14四話『書架にエロスとグロテスクの華が咲く』

 およそ都会者らしからぬ出立いでたちの美少年と向き合って、忠嗣は胸をときめかせた。


 紺絣こんがすりの着物に、下は湊鼠みなとねずみとも藍鼠あいねずとも区別が付かない地味な色周りの馬乗袴うまのりばかま。着物の内、小さな襟の立ったしろぎぬのシャツが頸許くびもとに光る。


 当節の若者が好む洋装ではなく、大正時代を偲ばせる書生服だ。


 辺鄙な地方の苦学生が纏えば一層貧しく見えるに違いないが、杜若與重郎かきつばた・よじゅうろうが着た瞬間、それは一幅の瀟洒な絵画のように華々しく雄々しく、まるで歌舞伎の花形の如く眺める者の眼に映えるであった。


「猟奇趣味とも呼ばれるらしく、まあ、僕も決して嫌いなほうではないのですが、ええと、この辺りの書籍や雑誌になります」


 そう言って與重郎は屈み込み、暗い本棚の隅から三冊の書物を引っ張り出し、手近な台に乗せた。


 前屈姿勢になった際、ひょこりと突き出したしりが妙に丸みを帯びて、血湧き肉躍らせたが、種馬のように興奮している場合ではない。いま関心を注ぐべき対象は異なる。


 店番の美少年が抜き取った書物こそ、禁書庫の閑人ひまじんが来訪した理由、当初の目的に他ならない。真面目そうな女官吏から淫本と罵声を浴びせられた代物。表紙が擦れ、折れ目まで付いた一群の古雑誌だった。


然程さほど、古い雑誌ではなく、無論、稀覯本とも称せません」


 表紙に『獵奇畫報りょうきがほう』『グロテスク』*とある。いずれも忠嗣が上京した頃、学生の時分に側聞したものだった。大正期に流行したエログロにナンセンスが加味され、一世を風靡したとは言えないまでも、それなりに話題を振り撒いた雑誌である。


「これは発禁本の類いなのでしょうか」


「いえ、違います。一般に流通して各地の書肆で売られていた雑誌ですね。申し上げた通り、珍しくもなく、高値で取引されることはありません」


 忠嗣は一冊を手に取り、頁を捲った。幽鬼か妖怪か、異形の者が裸婦に絡み付く絵は色褪せて古典のようにも見える。畫報がほうと冠するだけあって寫眞も豊富。活字も大きく読み易いが、刺戟的しげきてきとは言えない。


 大いに流行し、巷に氾濫した当時、エログロは悪趣味の代名詞として用いられ、巷間こうかんで嫌悪の対象となり、蔑まれたと聞く。


 しかし、それらは淫猥な挿絵こそあれ、狂気を孕み、鬼心おにごころ獣心じゅうしんを育む不埒な書物とは程遠い。もう一冊、『エロ』と題する雑誌も春本より淑やかで、裸体画は藝術作品に近かった。 


「この雑誌は、表に前號發禁ぜんごうはっきんと記されているけれども、検閲を逃れたという次第かな」


「事情を知る方に伺った話ではありますが、当時は発禁処分になったことが自慢で、それを廣告こうこくの宣伝文句に使ったようです。勲章みたいな物でしょうか。お手持ちの雑誌は『エロ』の合併號ですね」


 検閲と聞けば、労働文學の版元や著者が一方的に特高に狩られる印象だが、実情はやや異なる模様だ。追われる者もまた強かにして、決して餌食となって嘆いて絶える草食動物ではなかった。


 猟奇雑誌の編緝人へんしゅうにんは、罰金なんぞ呉れてやる、とばかりに挑発を重ね、中には逮捕された挙句、釈放記念と題した大宴会を華々しく開いた猛者も居る。


「ええと、何処に隠したかな……いえ、失言です。何処に保存したんだっけ」


 與重郎は這いつくばって本棚の下にある戸を開けた。惚れ惚れする淫らな体勢である。暗い中、忠嗣は両眼を見開き、その臀や背中を舐め回し、また美少年の口から飛び出したという単語に酷く興奮した。言葉で責められ、酔い痴れたい気分に陥る。


「発禁処分を受けて世に流れなかった水子の號が、こちらです」


 行李こうりの中、紫の風呂敷に包まれ、正に秘蔵品といった趣き。書棚に並ぶものとは違い、傷みはどこにも見当たらない。既刊の合併號と比べ、値段は約三十倍と大きく掛け離れている。


 忠嗣は慎重に携え、おそる懼る開いてみたが、卑猥な挿絵が飛び出すでもなく、やや興醒めした。発禁処分を受けた理由が那辺にあるのか、見当も付かない。屍體寫眞は鮮明であっても黒焦げで、煽り立てる能書きがなければ、それと判別することは難しかった。


「これは如何なる理由で発禁となったので有りましょうか。先の古本と大差なきものと見受けますが」


「風俗禁止との判定で刊行に至らなかったものと思われます。しかし特段、猥褻な内容ではなく、多分、専門家によれば表紙に、あ、ここです、女性の乳頭と、加えて隠毛が少々食み出していることが検閲の対象になった模様です」


 密接し、表紙の一部分を示す與重郎の指がまた繊細にして艶っぽい。裸婦の乳首なぞ点描の染みにかず、縮毛ちじれげも印刷の汚れに等しかった。


「店の本棚から除外しているのも相応の理由ですか。それとも学童の眼に触れぬようにとの配慮とか」


「いえ、どちらも違います。この色里で未成年に気を配る必要はなく、特高の方が立ち入って重箱の隅を探るようなことも御座いません」


 その言葉で、ふと忠嗣は自分が今、富士見花柳街の只中ただなかに居る状況を思い出した。色街、花街、戀の街である。遊女か芸者か知らねども、しとねの燥くいとまなし、小唄こうた都々逸どどいつ、善がり声、里に眠れる夜はなし。


<注釈>

*『獵奇畫報』『グロテスク』『エロ』=いずれも昭和四から六年にかけて発行された実在の雑誌。再三発禁処分を受けるも、編集者の梅原北明うめはら・ほくめいらは検閲を逆手に取って宣伝し、名を高めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る