12二話『花柳街の書肆に美少年は匂い立つ』
「どうも見当違いのような。古書店が並ぶ町並みではないし」
靖國神社の北側に足を伸ばした忠嗣は当惑し、ぐるりと辺りを見廻した。
瀟洒な学舎を過ぎた後、新築の屋敷や零細会社の社屋があるばかりで、商店は影もない。電柱の札には富士見と記されているが、このまま進めば國電の飯田橋驛に突き当たってしまう格好だ。迷子になって日も暮れて、看板の時刻を迎えてしまう
忠嗣は、向こうから来る丁稚風情の坊主を認めて呼び止めた。道を尋ねるだけで他意はなく、下心も毛頭ない。都会風の大人に訊くのは気が引けるが、小僧相手なら恥も外聞もなかろう。田舎から奉公に来た小僧だ。
「そこのお坊ちゃん、今はシベリアもカステラも持ち合わせはないんだが、ちょいと路地に入って小便でも……いや、そうではなく」
「なんだい、おいら
坊主に叱られた。田舎者ではなく地元の餓鬼のようで、全くこれだから都会者は対処に困る。忠嗣が懐中から地図を取り出そうと身を捩ったところ、折り悪く、自輾車に跨った制服姿の野郎が視界の端に入った。警邏中の巡査だ。
慌てて
「この界隈の者でも参詣者でもないと見受ける。勤め人風ではあるが、手提げ鞄も持たぬとは」
職務熱心な若い巡査は始末に困る。自輾車が停まると同時に、小僧は去り、嫌な雰囲気の中で取り残された。昨年、連行された時の悪夢が脳裡に蘇る。単に路地を歩いていたに過ぎぬが、
「いえ、道に迷ったというか、実際にそうなんだけども、決して怪しい者ではなく、あ、名刺があったっけ。ええと、こっちだ」
高級な革財布に仕込んだ名刺を抜き取り、巡査の鼻先に突き付けた。霞ケ関時代の秘蔵品でもなく、
「内務省の方でしたか」
事件捜査の際に知り合った親爺の名刺である。警保局保安課の何某と刻まれている。初対面時は素っ気なかったものの、図書課の女傑に痛ぶられた後、意気投合した。誤って突き出したのではない。忠嗣は、その際に貰った名刺を故意に手渡したのだ。
「あ、それは小職の名刺じゃなかった。失敬、失敬。それ、凄く仲の良い友達の名刺だった」
官憲相手に嘘を吐くことが癖になっていた。冗談では済まぬ小芝居だったが、
「道に迷われておられるのでありますか」
態度も変われば、言葉遣いも一変した。官憲のみならず、公僕は身分の格差に慎重を期す。
「職務で富士見町にある古書店の視察に参ったところなのだよ。職務でね。そこが重要」
正真正銘、本物の己の名刺を見せびらかしつつ、嘘を重ねる。職務とは掛け離れた個人的な関心で、しかも許可なく早退した身だ。実際のところ、胡散臭い事この上ない。
「古書店……古本屋でありますか。それならば、大通りを東に向かった神保町です」
「いや、古本市場の近辺ではなくって、富士見町にあるんだよ。君、この一帯の巡視を任されているのだろう。知らんかね」
若い制服男は眉根を寄せ、荷物入れから冊子を取り出すと、ぺらぺらと忙しなく頁を捲った。尊大な口調、大上段に構えて物申すと官憲が卑屈になることを忠嗣は知った。良く見ると仲々の好男子であるが、吟味している場合ではない。
「九段坂上に一軒だけ古書店と登録された商店がございます。しかし、これ骨董品屋だったようにも……お力添えになれるか否か存じませぬが、書肆グランデなら、花柳街の真ん中に御座いますね」
「ええ、花柳街とな。グランデじゃないけど、似た屋号だ。そこに間違いないな、多分」
富士見花柳街の名は新聞か小説で読んだ覚えがあった。忠嗣には芸者や半玉に色めき立つ趣味も性癖もなく、関心の
巡査によれば、近年の區劃整理で旧来の富士見町は南側が町名を刷新し、現在は九段某と変わったのだという。図書館の簿冊にあった番地は古いもので、喪われた番地が記されていた模様である。迷い子になるのも詮方ない。
「その自輾車、貸してくれないかな、必ず返すから。え、駄目なの」
圓タクに
気持ち駈け足で境内を突っ切ると、満開の桜木の奥、拓けた参道にて大きな立像と対面した。
武士の証であったという
「時に幕府の残党東叡山に
靖國神社参道に起立したる銅像は、往時、大村公が江戸城富士見櫓より、敵勢の籠る寛永寺を展望せし姿とされる。鬼門、北東の方角。銅像もまた上野の山を凝視しているようにも見えるが、定かではない。
九段坂上に残る富士見の町名は、江戸城の施設とは無関係で、冬の晴れた朝などには、その界隈から富士山が見渡せることに因む。品川沖から望めたという高燈籠や御濠の深淵が示す通り、一帯は高台にあって、空は西に南に広く
但し、太陽は既に地平線の下側に隠れ、忠嗣が富士見花柳街に足を踏み入れた頃、天穹は群青から
ここまで遠征したならば、せめて場所だけでも確かめておこう……半ば諦めて現地に到着したところ、そこに暗がりはなかった。夜に始まる花柳街。妓楼か
「巡査の坊やは見番が目印とか言ってたな。見番って何なのだろう。ええと、九段三業會舘ビルヂング。ああ、あれか。これは分かり易い。そいつの近くの傍の筋をちと戻る」
江戸の情緒を残す周囲の景観とはやや不似合いなモダンな建物。地図の添え書きを当てに横丁に入る。料亭が並び、およそ古書店がある區劃とは思えぬが、ほかに頼りもなく、道行く
「んん、これか……書店には見えないけれど、同じ屋号が二つあるはずもない」
黒塗りの扉に菱形の
小心者の忠嗣ではあるが、ここは奮起して扉に手を掛けた。微かに動く。まだ閉店の時刻ではなかった。力を込めると、引き戸は音もなく滑り、吸い込まれるように仄暗い店内に誘われた。
「御免下さい」
夜の漁港を聯想する光景だった。揃って帰還した船の漁火。或いは、遠き山の嶺に連なる狐火か。昏い店内に幾つも点る小さな燈。星空と形容するには余りにも切なく、淋しげである。そして、書肆を標榜すれど、入り口附近には無意味な空間があり、並ぶ背表紙は認められない。一体全体、何の見世なのか。
「いらっしゃいませ。どうぞ中に」
恐らく横長の店舗。その奥方に会計の卓らしきものが置かれ、店員が独り座っていた。垂れる花房に似た
忠嗣は慄然とした。刹那にして鳥肌が立つ。十代後半の少女とも思えたが、直感は違うと告げている。少年だ。
全身の震えが止まらない。血が沸き立って、動悸が切迫する。血流が著しく偏り、烈しい
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます