07七話『禁書庫に遺された禍いの土塊』

 夜半から降り続いた雨は、通勤通学客で市電が混雑する時刻までに止んだ。春の長雨と予想し、本日は病欠を決め込もうと思案した矢先、あっさりと止み、西の空には晴れ間も覗いていた。


 ややかかとの擦れた革靴を履き、重い鞄を下げて市電と國電を乗り継ぐ。朝も九時を過ぎると人波は穏やかになって座席も奪える。これぞ通勤革命だと忠嗣は独りちするも、残念ながら自慢する相手を欠く。


 上野のもりに放流されて以来、假病けびょうを用いて狡休ずるやすみをすることは一度とてなかった。


 生真面目なのではなく、生来の臆病がそう仕向けているのだが、サボタアジュするまでもないというのが実際のところである。出勤さえすれば文句も言われず査定にも響かず、文官の高い俸給が貰えるのだ。これを見す見す手放したりはしない。


「おやまあ、こりゃまた何たる行列であることか……」

 

 何時いつも通り昼前に出勤すると、帝國圖書館前に長蛇の列が築かれていた。入館を待つ行列は恒例でして珍しくもないが、この日は異様な長さだった。愚図付いた空模様の関係で、朝一番に訪れる者たちが遅れてやって来たのか。


「よ、ごんちゃん、お早うさん」


「あ、巌谷司書殿。お早うじゃないですよ、ってこれ毎日言っているような気がするなあ」


 下足番の権亮ごんのすけは、何か附言したいような素振りだったが、階段の上の辺りが妙に騒がしく、誰かが降りて来る気配もある。極力見られたくない出勤の光景。忠嗣は急ぎ足で自分の職場に向かった。


 禁書庫に続く廊下脇の食堂は、館外の行列とは対照的に人もまばらだったが、これも感知する事柄でもない。本日は割と忙しく、挑戦すべき仕事を抱えているのだ。


「あれ、電球がまた新しくなってるぞ。松下の最新式かな。そう言えば、昨日はここに戻らずに帰宅したんだっけか」


 花見酒の現場を三階の須磨子に目撃され、土手を越えて東京音樂學校の敷地内に逃げ去った後、退勤時刻も過ぎた為、そのまま帰路に付いたのだ。教棟より届く弦楽合奏の音色に聴き惚れてるうち、陽が傾き、良い頃合いになった。

 

 電気系統の点検作業員とつらを合わせたくないとの事情もあった。出入業者の職人は冗談が通じない無粋な男で、先月のこと、忠嗣が電球を淫靡な装いのあかか桃色に変更するよう申し出たら、その旨を業務報告書に記し、図書館上層部で取り沙汰される次第になった。


「浅草のネオンとかそんな感じだし、妙案だと思ったのに、全く融通が利かぬ」 


 そこそこ本気だった。不夜城とも称される帝都の繁華街では、極彩色の電飾が花盛りで、どれも見目麗しく、心惹かれるものがあった。また、上野驛頭にある地下鐡ストアビルヂングのネオン大時計は、ひと頃、界隈の話題を独占し、密かに憧れを抱いていたのだ。


 しかし作業員は、ネオン管と電球は仕組みが違うなどと技術的な説明を始め、しまいには説教口調で講釈を垂れる始末だった。江戸っ子の職人は粋で小噺も面白いと評判だが、他方で意固地な堅物も多い。


「紅のゼラチンでも貼り付けてみるかな。備え付けの踏み台じゃ背丈が足りないけど、脚立があれば手も届くだろうし。いや、それも眼の毒か。暗過ぎたら、活字が読めん」


 忠嗣はふと思うだしたように手提げ鞄から辞書を取り出した。本日の重要な職務を忘れてはいけない。姿勢を正し、改めて座り直し、一冊の辞書を文机ふづくえに据えた。それだけで既に一大事業に取り組んでいる気分になるから不思議である。 


 赤い表紙も鮮やかな三省堂のコンサイス佛和ふつわ辞典。真冬の寒い最中さなかに神保町まで足を伸ばして購入したものだが、春の陽気に浮かれて自宅の書架に眠れるままになっていたものだ。簡易簡明にして、学生ばかりか専門家諸氏も座右に置くと伝えられる辞書である。


「どれどれ、おお、矢張り電燈が明るいと見易いな。紅ゼラチンの仕込みは保留にしておこう」


 この辞書と首っ引きで佛蘭西フランスの詩篇翻訳に挑む所存だ。勿論、司書の本来業務ではなく、趣味の域を出ない作業であるが、知られざる詩篇を見事な日本語に置き換え、あわよくば同人誌の片隅に載らんとする野望を胸に秘めていた。命じられた職務と異なり、少々の気合も入る。


