16六話『戀する司書は図書館を洄游する』

 帝國圖書館三階の閲覧室前は、入館者が列を成し、酷く混雑していた。皆一様に無言で静かではあるが、午後の陽射ひざしは強く、人熱ひといきれせ返る。


 押し退け割り入り、最後尾を探し出し、巌谷忠嗣いわや・ただつぐは列に並んだ。図書館の利用者は減ることなく増え続け、近頃は入口を潜るのに小一時間、目的の書籍を手にするまで更に小一時間を要するらしく、不満の声や悪口陰口も噴出していると聞く。


 微動だにしない行列に苛立ちつつ、前方を瞥見すると、向こうの青年、そのまた奥の紳士も何やら同じ紙切れを手に持っている。


「あれ、本を借り受けるのに用紙が要るんだっけか」


 並び始めて十数分が経った頃、忠嗣は閲覧証書が不可欠であることを思い出した。


 延々と屋外で待たされた後、小銭を払って証書を貰い、上草履うわぞうりに替える。次いで目録室に赴き、読みたい書物の題名や番号を書き込み、出納掛すいとうがかりに提出。そこでも永らくの待機を強いられた挙句、漸く獲物に辿り着くという仕組みだ。


「あ、巌谷司書様。何でこんなところに並んでいるのですか」


 出納手すいとうしゅ欽治きんじだった。その手には、と文字の綴られた証書。これより書庫に向かう途中と見受けた。


たまには本でも閲覧してみようかと思ってね。ほら、滅多に上の階には来ないもので要領が判らず、困り果てているところなんだ」


ほうけないで下さい。司書様が列に並ぶ必要はありません。入り用の本があるのなら勝手に書庫に入ってお探し下さい。偉い人が並ぶだなんて聞いたこともない」


 欽治は簡潔に手順を説明し、慌ただしく走り去った。可愛いしりを叩きたかったが、衆目もあり憚られた。それよりも撫でたいのは今や別の臀部だ。この三日間、忠嗣の頭には繰り返し、絶え間なく、九段富士見町で巡り逢った美少年の貌と身体が浮かび、心は千々に乱れた。 


 杜若與重郎かきつばた・よじゅうろう……その名を何度も声に出し、こい焦がれる。


 邂逅した翌日も翌々日も、実存しない幻だったのではないかとおそれ、不安に駆られることもあったが、手元には屋号の刻まれた紙袋があり、十冊余の購入書籍も消えずに存在していた。


「二階のあの雑然とした部屋か。余り足を踏み入れたくない場所だな」


 書架の番号も分類も知らぬ者が書庫に立ち入ったところで迷うだけである。欽治によれば、目録室に控える相談掛そうだんかがりに尋ねるのが手っ取り早く、館員ならばその際に閲覧証書を提示する必要もないはずだという。


 七列六段の小抽斗こひきだしが並ぶ目録カード箪笥。それが所狭しと何棹なんさおも置かれ、入館者は必死の形相で札を捲り、狙った獲物を見付け出しては鉛筆で証書に細々と綴る。面倒で手間暇の掛かる作業だ。


「ここも通過して、何だっけか、奥だか手前だかに相談掛が居るとか」


 腕章を巻いた制服姿がそれらしいが、全く見知らぬ若い男だった。雇員か嘱託か、将又はたまた請負業者の人物か見当が付かないが、恐れていた顔見知りではなかった。忠嗣は安堵して話し掛けたところ、相手はこちらの正体を把握していた。


「巌谷司書ですね。目録室に来られるなんて珍しい」


 聞けば新入りの書記だという。面識のない者に名を呼ばれるのは若干気色悪いが、部下ならずとも後輩に相違いない。忠嗣は、重要にして内密の職務だと偽り、やや命令口調で目当ての書籍の在処ありかを問い質した。


 すると新人書記は束の間、頭を悩ませ、矢庭に筆と紙切れを取ってと書庫と書架の大番号を記した。相談掛は雑役にあらず、相応の知識と記憶力がないと務まらないようだ。


 彼の直向ひたむきな仕事ぶりに忠嗣は感心し、先輩として誇らしく感じた。職務などという虚弁を疑わぬ純朴な性格も素晴らしい。


「また三階か。行ったり来たり七面倒だな。出納手の坊やたちは毎日これを何十回とこなしているのか。実に苦労が多い」


 閲覧室のエディキュウル*を押し開けて書庫に入った。ここも静まり返り、動き回る出納手のあしおとかすかにこだまする。


 忠嗣が求めたる書籍は、近現代の欧州演劇事情を著した専門書、それと佛蘭西フランスのラルウス百科事典だ。かの美少年が見世番する書肆の屋号、謎の暗号染みた「グラン=ギニョヲル」を解き明かす魂胆である。


 頭の「グラン」は「大きな」を意味するもので、手元のコンサイス佛和辞書をひもとくまでもなかった。しかし、後ろの「ギニョヲル」は今ひとつ理解が及ばない。綴字の割り出しに難航した挙句、妥当な言葉を見つけ出したものの、正解とも不正解とも見える。


「人形、手袋の人形、人形劇」


 そう端的に記されているだけだった。額面通り受け取れば「グラン=ギニョヲル」は「大きな人形」となる。忠嗣は店内で不気味な印象を醸し出していた人体解剖模型を思い浮かべたが、直感は別物と告げた。


 もうひとつ、「大規模な人形劇」とも訳すことが出来る。そこで百科事典に加え、演劇関連の専門書を求めた次第だが、残念ながら書庫には歌劇を軸に据えた見聞録と歴史書しか見当たらなかった。


 帝都では新派の劇団が引き続き隆盛を極めているものの、西洋の最新演藝事情を詳しく記した書物は皆無。仕方なく、「G」の項目が入るラルウス百科事典を抜き取り、閑人ひまじんは三階を後にした。



<注釈>

*エディキュウル=小さな神殿を意味する特殊な様式の扉。画像解説有り〼。↓


<附録>

近況ノオト『【寫眞解説】帝國圖書館潜入編〜④〜エディキュール』

https://kakuyomu.jp/users/MadameEdwarda/news/16817330668957937739

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