磨子が足許の紙袋と布鞄を取り上げようとするや、運転手はそれを制し、脇に抱え持つ。明らかに下男ではなく、身形も立ち居振舞いも上品。一同が呆気に取られる中、令嬢は足早に去り、そして、通りには自動車の静かな排気音が響いた。
<注釈>
*避病院=明治期に設置された伝染病専門の隔離病舎。
<参考図書>
アンドレ・ド・ロルド著/平岡敦訳『ロルドの恐怖劇場』(ちくま文庫 平成二十八年刊)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます