08八話『怪盗蜘蛛男の複眼にも曇りあり』

 二度と官憲の尋問など受けたくない。官吏人生を一変させた平河町事案を回想し、忠嗣ただつぐは図書館三階に遁走した。待機命令は額面通りで、食堂附近で暇を潰しても問題はなかったが、そこにも官憲が彷徨うろつく。警視庁の捜査員など、近くで見るだけで不愉快だった。


「よっ、欽ちゃん、暇そうだね」


「おやおや、上の階にお越しになるとは珍しいですね。巌谷様に暇そうだなんて言われる日が来るとは思ってもなかったです」


 欽治きんじら出納手は一様に無聊ぶりょうかこっていた。閲覧者が居なければ本を取り出す作業もなく、書架の整理も禁じられたという。徹底した現場の保全だ。その為、三十人を越す出納手は、官憲が調べを尽くした三階中央の普通閲覧室に集められ、何をするでもなく、ぼうっと座っている。


 この三階閲覧室は、明治以来、帝國圖書館の象徴とも言える大部屋だ。天井までの高さは約九米もあり、唐草模様の飾りなど漆喰彫刻が麗しい。初めて仰ぎ見た際は、忠嗣もその偉容に畏れ入った。


 天井から吊り下がる三叉みつまたのシャンデリアも優美で、赤坂の離宮には遠く及ばないにしても、気品に溢れ、訪れる田舎者をおののかせるに充分であった。忠嗣も見惚れ、暫し立ちすくんだ者の独りである。


「もう今日は仕事もなさそうだし、欽ちゃんたちも帰っちゃえば良いんじゃないの」


「そうは行きません。調べが終わり次第、開館するとか言ってました」


 忠嗣は自主的に早退しようと企んでいたが、捜査の進捗次第で開館する模様だ。館外の行列はやや興奮状態で、始末に悪いらしい。


「書庫も立ち入り禁止なのかな」


「中に警察の人はりませんが、ここで待てと申し付けられました」


 欽治らが集う座席の奥には、家屋を模した大仰にして重厚な木製扉がある。両脇には希臘風ギリシャふうの円柱。風変わりな扉はエディキュウルなる名称を持つ様式のもので、その名は「小さな神殿」を意味するという。


 神殿の扉の奥が書庫で、出納手が普段忙しなく駈けずり廻る場所だが、今は固く閉ざされていた。突然の待機命令で誰しも手持ち無沙汰のようだ。一方、捜査が続く中、三階には出納手や事務方の雇員が居るばかりで、煩わしい司書ら上級館員の姿は見掛けない。


 事情通の雇員によると、御歴々は新聞社への対応で戦々恐々の有り様という。如何にも異様な館外の長蛇の列。関係者か捜査筋が漏らしたのか、鼻の利く記者が侵入事件を嗅ぎ付けたのか、銘々が電話応対に追われているらしい。


「何が盗まれたのか、聞いてるかな」


「いいえ、それが判明しないようです」


 大騒ぎの割には、誰しも事件の概要すら知らず、首を傾げるばかり。こそ泥の類いにも思えるが、捜査員の数は多く、大掛かりと言える。忠嗣は官舎の家宅捜索で文部省が面子を潰され、些事が大事に至った経緯を振り返った。少なくとも官憲が規制を敷いた時点で、館長は頭を抱えていることだろう。


 しかし、禁書庫の閑人ひまじんにとっては他人事である。自分に嫌疑が掛けられてる訳でもない。忠嗣は窓際に移動したところで、ふと昨日、その附近から九鬼須磨子くき・すまこに花見の現場を目撃されたことを思い出した。


「うむ、ここから桜の下は丸見えだな。見下ろすと案外、距離も近い」


 逃走先に選んだ東京音樂學校の敷地も良く見渡せる。忠嗣は、須磨子に昨日の乱行を詰問されると覚悟していたが、侵入騒ぎに乗じて有耶無耶に出来るものと踏んだ。己の不始末を掻き消す好都合の事件とも言える。


