13三話『革命的美少年の名は杜若與重郎』

 通りを渡る自動車の前照燈が映えたのか、奥のまどが一瞬だけ煌めいた。その小さな光が認識できる程に店内は暗かったのだ。品揃えも見渡せず、また来客の風体も分かり難いに相違ない。


 俄かに膨らんだ下半身、いきった具合も、よもや気付かれまい、と忠嗣は少しばかり安堵した。生理現象であっても、美少年を前に恥じ入るところしかない。


「何かお探しでしょうか」


 声も澄み、冷ややかにして美麗だが、容姿と比べれば修辞に欠く。新聞の寫眞で瞥見した歌舞伎座の女形を聯想させる端正で、艶っぽい目鼻立ちに、優雅な弧を描く蛾眉。頬や顎の辺りはとして、学童に似たあどけなさも残る。


 そして髪の毛も長く、耳朶に掛かる程だ。畦道を闊歩する洟垂れ小僧共とは違い、洒落た都会風のモダンなボオイ。角刈に面皰にきび阿亀おかめな学生連中とは人種が異なるようにも見受けた。


「いや、何を探しにという訳でもなしに、ここに古書店があると聞き、ふらりと確かめに来たような按配あんばいで……」


 どう言葉を紡げば良いのか。精神は混乱を越えて錯乱し、血の巡りは偏ったまま、忠嗣の頭は真っ白に色がけた。一種の譫妄せんもうで、寸前の記憶を辿ることさえ難儀する。書肆の扉を潜った瞬間、夢幻幽幻のさとに迷い込んだかのようだ。


「はい、書籍のほうですか。済みません、これでは暗すぎますね。今、明るくします」


 店番の美少年は、そう言って背後にある装置をいじくった。恐らく配電盤の類いで、ひとつスイツチを摘むと、脇にある棚に強い光が差した。あろうことか、発光しているのは桃色のネオン管。かれ横貌よこがおが淡く眩しく、実に淫靡な色彩に染まる。


「あ、間違えました。これじゃないですね。本棚の辺なら一番右か」


 粗忽者そこつものと見受けたが、慌てる仕草もまた可憐だった。屈んだ際にちらりと見えたうなじ婀娜あだっぽく、亢奮の収まる隙がない。


「本ではなく、貴殿に会いに来たのです」


 想いも寄らぬことを口走り、忠嗣はそんな自らに驚愕して眼を泳がせた。嘘八百、窮余の出鱈目であるが、大幅に事実と異なるとも言えない。ここを訪ねた問理由が、頭のうち、胸の奥、靄の状態を脱して容作かたちづくられた。


 侵入した夜盗が奪い去った書物、謎めいた杜若文庫かきつばたぶんこ。事件のミステリイを解く鍵が、九段富士見町の古書店にある。捜査に進展が見られぬ中、手掛かりは唯一、ここにしかないと申しても過言ではない。


「杜若文庫。いえ、図書の寄贈主だったかな。風変わりな苗字だけれども、杜若さんという奇特な方がいらっしゃるようでして、その、取っ掛かり、いえ、少々、お話を伺えれば幸いと存じ……」


「杜若ならば、僕のことです。変わった名とあって覚えていてくれる人も多いのですが。あのう、それでは買い物にいらしたのではなく、もしや税務署の方でしょうか」 


 要らぬ心配をさせてしまった。パナマ帽に鞄も下げぬ姿だが、地味な色の背広の着こなしが、木端役人を聯想させたのかもしれない。


 忠嗣は大袈裟に面の前で手を振り、直ちに否定すると、美少年は安堵したのか、瞳に宿した警戒感を拭い取った。その切れ長の双眸もまた上品で麗しい。


「父に会いたいと、そういう御用向きでしょうか。申し遅れましたが、僕は息子で、與重郎と申します」


 世にも美しき少年の名は、杜若與重郎かきつばた・よじゅうろう。華族の一門に在りそうな姓名だと想いつつ、忠嗣は口の中で反芻し、その名を胸の奥に大切に仕舞った。戀の始まる予感がしないでもないが、下心に発する妄想であり、過ぎた夢想だ。