 上野の杜に流刑となった際、忠嗣は短歌創作に挑み、暇に任せて何首か詠んでみたものの、直様、壁に突き当たった。どれも及第点に達しないのだ。与謝野夫妻や啄木、子規に親しんだ学生の時分を回顧しつつ、筆を執ったは良いが、想いあぐねて日が暮れる。


 短歌詠みを早々に諦め、次いで翻訳業に色気を示した。才能が要らず、一定の技術と有り余る時間を使えば、形になると安易に考えたのだ。悩んだ末に的を絞った詩人は英吉利イギリスのワーズワース。少年時代に地元秩父の文庫で『ウォルヅヲォスの詩』に出会ったえにしがある。


 ワーズワースは田舎育ちで、抒情的な描写を得意とする浪漫派だ。衒学趣味の都会派とは一線を画し、難解な用語も奇抜な造語も用いない。湖水詩人との二つ名に加え、桂冠詩人という肩書きにも忠嗣は関心を寄せた。


 しかし、風景描写こそ和訳が難しく、また、図書館の目録で本格的な選集の翻訳版が既に上梓されていることを知った。二番煎じでは、評判となるはずもない。


「あれれ、肝心の原書は何処に挟んだんだっけか。奥のほうに適当に仕舞い込んだのは良く覚えているんだが」 


 目当ての洋書を訪ねて最奥の書架に近寄った時、忠嗣は床に落ちた土塊つちくれに気付いた。灰白色かいはいしょくのリノリウムの上で際立つ異物。形状から鼠の糞ではないと判る。


「点検作業員の仕業か。いや、あの堅物の職人に限って落ち度はなかろう」


 附近を見廻すと、隣の棚の前にも、ほんの欠片に過ぎないが、土が落ちていた。不自然極まりない。館内の移動は誰しも上草履うわぞうりの着用が義務付けられ、ひとくれの土も溢れる余地はない。


 野良犬の落し物かとも想像したが、厨房を通過して書物だけの奥まった部屋を目指す訳がなく、忠嗣には酷く奇妙なものに思えた。塵紙で拭い取ることは造作もないが、水で洗い清める必要がある。


 重度の潔癖症ではないにせよ、泥で床が穢れることは許せなかったのだ。蒸し暑い時期、閑人ひまじんは本を枕に床で寝ることがあった。リノリウムの床は冷んやりして心地好い。

 

「モップって言ったけかな。便利なものがあったはず」


 汽罐室きかんしつ火夫かふから清掃用具一式を借り受け、水を汲みに参ろうとしたところ、巡視長と出会でくわした。見知らぬ背広服の二人組を連れ、珍しく神妙な面持ちだ。


「おや、巌谷司書、そんな不似合いな用具を持って、どちらへ」


「いえね、小職の寝室……じゃなくて、職場に土が落っこちてたもんで、これを機会に全面的な拭き掃除でもと思いまして、実に殊勝な心掛けで」


 そう話した途端に、巡視長と背広組の眼の色が変わった。元から面相の宜しくない二人組である。忠嗣は叱られるものと察知して首をすくめた。


「土だって。貴方が言う職場とは何処ですか」


 独りの男が怒鳴る調子で言う。一体、何者かといぶかりつつも、相手は態度も大きく、話し振りも大袈裟で、閑人は怯み、意味もなくモップの柄で顔を隠した。


「奥のプレエトのない部屋ですが、大したことはありません。糞よりも小さな土塊です。適当に小職が片付けます」


「それはならん」


 厳しい口調ではなく、命令だった。強面の背広男は矢庭にモップを取り上げ、連れに対して、誰かを急いで呼び付けるよう指示した。隣の巡視長も表情を強張らせる。


「現場保全が優先される。貴方も持ち場に戻ってはならん。別箇所で待機してなさい」


 廊下での騒ぎを聞き付けて火夫が飛び出して来た。更に食堂から給仕が顔を覗かせる。忠嗣が一方的に叱責を受けている恰好だ。心当たりはないにしても、自分に過失があったのかと観念し、急いでこの場から逃走しようと身動ぐと、巡視長に肩を掴まれた。


「巌谷司書が慌てても仕方ない。もしや、耳にしていないのかな。泥棒が入ったんだよ。この堅牢な建物に昨晩、侵入者があったんだ」


 深夜か未明に夜盗が侵入し、朝方から館内は大騒動になっていると話す。官憲が徒党を組んでやって来て、今尚、現場検証が続く。閲覧室はいずれも閉鎖中との由。出勤時に忠嗣が見た館外の長蛇の列は、締め出されて再度の入館を待ち侘びる者たちであったのだ。


 大事おおごとである。夜盗の侵入は、帝國圖書館の設立以来初めてのことで、湯島聖堂や東京書籍館とうきょうしょじゃくかんの時代に遡ってもな無かったという。巡視長は警邏部門の責任者として、事態を重く受け止めているようだった。

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