45八話『遁げる閑人に安樂死の匂いが纏わり附く』
慣れ親しんだ禁書庫が、地下深くに設けられた牢獄のように思える瞬間があった。その全てが幻聴だったが、扉の軋む音が耳の奥で気味悪く唸り、陰湿に
職場で焦りを滲ませることは、文部省に入って間もなくの頃以来だ。居ても立っても落ち着かない。平静を装おうと気張るものの、逆の作用しかもたらされぬ。
「こんな時は、翻訳作業に没頭するに限る」
コンサイスの
今にも背後の扉が開かれ、
ここ最近、発禁図書を運んで来る機会は大幅に減少し、この十日ばかり、影もなかった。それ故、唐突に登場する予感に包まれ、気が気でならない。過剰な心配、不必要な警戒であるにせよ、生来の小心も手伝って、絶え間なく神経が擦り減る。
「精神的な恐怖の意味が幾らか理解できたようにも」
須磨子の書肆グラン=ギニョヲル出現が、偶然のはずはない。それが忠嗣が思案した末の結論である。しかし、動機に関しては皆目見当が付かない。
趣味趣向は知らねども、猟奇や怪奇とは無縁の真っ当な、やや悪く言えば真面目腐った堅物。密かに
「普通、頭蓋骨なんて衝動的に買わないよな。島津製作所の造り物と勘違いしたのか。でも、與重郎ちゃんのことだから丁寧に本物だと説明するはずだし、どうにも解せない」
六腑五臓君こと人体解剖模型を連れ去ったのも彼女である。骸顱も
その点は金曜會の面々も大いに興味を惹かれていた。須磨子が退席した後、新入りの女性について雑談を交わす流れになったのである。血塗れで内臓剥き出しの坊やは、一体全体、邸宅の何処に飾られているのか。
「御屋敷であれば大きな蔵もあって、それが彼の新しい部屋になるのでしょう」
「いや、当主も同じ変わり者で、客間に配置することも有り得るやろ。その為に腰布を巻いて、男根を隠したんや」
自動車の送迎に厳しい門限、そして
非常識な趣味を持ち合わせた面々であるが、一定の節度を保ち、身体的な障害を嘲笑うような下等な真似はしない。しかし、忠嗣は気にせずには収まらなかった。
普段、職場での彼女は前髪を垂らし、左眼を隠しているのだ。時には縁の太い眼鏡も掛ける。それが會に於いては、
「職場とは違う遊興の場所だし、素顔を曝け出したってことか。まあ、女という生き物だから
己の性格上、須磨子と密室で顔を合わせれば、御節介なひと言を
そうした想いが、恐怖心の正体だった。昨日の今日とあって、兎に角、対面は是が非でも避けるべきである。
「絶対に悪い方向に作用する。矢張り、ここはずらかろう」
脳裡には嫌な予感、背筋には悪寒。精神的な恐怖は、血飛沫の衝撃とは異なり、時が経つに従って和らぐことなく、一層厄介に、粘り気のある不快な空気のように全身に纏わり付いて、締め付ける。
忠嗣は英語の小冊子と翻訳道具一式を携え、禁書庫から逃げ出した。
「しかし、行く
早退という選択肢はない。一時間半前に出勤した矢先で、厚い雲に
書庫には欽治ら少年軍団が集っているが、
「あれ、巡視長殿は出勤していないのかな」
「いいえ、館内に
運悪く、頼みの綱の巡視長が不在。忠嗣は更なる流浪を覚悟したが、若い巡視は茶を汲み、
改めて若い巡視衆を眺めると、初々しい顔立ちの十代風も居るが、
「こんな椅子じゃ仮眠も出来ないな」
宿直室に控える若い巡視は、
「あれ、小説でも詩でもないのか」
英語の短編小説かと思いきや、論説だった。題名は『自己解放の為の手引き』と訳せる。著者名と思わしきイグジット*は、個人名ではなく、団体もしくは組織の名称と理解できた。
酷く退屈な本を選んでしまった、と閑人は後悔したが、若人衆は辞書を引く姿を
「イウサナジアか、それともユウサネイジアなのか。こんな英語は全然知らんし」
辞書によれば、安樂死を意味する特殊な英単語のようだった。首っ引きで翻訳を試みると、政治的な主張も散見され、説教臭い啓蒙書の抄本と思えた。
一部に醫學的な専門用語もあるが、組織の訴えを簡潔に纏めた小冊子だけに、難解な表現を避けている節もある。若い巡視たちの熱い視線に励まされ、辞書を捲り、走り書きで概要を表す。
動物と違って人間には二つの死がある、といった主張。哲學的な命題のようでありながら、癖の強いスロウガンとも受け取れた。
「これは腰を据えて翻訳してみようかな。まあ、そんなに頁数も多くないし」
英単語と格闘して読み進めるうち、金曜會の題目にしたいとの思惑も芽生えた。新入りも加入し、そろそろ聞き役に徹するだけではなく、面々の興味を惹く問題を提供したいところだ。
安樂死はやや抽象的な嫌いはあるものの、現実的な死を真正面から捉えている。もう二つ三つの材料を揃えれば、深い議論に発展するに違いない。
「脈があるな。毒薬とか絡めて料理できそうな気がする」
閑人が独り悦に入っていると、巡視長が帰って来た。
「おや、
予感は的中していた。入れ替わる恰好で須磨子が禁書を運び入れに来たのだ。少し躊躇していれば、対面は免れなかった……忠嗣は自らの勘の鋭さに驚きもするが、当たるのは悪い予感だけで、良い予感が現実と化すことは一向にない。
「そうそう、音樂会の招待券が何枚かあるんだよ。松本館長に貰ったのだけど、うちの若い連中は興味がないって言うし、巌谷君、これあげるよ。来週の旗日。丁度、ここも休館だしね」
全く関心がなかった。会場は隣りの東京音樂學校で、折角の休日、上野に来るのも煩わしい。忠嗣は
學校も等しく休みである。與重郎を誘う絶好の機会。前に図書館の三階で、音樂學校への進学を告白した
<注釈>
*イグジット=一九三五年に創設された英国安楽死協会の別称。同協会は名称変更を経て、現在も『VES=TheVoluntaryEuthanasiaSociety』として活動する。本文にある小冊子も実在。
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