「特段、父上殿に用件はあるとも言う風ではなく、勿論、面織がある訳でも……ああ、そうだ。小職の名刺を渡しておかねば。特高のおっさんのものではなく、こっち。本物の、新しいほう」


「おや、図書館にお勤めの方なのですね。僕は九段の図書館にしか寄らないもので詳しく存じ上げませんが、上野にもあるのですね」


 そう呟くと美少年は紙片を暫し眺め、抽斗ひきだしの中に仕舞い入れた。司書という肩書きに興味を惹かれた模様だが、それ以上の言及はなく、また、記された姓名を読み上げたり、読み方を訊ねたりすることもなかった。


 忠嗣というファアストネエムは、そこそこ難しく、請負業者の面々などは必ず質問を投げて来るが、かれの対応は異なった。冷やかしの客に過ぎぬとでも諒解りょうかいしたのだろう。実際、購入の目当てもなく、店舗にとって得になる来客ではない。


「それで、上野にある図書館。まあ、大した施設でもなくって恩賜公園の附属物というか、動物園に毛が生えた程度、いや、珍獣の毛が抜け落ちたような殺風景な場所です。そこにかつて父上殿が珍しい書物を纏めて寄贈なされたとの由なんです。題して杜若文庫」


 大見得を切るかの如く、芝居掛かった口調で述べたが、正面に座る美少年、與重郎の反応は鈍かった。良く言えば泰然自若、意地悪な表現を用いれば、全くの無関心で、渠の佳麗かれいなる眉目はかすかにも動じない。


「寄贈本と申されましても、それは随分と昔のことでしょうか」


「比較的近年と話していたかな。大正や明治の時代ではなく、多分、十年くらい前になるはず。で、息子さんと伺いましたが、父上殿は今、留守にしておられるのかな」


「父はこのところ、病いに伏しておりまして面会は難しく、寄贈した本について照会することもかないません」


 この際、父親は関係ない。忠嗣は口を滑らすことで若干、落ち着きを取り戻し、無断早退して書肆を訪ねた動機を思い出した。猟奇に残虐、触った手も穢れる淫本。内務省の女性官吏が漏らした罵りの言葉、低い評価に強い関心を抱いたのである。


 一年余り、その芳しき文庫の棲家に陣取りながら、背表紙すら拝みもしなかった。酷く後悔し、実物を鑑賞する機会を探っていたのだ。古書店なれば類似の書籍が並ぶに相違ない、と心当たり、九段富士見町まで足を伸ばした次第である。


「惨たらしい寫眞やおぞましい図解が、ふんだんに盛り込まれているという稀覯本だとか。そうした杜若文庫を象徴するような書籍があれば、是非、我が眼で確かめ、間良あわよくば購入したい、と。そんな節です」

 

 くろい扉を開け放ち、美少年に蕩けて髪も逆立ち、血流もたぎって局所が膨れた。降臨したる哪吒なた*に心も頭脳も精神も征服されたが、猟奇本に対する熱い想いは偽りではない。


「残忍な風味の絵草紙ということでしょうか。確かに、当主らしい趣向と申せましょう。相応の古書は僅少ながら、後ろの棚に御座います」


 そう言って與重郎は席を立った。貌が急接近し、幻聴か気の迷いか、息遣いも聴こえる。隣に並ぶと、渠は幼さの遺る容貌とは裏腹に、すらりと背も高く、やや撫で肩で、甚だしい色香を散らす。


 忠嗣は急激に酔いが回ったような感覚に陥り、辟易たじろぎ、蹌踉よろめいた。更に更に全身の血は奔流と化し、俄かに一箇所に集まって、自分でも恐るる程に逞しく勃起した。



<注釈>

*哪吒(なた)=インド叙事詩のナラクーバラに源する少年神の意。

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