45八話『遁げる閑人に安樂死の匂いが纏わり附く』

 慣れ親しんだ禁書庫が、地下深くに設けられた牢獄のように思える瞬間があった。その全てが幻聴だったが、扉の軋む音が耳の奥で気味悪く唸り、陰湿にこだまする。


 職場で焦りを滲ませることは、文部省に入って間もなくの頃以来だ。居ても立っても落ち着かない。平静を装おうと気張るものの、逆の作用しかもたらされぬ。


「こんな時は、翻訳作業に没頭するに限る」


 コンサイスの佛和ふつわ獨和どくわ辞典、それに加え、手垢塗れの英和辞典。春先に職場に持ち込み、湖水詩人の作品と格闘したことが懐かしく感じられた。文机ふづくえに積み、適当に蔵書を引っ張り出して和訳を試みるも、気は晴れず、不安は重く伸し掛かる。


 今にも背後の扉が開かれ、九鬼須磨子くき・すまこが現れるように思えてならないのだ。


 ここ最近、発禁図書を運んで来る機会は大幅に減少し、この十日ばかり、影もなかった。それ故、唐突に登場する予感に包まれ、気が気でならない。過剰な心配、不必要な警戒であるにせよ、生来の小心も手伝って、絶え間なく神経が擦り減る。


「精神的な恐怖の意味が幾らか理解できたようにも」


 須磨子の書肆グラン=ギニョヲル出現が、偶然のはずはない。それが忠嗣が思案した末の結論である。しかし、動機に関しては皆目見当が付かない。


 趣味趣向は知らねども、猟奇や怪奇とは無縁の真っ当な、やや悪く言えば真面目腐った堅物。密かに骸顱しゃれこうべを愛でるような傾奇者とは思えなかった。  


「普通、頭蓋骨なんて衝動的に買わないよな。島津製作所の造り物と勘違いしたのか。でも、與重郎ちゃんのことだから丁寧に本物だと説明するはずだし、どうにも解せない」


 六腑五臓君こと人体解剖模型を連れ去ったのも彼女である。骸顱も黒穂くろんぼ行李こうりに仕舞い入れ、自室に隠すことは可能だ。だが、学童の背丈に勝る人体模型は秘蔵する訳にはいかない。家人に知られ、公になる。

 

 その点は金曜會の面々も大いに興味を惹かれていた。須磨子が退席した後、新入りの女性について雑談を交わす流れになったのである。血塗れで内臓剥き出しの坊やは、一体全体、邸宅の何処に飾られているのか。


「御屋敷であれば大きな蔵もあって、それが彼の新しい部屋になるのでしょう」


「いや、当主も同じ変わり者で、客間に配置することも有り得るやろ。その為に腰布を巻いて、男根を隠したんや」


 自動車の送迎に厳しい門限、そしてしつけられた側仕そばづかえ。誰の眼にも良家の子女、令嬢であることは明らかだった。面々による雑談は家柄の想像と空想に終始し、職場での素行など個人的な事柄には及ばず、彼女の最大の特徴とも言える偽眼いれめについて触れる者はなかった。


 非常識な趣味を持ち合わせた面々であるが、一定の節度を保ち、身体的な障害を嘲笑うような下等な真似はしない。しかし、忠嗣は気にせずには収まらなかった。


 普段、職場での彼女は前髪を垂らし、左眼を隠しているのだ。時には縁の太い眼鏡も掛ける。それが會に於いては、小童擬こわっぱもどきの丁髷ちょんまげを造り、敢えて偽眼を見せ付けていた。不自然極まりなく、勿論、意図的である。れど、そこに秘められたる真意は解せぬ。


「職場とは違う遊興の場所だし、素顔を曝け出したってことか。まあ、女という生き物だから余所よそ行きの顔はどれも造りもの。とは言え、あの笑顔は贋物じゃなかったような。決して悪いつらじゃなかった」


 己の性格上、須磨子と密室で顔を合わせれば、御節介なひと言をろうすに違いなかった。めんと向かって女性の容姿を褒めた経験は終ぞなく、善意に発した言葉でも、嫌味と受け取られかねない……


 そうした想いが、恐怖心の正体だった。昨日の今日とあって、兎に角、対面は是が非でも避けるべきである。


「絶対に悪い方向に作用する。矢張り、ここはかろう」


 脳裡には嫌な予感、背筋には悪寒。精神的な恐怖は、血飛沫の衝撃とは異なり、時が経つに従って和らぐことなく、一層厄介に、粘り気のある不快な空気のように全身に纏わり付いて、締め付ける。


