第二章〜美少年の甘い蜜に禁断の血が騒ぐ〜

11一話『九段の高燈籠は深淵を照らし出すか』

 ひと区間、市電の停留所を間違え、知らぬ下町に迷い込む羽目となった。巌谷忠嗣いわや・ただつぐが神保町を訪ねるのは、何時いつぞや佛和辞書を買いに来た折以来で、馴染みの町とは言えない。


 学生の時分にそぞろ歩いた経験数度あれど、先の震災よりの復興著しく、景観も目紛めまぐるしく変容している。目安になるビルヂングのひとつも知らず、道標みちしるべとなる老舗も心得ない。


「番地を検めたところで、数字の羅列にしか見えぬ」


 こうした時、田舎者は始末に困る。通行人にけば良いもの、如何せん、御上りさんと嗤われるのを怖れて気遅れしてしまう。出納手の欽治きんじによれば、都会者は市電省線の路線図を腕を組んでつらつら眺めるという。


 交通網の変化は早く細かく複雑過ぎて、いちいち覚えるものではなく、その都度確かめる。路線図を凝視することは、無粋とも言えないようだが、田舎者には真似が出来ぬ仕草だ。


 傾き始めた西陽を頼りに進むと、見憶えがある一劃いっかくが現れた。前に立ち寄った古書店。表の棚で日焼けする背表紙を右左と順に追い、売れずに居残る一冊を認め、手に取った。図書館に勤めながら、不思議なことに、忠嗣が書籍に触れたのは、この日、初めてだった。


「いやいや、古本に色気を出している場合でもない。そろそろ書肆も戸締りを始める頃合いだ」


 定刻より随分と早めに退勤したはずだったが、時刻は十七時を回っていた。忠嗣は裏庭の安川書庫脇から東京音樂學校の敷地を抜けて帰宅する順路を開拓。素晴らしき脱出口を見付けたり、と自画自賛していたものの、危うい予感がしないでもない。


 夜盗の侵入事件から約一週間をけみし、帝國圖書館ていこくとしょかんは日常を取り戻しつつあった。既に昨日くらいからは平時と見做しても差し支えない。頻々ひんぴんと訪れていた部外者の不審な影は、事件から四日後を境に掻き消え、下足番も給仕も話題にすることがなくなった。


「上野の帝國圖書館に不法侵入者の足跡複数」

 

 事件発覚の翌日に報知新聞が、そう小見出しで伝えた以外、後追いする新聞社もなく、夜盗騒ぎが世間の耳目を集めることはなかった。これは極短期間で忘れ去られたのではなく、意図的に関係各省が風化させたものである。


 賊の侵入を許すという前代未聞の不祥事にも拘らず、実害軽微とあって、松本館長を筆頭に上級館員は火消し作業に務め、責任者の処分に及ぶような大事には至らなかった。面倒を嫌い、有耶無耶にしたい文部省、また、犯人の目星が付かず難儀する内務省。その両者の思惑が一致した模様だ。


 巡視長が入手した情報によれば、内務省警保局は程なく手を引き、捜査は所轄に回されたという。話好きの巡視長は一時、切羽詰まった状況に置かれたが、事件の作為的な風化に伴い、難を逃れた。夜廻りの回数と人員を少々増やす方針を示しただけで、お咎めもない。

   

「戸締り厳重にして各階各室に堅牢なる内鍵をしつらえるべき」


 忠嗣は左遷後初となる上申書を認め、古株の司書に提出した。侵入事例を口実に鍵を設置して、禁書庫における快眠の一助となるよう企んだのである。


 しかし、審議も稟議もなく却下された。閑人ひまじんの持ち場は事件の現場で、再発防止の観点からも重要と思われたが、見透かされていた。


 地下の職場に何ら変化はなく、何巻か盗まれた書架の隙間も、そのままだった。禁書庫の文机ふづくえに向かうと、当該の書架が視界に入る。最上段の隙間は妙な存在感を放ち、失われた書物、不在のそれらは実に雄弁に思えた。


「変態が好む本。変質者しか読まぬ畫集がしゅう


 捜査中、禁書庫に押し入って来た内務省図書課の女傑は、そんな風に言い放った。取るに足らない、塵紙同然の、どうでも良い書籍だと見切ったのだ。


 だが忠嗣は逆に、見逃すことの出来ぬ至高の本に相違ないと奮い立った。自らを変態と自認して誇っている訳ではないが、実に趣味が重なり合う。共鳴する何かがある。人事異動から丸一年、時間を持て余しながら、その書籍をひもとかなかったことが悔やんでも悔やみ切れない。閑人は深く反省した。


「おや、もう夜燈がともる頃合いか」


 和洋折衷、流行の帝冠様式が趣き深い九段軍人會館。その偉容に隠れるようにして、一棟のやぐらが見えて来た。坂上の象徴として知られる高燈籠たかどうろうだ。西陽を受けながらも、自ら橙色のあかりを放つ。


 高燈籠は招魂社󠄁《しょうこんしゃ》創建に合わせて設置されたものだが、先の震災後、大通りの整備に伴い、千鳥ちどりふちうしふちを臨む南側に移された。常燈明台じょうとうみょうだいの異名を持ち、かつては品川沖からも燈火ともしびが見えたという。


「富士見町三丁目か四丁目……このまま歩めば看板も見当たるはず」


 禁書庫より奪い取られた数巻、俗に杜若文庫かきつばたぶんこと称される書籍の寄贈主が、この附近に住まうという。半分は忠嗣の憶測だった。九鬼須磨子くき・すまこが広げた簿冊の一頁に、屋号と番地が記されていたのである。閑人は隙を突いて盗み見し、そして頭に叩き込んだ。


 愈々いよいよ陽も傾き、高燈籠の明かり眩く、足元を照らし出すものの、大内山*の御濠おほりくらく、水面に散った桜花も霞む。東京招魂社とうきょうしょうこんしゃに競走馬の蹄の音響きし頃、この辺りは急坂だった。


 それが震災後の大普請で勾配が緩やかになったという。九段坂下、坂上の地名は昔の名残で、今は凡庸な坂に変わっている。東西貫く新設の大通りは靖國神社に因んだ名を附され、一帯は大きく変容したとも聞く。


 大鳥居の前で忠嗣はパナマ帽を脱ぎ、遠い拝殿の方角に向かって一礼すると、手元の地図をあらためた。富士見町は参道の北、飯田橋に進む途上と記される。靖國の桜並木は花盛りで、下を潜って風情を堪能したいところだが、黄昏時が背中に迫り、心ならず歩調も早まる。


《注釈》

*大内山=当時の宮城、現在の皇居を指す。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る