「巌谷様、何を独りで笑ってらっしゃるのですか」


 平手で臀を叩かれた。欽治は親しみを込めた挨拶の一種だと勘違いしているようだ。これも好都合である。 


「奥の閲覧室に入れるようになったそうです。一緒に見に行きませんか」


 もの凄く可愛らしい笑顔で誘って来る。欽治は同世代のほかの出納手と比べ、きりりと顔も端正にして雪肌も色っぽく、夢に現れることも稀ではなかった。どさくさに紛れて手でも繋いで見ようかと思ったが、衆目が多く、憚られた。それよりも前に、欽治は目的の場所に先走る。


「ここが盗賊の押し入ったところだって聞きました」


 こちらも巨大な閲覧室で、図書館の西側に位置する。同じ木枠の立派な大窓。その脇に若い巡視が思案顔で立ち尽くしていた。訳を尋ねると、賊が侵入した現場なのだと呟く。


「ええ……いや、ここ三階でしょ。有り得ない話だ。何かの間違いじゃないのかな」


「確実だとの話です。さっきまで、警察の鑑識官と言うのでしょうか、そんな専門の方が、指紋をあらためたり寫眞を撮ったりしておりました。吾輩も呼ばれて色々と質問を受けていたのですが、慌てて地下の階に向かったようです」


 巡視によれば、一番乗りの閲覧者がここで靴跡を発見したという。清掃の担当者は深く考えず、取り急ぎ、床を洗った。その後、廊下と階段で新たな靴跡と土塊つちくれ泥汚れが相次いで見付かり、館長自ら所轄に通報。侵入事件として本格的な捜査が始まった。


「恐らく、犯人は館内が土足厳禁だと知らなかったのでしょう。階段には二階の踊り場附近まで転々と足跡があったと聞きます」


 証拠を残す失態ではあるが、焦点はそこではない。三階の窓である。賊は壁をじ登って侵入したというのか。窓の外には梯子代わりになる高い樹木もない。こそ泥ではなく、怪盗さながらだ。


「ビルヂングを素手で登る蜘蛛男だか、そんな大道芸人の武勇伝を聞いたことがあるけど、外国の話だし、本邦に同じような術を弄する怪盗が居るとは噂にも聞かぬ」


「怪盗って言うんだ。そいつは面白れえな」


 探偵小説でしかお目に掛からない単語が気に入ったらしく、欽治は眼を輝かせるが、若い巡視は更に表情を曇らせて俯く。


 大窓の硝子に異常は認められない。侵入が事実ならば、最初から窓が開いていたことになる。巡視の責任が問われる次第だ。

 

「門扉の閉塞確認は吾輩共の基本です。便所の小窓ですら閉館後の検分を怠ることはありません」


 納得が行かぬ様子だった。地下で鉢合わせた巡視長が沈鬱な面持ちだったのも頷ける。しかし、面妖なことに被害は今のところ未確認だという。大胆不敵な犯行でありながら、何も盗まずに去ったのか。


 元より図書館には現金も金目の品もない。シャンデリアもエディキュウルも歴史的な文化財であるが、掠め取れる物ではなく、賊の風呂敷には到底収まり切れぬ。


「三階も二階も、書庫が荒らされたってことじゃないみたいだよ」


「そうなんだ。うむ、もっと分からなくなって来たな。そんじゃ、欽ちゃん一緒に考えよう。今日は探偵ごっこだ」


 忠嗣が誘うと、欽治は一層喜び、腕捲りまでして気合いを示したが、折り悪く、冷や水を浴びせられた。帳簿掛ちょうぼがかりの女性雇員が閲覧室に駆け込んで来て、不気味なことをのたまう。


「警察の方が、巌谷司書を指名してお探しです。早く地下の持ち場にお戻り下さい」


 背筋に冷たいものが走った。勿論、犯人に心当たりはなく、犯行の動機も推し量れぬ。しかし、近頃は当てずっぽうで市民を捕える冤罪も増えていると聞き及ぶ。現に平河町での拘束事例が同類の所業だった。


 嫌な予感しかしない。昨日に続き、このまま玄関口を突破して逃走を図ろうとも考えたが、それこそ悪手で、また実行に及ぶ度胸も覚悟もなかった。


<附録>

寫眞解説しゃしんくわいせつ】帝國圖書館潜入編〜③〜

https://kakuyomu.jp/users/MadameEdwarda/news/16817330668570014917

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