 忠嗣は英語の小冊子と翻訳道具一式を携え、禁書庫から逃げ出した。


「しかし、行くあてがないな。食堂は一番危険で、閲覧室も書記の領分。雨さえ止めば安川書庫の裏手にひそめるけれども、晴れそうにない」


 早退という選択肢はない。一時間半前に出勤した矢先で、厚い雲にかくれされているものの、陽は高く昇ったままだ。


 書庫には欽治ら少年軍団が集っているが、其々それぞれ忙しく、相手にされず却って淋しい思いをする。目録室は穢苦むさくるしくて論外。無難なのは宿直室で、殺風景ながらそこには机もある。


「あれ、巡視長殿は出勤していないのかな」


「いいえ、館内にりますが、事務室に用事があって離席中であります」


 運悪く、頼みの綱の巡視長が不在。忠嗣は更なる流浪を覚悟したが、若い巡視は茶を汲み、御緩ごゆるりと待つよう申し出た。ここは賄賂ならぬ菓子折の集積地で対応が慇懃いんぎん鼻薬はなぐすりを嗅がせた効果の程は覿面てきめんだ。


 改めて若い巡視衆を眺めると、初々しい顔立ちの十代風も居るが、如何いかんせん警邏掛けいらがかりとあって骨格が逞しい。忠嗣は撫肩で線の細い若造が好みだった。書肆の與重郎はその代表例にして象徴的な美少年である。今や余人をって変え難い。


「こんな椅子じゃ仮眠も出来ないな」

 

 宿直室に控える若い巡視は、いずれも訓練兵に似て真面目そうだった。雑談に興じる雰囲気でもない。取り敢えず、仕事の振りをして場を凌ぐことが無難である。忠嗣は禁書庫から持ち寄った小冊子を机に広げた。


「あれ、小説でも詩でもないのか」


 英語の短編小説かと思いきや、論説だった。題名は『自己解放の為の手引き』と訳せる。著者名と思わしき*は、個人名ではなく、団体もしくは組織の名称と理解できた。


 酷く退屈な本を選んでしまった、と閑人は後悔したが、若人衆は辞書を引く姿をっと眺め、その眼光には明らかに尊敬の念が宿っていた。演技の途中である。詰まらないからと投げ出す訳にも行かない。


「イウサナジアか、それともユウサネイジアなのか。こんな英語は全然知らんし」


 辞書によれば、安樂死を意味する特殊な英単語のようだった。首っ引きで翻訳を試みると、政治的な主張も散見され、説教臭い啓蒙書の抄本と思えた。


 一部に醫學的な専門用語もあるが、組織の訴えを簡潔に纏めた小冊子だけに、難解な表現を避けている節もある。若い巡視たちの熱い視線に励まされ、辞書を捲り、走り書きで概要を表す。


 動物と違って人間には二つの死がある、といった主張。哲學的な命題のようでありながら、癖の強いスロウガンとも受け取れた。

 

「これは腰を据えて翻訳してみようかな。まあ、そんなに頁数も多くないし」


 英単語と格闘して読み進めるうち、金曜會の題目にしたいとの思惑も芽生えた。新入りも加入し、そろそろ聞き役に徹するだけではなく、面々の興味を惹く問題を提供したいところだ。


 安樂死はやや抽象的な嫌いはあるものの、現実的な死を真正面から捉えている。もう二つ三つの材料を揃えれば、深い議論に発展するに違いない。


「脈があるな。毒薬とか絡めて料理できそうな気がする」


 閑人が独り悦に入っていると、巡視長が帰って来た。


「おや、巌谷いわや君。こんなところで勉強しているとは。油売ろうと禁書庫に寄ったんだけど、九鬼君しか居なかった」


 予感は的中していた。入れ替わる恰好で須磨子が禁書を運び入れに来たのだ。少し躊躇していれば、対面は免れなかった……忠嗣は自らの勘の鋭さに驚きもするが、当たるのは悪い予感だけで、良い予感が現実と化すことは一向にない。

 

「そうそう、音樂会の招待券が何枚かあるんだよ。松本館長に貰ったのだけど、うちの若い連中は興味がないって言うし、巌谷君、これあげるよ。来週の旗日。丁度、ここも休館だしね」


 全く関心がなかった。会場は隣りの東京音樂學校で、折角の休日、上野に来るのも煩わしい。忠嗣はにべもなく、断ったが、そこで名案が頭に浮かんだ。


 學校も等しく休みである。與重郎を誘う絶好の機会。前に図書館の三階で、音樂學校への進学を告白したかれつぶらな瞳が鮮やかに蘇る。若干、妙な胸騒ぎがするものの、これを逃す手はない。



<注釈>

*イグジット=一九三五年に創設された英国安楽死協会の別称。同協会は名称変更を経て、現在も『VES=TheVoluntaryEuthanasiaSociety』として活動する。本文にある小冊子も実在。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る