17七話『華の都に毒を撒く戦慄と頽廃の劇場』
「ギニョヲル」が人形を指す言葉であることは間違いない。全ての電燈を点した明るい禁書庫の文机、忠嗣は佛ラルウス百科事典の上にコンサイス
如何せん人形に関する知識に乏しく、パペットとマリオネットの区別も分からない。同じ操り人形であっても糸を垂らして操作するものもあれば、手の指で動かす種類も存在する。ギニョヲルは後者で、小さな辞書に「手袋の人形」と記される通りだ。
「人形劇という意味もまた正しいのか」
絹織物の産地としても知られる佛中部の古都リヨン。そこで十九世紀初頭に行商人が人形劇を始めた。語源については諸説入り乱れ、職工相手の芝居とも読めるが、
若き文豪の佐藤春夫が翻訳した『ピノチオ あやつり人形の冒險』は人気を博し、忠嗣も書店で表紙を見た覚えがあった。子供向けの童話だ。
「結局、人体解剖模型が近いのだろうか。等身大のマネキン人形を表す用語と見た」
半刻余り格闘した割に成果は慎ましく、佛和辞書での理解を大幅に越えるものではなかった。やや消沈し、暇に任せて枕の「グラン」についてラルウス百科事典を
「何と、グラン=ギニョヲルって、ひとつの熟語だったのか」
ピノチオもジュゼツペ爺も軽く吹き飛ぶような意味を備えていた。学童向けの愉快な冒険譚でも面白可笑しい人形芝居でもない。残酷で、苦痛に満ちた恐怖の舞台劇。それが毎夜演ぜられる演藝場の名称だったのだ。
花の都たる
「サロンのテアトル……うむ、貴族が集う劇場、往年の鹿鳴館みたいなところかな」
サロン劇場は人気薄で経営も
世紀末の頽廃した巴里の街を象徴する悪夢と恐怖の劇場。礼拝堂はゴチツク調の雰囲気に改装され、座席は
代表する演目に関しては曖昧で、忠嗣は想像を逞しくするが、芝居の風景が上手く頭に描けない。
「残忍極まりないけれど、不安を掻き立てる恐怖、戦慄とも読める」
同一座は怪奇猟奇の
一方で劇場の閉鎖に関する解説はなく、世紀末の
「何とはなしに、あの人体模型と繋がる感じがしないでもない。そう言えば、隣に髑髏もあったなあ」
購入した書籍が
百科事典を閉じて
補填する意味があったか否か、己も解せぬ。自宅で耽読する
「また残り香を嗅いでしまう」
内容に決して興味がない訳ではなかった。しかし、雑誌を手に取る
「まあ、古雑誌の匂いしかしないんだが」
時折、冷静になることがあっても、書籍を開いて読むまでには至らなかった。雑誌の巻頭にある下手な裸婦像にも、汚点のような乳首にも興味がない。慕うのは古本の売り手だけである。それ程、與重郎との邂逅は鮮烈にして激烈で、
『
元来、書架の上部は踏み台を使わなねば手が届かなかったが、下段に脚を掛けて背伸びすれば良い。
「こいつは何の本なのだろう。おっと、危ない」
存外に重く、体勢を崩して転げ落ちる寸前だった。そして、厚みのある一冊を肘置きにし、忠嗣は書架の手前で寝そべった。非常に行儀が宜しくないが、リノリウムの床は程良く冷んやりとして快い。
もう一冊は題名から類推するに論考のようだった。古今東西の処刑や拷問、獄門を羅列し、民族部族の文化風習を比較考察する。序文を一読する限り、堅苦しく、英文字も多い学術書の趣きだ。
中身も検めず、纏めて購入した約十冊のひとつ。退屈な専門書が紛れ込んでいたものだ、と忠嗣は興醒めし、奥付に走り書きで記された値段を見て、憤慨した。ほかの雑誌類の数倍もの価格が与えられている。
暴利と言って良い高値だが、見世番の美少年のことを想うと文句を吐く気にもなれない。
「高い本ならば、神保町に行って高く売り捌けるだろうし、損失も軽微かな。うむ、何やら急に機転が利くようになった」
表裏と背表紙の匂いを確かめて渠の残り香が微塵もないと知るや、早々に売却処分を決意した。それでも往生際悪く、ひと通り眼を注いだところ、第三章の附近から俄かに図説が増え、寫眞も目立つようになった。禍々しい様相の古道具は、拷問器具に違いない。
若干、興も乗って更に頁を捲ると、その中に鮮烈な印象を与える寫眞があった。婦女子ならずとも眼を覆いたくなる屍体だが、不思議と嫌悪感を覚えず、戦慄とは異なる、寧ろ逆の、快感に近い何かが正に電撃のように身体を走った。
能書きには「百刻之刑」とあり、寫眞下部には英文字で「デス・バイ・ア・タウザン・カッツ」と記される。
忠嗣は居住いを正し、頁を開いたまま文机に舞い戻った。
<注釈>
*ピノチオ=ここは忠嗣の翻訳ミスで、イタリアの童話『ピノッキオの冒険』出版は十九世紀末。邦訳は比較的早く、佐藤春夫による訳書は昭和元年に上梓される。
<参考図書>
フランソワ・リヴィエール&ガブリエル・ヴィトコップ著『グラン=ギニョル 恐怖の劇場』(未来社 平成元年刊)
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