15五話『花柳街にて財布を空にするは漢の心意気』

 宵々、好事家や紳士諸君の集う界隈。堅気の商家が避ける色里、およそ聖人君子が足を踏み入れぬ領域に、この書肆は看板を掲げる。


 禁書庫の閑人ひまじんは不思議な想いに包まれた。同時に、妖艶な女の占領地でありながら、眼前の美少年が花柳街に相応しい傾奇者かぶきもののようにも感じられた。


「こちらの稀覯本は蒐集家に預けるとして、幾つか、関連の書籍を購入しちゃおうかな。どれでも良いような、良くないような。いや、その『エロ』とか女の裸系は趣味ではないで退けて、この辺の硬そうな本を数冊ばかり、もとい、十巻余り、景気良く」


「あれ、中身をあらためなくて宜しいのですか」


 摘んで指差し、大判の寫眞集やら辞書風の厚い書籍、加えて雑誌を三冊ばかり、購入品を取り揃えた。與重郎は本の束を抱え、しずしずと会計卓に戻る。


 十点以上も即買いするとあれば、瞠目し、満面の笑みを浮かべると思いきや、してよろこぶ風でもなく、淡々としていた。余り商いに熱心ではない素っ気無いさまも、恬淡寡欲てんたんかよくな心持ちを偲ばせて、忠嗣ただつぐは好感を抱いた。


「合算するとの金額になるのですが、それは別に、お客様、鞄に入り切る分量ではなく、あ、手ぶらでいらっしゃる」


 綺麗な指で十露盤そろばんを弾き、與重郎は眼差しを呉れた。もはや魔眼とでも称すべきか、その瞳は潤いを帯びて霞棚びく静謐な湖水のようであった。再び血が騒ぐ。無分別に勇ましく騒ぎ立てる。

 

「新しくしつえた袋があるんです。百貨店を真似て意匠も凝らした……」


 と会計卓の下を弄り、新聞大の紙袋を取りだした際、背後の配電盤に肘が当たったのか、不意に燈が点った。店舗の右奥、これまで闇に支配されていた箇所に、蒼い燈が明滅する。


 忠嗣はそこに浮かび上がった人影に戦慄した。傷痍兵か、事故の犠牲者か、皮膚を喪い、血の滴る男が直立し、刮目して睨む。客人が堪らず声を発し、眼を瞑ると與重郎の優しい声が届いた。


「あ、済みません。誤って焦点を当ててしまいました。それも売り物です」


 負傷者でも生ける人でもなかった。蒼い光を浴びるのは、人体解剖模型だ。剥き出しのはらわたと脳髄が燈を浴びてと輝き、本物と見紛う偽眼いれめが物欲しそうに語り掛ける。


「いやいや、仰天した。幽鬼かと思って……しかし、実に精巧な人形だこと」


 点滅する蒼い光の中、人体模型の局部に貼られた値札が瞥見できた。商品の展示だと聞いて驚くだけでは終わらない。血みどろ五臓六腑の人型ひとがたの脇には、髑髏が二つ置かれていた。そちらは贋物ではないようだ。


 一体全体、ここは何を売る見世なのか、疑問が浮かび、疑念は尽きず、改めて忠嗣は暗い店内を見渡し、弛まぬ興味を覚えた。但し、物色して更に買い漁る余裕はなかった。


「あれま、手持ちでは足りぬような」


 軽い散策気分で訪れたとあって、閑人の財布には潤沢な紙幣の備えがなかった。少しばかり総額に届かぬことが悔やまれる。


「それでは雑誌類はサアビスさせて頂きます。これだけの量です。瑣末な分のお代は頂戴致しません。ささ」


 與重郎は紙袋を差し出した。決して高い買い物ではなかったが、累計を確かめて驚いたのか、かれは先程に比べて物腰柔らかく、その美しい口元も若干緩む。一見の冷やかしから上客に成り上がったかのように錯覚し、忠嗣は満足し、愉悦に浸った。


「いや、下の一桁が重要だったりするものです。仰せの通り、この雑誌を頂きました上、不足分は後日、日を改めて支払いに参ります」


「でも、お帰りの足代も必要でありましょうし……」

 

 財布を逆さまにして支払いを済ませた。自慢の高級財布を見せ付ける意図も少なからずあった。広小路で舶来品店で奮発して購入した逸品で、した表面は海鷂魚えいの革。真ん中の白い部分は、第三の眼と呼ばれ、溟い海中で天敵を聡く見出すという。


 その革財布を見せ付けるように、会計卓にと角を当てる。美少年は瞥見したのみで、特段の反応を示さなかったが、懐を空にすることは江戸っ子風の粋に似て悪くない。


 忠嗣は亢奮に抗い切れず、更に調子付いて、店内の品々を隈なく物色しようと意気込んだものの、来客があって腰を砕かれた。


「あれ、柏原かしわばらさん、お久し振りです。帝都に戻られてたんですね」

 

 常得意じょうとくいのようだった。入って来た客は、極端に背丈が低く、学童かと思われたが、明滅する蒼い燈に浮かぶその貌は、無精髭も目立つ三十路の野郎だった。


 舞台衣裳染みた派手な上着を纏って品を欠くが、美少年とは古くから面識があるのか、馴れ馴れしい口調で捲し立てる。楽器か何か、音楽か芸事か、専門的な用語の羅列と応酬だ。 


 潮時である。忠嗣は一礼して退出した。


 宵の口と異なり、路地の妓楼ぎろう待合まちあいは小窓も門も煌々として、華やいでいた。掻き入れ時である。正真正銘の花柳街。酒の匂いを白粉の香りが覆い隠す色里。しかし、花魁格の上玉も裸足で逃げ出す絶世の美少年が、密やかな見世の奥に居た。


 至極幸運な、最高の巡り逢いで、戀の舞台の開幕する予感がする。妄想なれど、予感がする。一夜の幻ではない。手に下げた紙袋には九段富士見町の地名に加え、グラン=ギニョヲルなる片假名かたかなが刻まれている。


 何らやの書物十冊余りを沈めて、袋はずしりと重かったが、胸裡は躍り、身も軽い。財布も軽く、帰りの電車賃もないが、そんなことは構わない。馴染みに通う嫖客ひょうかくよりも、浮かれ色めき浮き足立って、心漲こころみなぎり血もたぎる。

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