06六話『勤務時間中の花見酒は背徳の味』

 帝都の治安悪化は毎年叫ばれ、新聞社はいたずらに不安を煽り立てるが、狼少年にも似て、犯罪が激増したとの統計はない。それでも東京市内山手では番犬を飼う世帯が目立つようになった。悪足掻きだ、と巌谷忠嗣いわや・ただつぐは嘲笑う。


 仏の顔も三度までという如く、番犬も三度までが限界と聞く。犬は善人と悪人の区別が付かない。所詮は畜生である。人相も身形も無関係、餌を与えてくれる者が畜生にとっては善き人だ。空き巣も夜盗も充分にそれを心得ている。


 見知らぬ匂いの者が敷地に立ち入れば、番犬は吠ゆる。激しく吠えて噛み付くことも厭わない。そこで夜盗は、餌を放る。パン一斤でも菓子類でも残飯でも良い。一度目は咆吼喧ほうこうかまびすしく、二度目三度目も難しい。


 それが四度目となると、急に尻尾を振って盗人を歓迎するようになるという。訓練された優秀な番犬でも餌の魅力には敵わないようだ。如何に賢くとも食いしん坊で、悪人の知恵には勝らない。


 何かの書籍で読んだもので、実際のところ番犬が盗人の餌にかぶり付くのか、忠嗣は詳しく知らぬが、充分に有り得る事柄だと考える。先ずは番犬を手懐け、次いで飼い慣らし、他人の家を我が家同然に変えるのだ。


「独りでは食べ切れないんで。まあ、詰まらない茶請ちゃうけですが、皆さんで召し上がって下さい」


 部屋に立ち入った忠嗣は、巡視の面々に函入はこいりのシベリアを差し出した。貰い物ではなく、自宅近くの和菓子店でわざわざ購入した品だ。ここ帝國圖書館に於いて、巡視が番犬に該当する。手懐ければ必ずや三度目と言わず、尻尾を振るに違いない……そんな不届きな思惑が貢ぎ物には秘められていた。


何時いつも悪いねえ。どうぞ巌谷司書も座って一緒に食べて行きませんかね。こう言っちゃあ気に触るだろうけど、暇でしょ」


「そんな気遣いは要りません。ということで、こちらも気遣いなく、御相伴おしょうばんに預かっちゃおうかな」


 巡視長に促され、閑人はソファアに腰を沈めた。貴賓室にあった高級品のお下がりで実に座り心地が好く、禁書庫の硬い椅子とは比較にならない。お下がり品を孫請け出来ないものかと密かに企むが、それには煩わしい手付きが必要だった。備品の管理に厳しい点は霞ケ関の官僚機構と変わらない。


 巡視が控えるのは、図書館玄関脇の宿直室。民間の請負業者だが、巡視長だけは館長隷下の雇員扱いで、人事異動もなく、勤続年数も長い。館の主と呼ぶに相応しい存在で、早くから狙いを定めて接近した忠嗣は、自らの慧眼に感心するばかりだった。


 それでも、良からぬ思惑があったにせよ、初老の域の巡視長は話上手の好人物で、閑人ひまじんと妙に馬が合うところもあった。今では当初の打算も殆ど忘れ、互いに気安く接する仲となり、噂話に花を咲かすことも稀ではない。


「電気系統の点検って、明後日ぐらいでしたっけ」 


「いや、今日だよ。もう暫くしたら来る時間。宿直台帳に申し送り事項が記されていたはず。確かめるかね」


「いえ、そこまでは結構です」


 館内の動きについて軽く探りを入れることも可能だった。巡視長は館内の予定を悉く把握している訳ではないが、貴賓の往来や業者の出入に関しては完璧だ。図書館の牢名主的存在であるに留まらず、職務柄も一番の事情通と言える。


 忠嗣が自分の評判、取り分け平河町事案について、誰がどの程度知っているのか、およその検討が付いたのも、巡視長と交わした雑談に依るところが大きかった。


 巡視部門や出納部門、加えて厨房や給仕たちも何ら知り得ていない。霞ケ関を逐われた理由、背景にあった高尚な趣味に関して知るのは、ひと握りの上級館員と古参の雇員だと推定される。


「それじゃ、小職はこの辺で御暇おいとましようかと。因みに、工事人が地下を巡るのは何時くらいが分かりますか」


「そこまでは知らないけど、何時いつも通りなら地下が最初で閲覧室は閉館後だね」


 煎茶を飲み干して宿直室から退出すると、忠嗣は自分の職場には戻らず、その足で中庭に向かった。三階部分の予定点検時刻から、工事人が禁書庫に来るのは、小一時間ほど後と逆算できる。応対が面倒なだけではなく、午睡の邪魔だ。


「おや、学生さんかな」


 裏庭の奥からかすかな話し声が聴こえた。読書の合間、気分転換に表に出向く閲覧者も多いが、たいていは独りで、複数人が寄り集まって声を立てることはない。


 図書館北側の庭には木造二階建ての新しい書庫があり、声はその裏手から響く。やや粗末な木造りの建築物は、五年前に新設されたもので、安川文庫と呼ばれる。と或る電工の社長が手狭な図書館を憂い、諸費用の一切を負担して寄贈したという。


