07七話『禁書庫に遺された禍いの土塊』
夜半から降り続いた雨は、通勤通学客で市電が混雑する時刻までに止んだ。春の長雨と予想し、本日は病欠を決め込もうと思案した矢先、あっさりと止み、西の空には晴れ間も覗いていた。
やや
上野の
生真面目なのではなく、生来の臆病がそう仕向けているのだが、サボタアジュするまでもないというのが実際のところである。出勤さえすれば文句も言われず査定にも響かず、文官の高い俸給が貰えるのだ。これを見す見す手放したりはしない。
「おやまあ、こりゃまた何たる行列であることか……」
「よ、
「あ、巌谷司書殿。お早うじゃないですよ、ってこれ毎日言っているような気がするなあ」
下足番の
禁書庫に続く廊下脇の食堂は、館外の行列とは対照的に人も
「あれ、電球がまた新しくなってるぞ。松下の最新式かな。そう言えば、昨日はここに戻らずに帰宅したんだっけか」
花見酒の現場を三階の須磨子に目撃され、土手を越えて東京音樂學校の敷地内に逃げ去った後、退勤時刻も過ぎた為、そのまま帰路に付いたのだ。教棟より届く弦楽合奏の音色に聴き惚れてるうち、陽が傾き、良い頃合いになった。
電気系統の点検作業員と
「浅草のネオンとかそんな感じだし、妙案だと思ったのに、全く融通が利かぬ」
そこそこ本気だった。不夜城とも称される帝都の繁華街では、極彩色の電飾が花盛りで、どれも見目麗しく、心惹かれるものがあった。
しかし作業員は、ネオン管と電球は仕組みが違うなどと技術的な説明を始め、
「紅のゼラチンでも貼り付けてみるかな。備え付けの踏み台じゃ背丈が足りないけど、脚立があれば手も届くだろうし。いや、それも眼の毒か。暗過ぎたら、活字が読めん」
忠嗣はふと思うだしたように手提げ鞄から辞書を取り出した。本日の重要な職務を忘れてはいけない。姿勢を正し、改めて座り直し、一冊の辞書を
赤い表紙も鮮やかな三省堂のコンサイス
「どれどれ、おお、矢張り電燈が明るいと見易いな。紅ゼラチンの仕込みは保留にしておこう」
この辞書と首っ引きで
上野の杜に流刑となった際、忠嗣は短歌創作に挑み、暇に任せて何首か詠んでみたものの、直様、壁に突き当たった。どれも及第点に達しないのだ。与謝野夫妻や啄木、子規に親しんだ学生の時分を回顧しつつ、筆を執ったは良いが、想い
短歌詠みを早々に諦め、次いで翻訳業に色気を示した。才能が要らず、一定の技術と有り余る時間を使えば、形になると安易に考えたのだ。悩んだ末に的を絞った詩人は
ワーズワースは田舎育ちで、抒情的な描写を得意とする浪漫派だ。衒学趣味の都会派とは一線を画し、難解な用語も奇抜な造語も用いない。湖水詩人との二つ名に加え、桂冠詩人という肩書きにも忠嗣は関心を寄せた。
しかし、風景描写こそ和訳が難しく、
「あれれ、肝心の原書は何処に挟んだんだっけか。奥のほうに適当に仕舞い込んだのは良く覚えているんだが」
目当ての洋書を訪ねて最奥の書架に近寄った時、忠嗣は床に落ちた
「点検作業員の仕業か。いや、あの堅物の職人に限って落ち度はなかろう」
附近を見廻すと、隣の棚の前にも、ほんの欠片に過ぎないが、土が落ちていた。不自然極まりない。館内の移動は誰しも
野良犬の落し物かとも想像したが、厨房を通過して書物だけの奥まった部屋を目指す訳がなく、忠嗣には酷く奇妙なものに思えた。塵紙で拭い取ることは造作もないが、水で洗い清める必要がある。
重度の潔癖症ではないにせよ、泥で床が穢れることは許せなかったのだ。蒸し暑い時期、
「モップって言ったけかな。便利なものがあったはず」
「おや、巌谷司書、そんな不似合いな用具を持って、どちらへ」
「いえね、小職の寝室……じゃなくて、職場に土が落っこちてたもんで、これを機会に全面的な拭き掃除でもと思いまして、実に殊勝な心掛けで」
そう話した途端に、巡視長と背広組の眼の色が変わった。元から面相の宜しくない二人組である。忠嗣は叱られるものと察知して首を
「土だって。貴方が言う職場とは何処ですか」
独りの男が怒鳴る調子で言う。一体、何者かと
「奥のプレエトのない部屋ですが、大したことはありません。糞よりも小さな土塊です。適当に小職が片付けます」
「それはならん」
厳しい口調ではなく、命令だった。強面の背広男は矢庭にモップを取り上げ、連れに対して、誰かを急いで呼び付けるよう指示した。隣の巡視長も表情を強張らせる。
「現場保全が優先される。貴方も持ち場に戻ってはならん。別箇所で待機してなさい」
廊下での騒ぎを聞き付けて火夫が飛び出して来た。更に食堂から給仕が顔を覗かせる。忠嗣が一方的に叱責を受けている恰好だ。心当たりはないにしても、自分に過失があったのかと観念し、急いでこの場から逃走しようと身動ぐと、巡視長に肩を掴まれた。
「巌谷司書が慌てても仕方ない。もしや、耳にしていないのかな。泥棒が入ったんだよ。この堅牢な建物に昨晩、侵入者があったんだ」
深夜か未明に夜盗が侵入し、朝方から館内は大騒動になっていると話す。官憲が徒党を組んでやって来て、今尚、現場検証が続く。閲覧室は
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