「こんな場所で花見とは酔狂な」


 安川書庫の裏に回ると、奥で茣蓙ござを広げて酒盛りする男共の姿があった。日当たりの悪い裏庭。一対の染井吉野はいずれも五分咲きといった按配で、色も風情も乏しいが、三人の男は構わないようだ。花より酒、雰囲気よりも旨いさかな。それが花見の醍醐味であり、世の常である。


「おや、野良犬かと思いきや、本漁りの旦那さんか。ちょいと休憩って寸法ですかい」


 酒盛り中の男は、建物の陰から不意に現れた忠嗣に驚いた様子で、さっと貌を顰めたが、既に酔いが深いのか、それ以上は気に留めず、座る茣蓙を手で叩いた。一緒に呑もうと誘っているのだ。


 向こうは閲覧待ちの来館者と捉えたようだが、熱心な読者家でも研究者でもなく、只の閑人である。断る道理もない。また、花見の酔客を咎めるような野暮な料簡も持ち合わせていない。促されて忠嗣は茣蓙の上に臀餅をいた。

 

「まあ、気付きつけに一杯、どうぞ」


 安物の匂いで、硝子カツプも指紋が浮いていたが、拒むのも不粋。一応、就労中の身だと申し添えたものの、断る気など端からない。言われるまま勧められるまま、カツプを渡されると、軽く舐めた。


 安酒をたしなまない訳ではなく、下戸でもない。しかし、御猪口おちょこの半分で頬に朱がす体質。同僚諸氏に悟られることは確実とあって、どうにも憚られた。詰まらぬ常識に囚われたのではない。要は就業中に酒を煽ってみせる根性がなかったのだ。


「しかし、こんな奥まった箇所に桜の木があるなんて良くまあご存知で」


「客が始終寄らない秘密の桜と聞いたもんで試しに来てみたら、案の定、物静かで見栄えも良く……ほら、公園のほうは混雑して花見客が見世物のようで落ち着いて酒も呑めやしねえって感じです」


 学生風情ではなかった。忠嗣と同世代の二十代後半か三十絡みの男三人組。身形も清潔で、茣蓙のへりに置かれた革靴も黒光りしている。紳士とは言えないまでも、職工や労務者ではないようだ。


 満開の頃の上野恩賜公園は、平日休日の分け隔てなく桜木の下に府民が群がる。最近では街燈が充実したことから夜桜詣での酔漢も増殖し、蜜に集まる蝶ではなく、洋燈ランプに巣食う蛾といった有り様。


 新聞は春の風物詩の如く伝えるが、通勤で往来する者は、桜やマロニエの樹の根元が嘔吐塗れで見るも無惨なことを良く知っていた。


 花見客は茣蓙を広げる前に汚物に土を被せるのが常だ。それでも匂いは消えぬらしい。粋人すいじんが人知れぬ蔭の桜を愛でるのも道理に適っている。


「さあさ、ぐぐっと。つまみも摘まなきゃ、摘の甲斐がありません」 


 そう言われてするめに手を伸ばすも、相手は見知らぬ酔客とあって会話も弾まず、調子が上がらない。忠嗣は少々居心地を悪くした。


 仲良し三人の花見の座に、見ず知らずの図書館員が分け入ったところで、話の腰を折るだけだ。特に、一等奥で胡座をかくロイド眼鏡の優男は、ひと言も口を開かず、新参者に視線を向けることなく、空を見遣る。


 空ではない。図書館の上層辺りだ。忠嗣が顧みると、安川書庫の屋根を掠め、三階の大窓が見渡せた。窓際に女が立っている。


 野郎は女を窺っていたのかと納得したが、妙である。婦人閲覧室は二階の端で、上層に立ちんぼが居るはずもない……目を凝らすと、窓の女は須磨子だった。そして不運にも視線が合ったようが気がした。


「あ、いかん」


 咄嗟に忠嗣は面を伏せたが、後の祭りで、その慌てた素振りも確実に目撃されたに相違ない。不審な挙動は自ら正体を明かした恰好である。何の訳あって彼女が三階を彷徨さまよっているのか存ぜぬが、就労時間中の花見と飲酒は申し開きが出来ない。


 ここは遅ればせながら偽装して煙に巻くしかない。忠嗣は急いで靴を履き、図書館の建物とは逆の方向、小さな土手を越えて、東京音樂學校のキャンバスに逃げ込んだ。


 花見の学生と勘違いする可能性に一縷の希みを賭けた行動だが、騙し通せるはずもなく、それもまた、正体を白状しているに等しい。下手な芝居で新たに下手を打っただけである。


<附録>

近況ノオト【寫眞解説】帝國圖書館潜入編〜②〜

https://kakuyomu.jp/users/MadameEdwarda/news/16817330668468082426

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