05五話『水鉄砲の放物線は麗しき虹を宿す』

「似ている人物でしょう、と言ったらどうなりますか」


「ここは冗談が通じる場所ではない」


 偏屈者を絵に描いたような司法主任に免じて、素直に認めるしなかい。忠嗣ただつぐは、土俵で抱き合う腕白坊主の下半身を見て思い出した。昨秋の木枯らしが吹く少し前である。赤坂の日枝神社で催された奉納相撲。その前座を務める少年相撲を観に行った際のスナツプである。


 趣味が昂じて欲求に抗えず、只管ひたすらに少年の褌姿ふんどしすがたを拝みに参詣したのだ。邪心はどこにもなく、純心に従ったに過ぎない。少年の生白い臀部よりほかに美しいものは少なく、観るだけで心が安らぎ、股間も震える。


 だが、解せない。たかが少年相撲である。新聞で報道する価値などあるはずもない。


「右側の坊やが話題をさらったことも君は知らんのかね」


 聞けば、土俵上で優勢の褌少年は、明治初頭に活躍した大横綱の末々すえずえだという。当の横綱は断髪の後に行方を晦まし、満蒙まんもうに雄飛したとの噂も飛び交ったが、消息を経って幾星霜。その孫だか曾孫だか末裔が彗星の如く現れて新聞社が殺到する次第になった。 


 忠嗣の全く知らぬ事柄だった。確かに当日は大層な寫眞機を下げた野郎が目立ったが、職業キャメラマンとは想像だにしなかった。実に運が悪い。しかし、少年の褌観賞とおぞましい誘拐事件がどう関係しているのか。単に涎を垂らして白い臀を堪能していただけで、そこに罪がある由もない。


勾引かどわかされた坊ちゃんの住まいは紀尾井町だが、その前に平河町で少年ばかりに声を掛ける不審者が再三目撃された。聴き込み作業の結果、捜査線に浮上した人物が君なのだよ」


 警視庁と所轄は、この不審者出没をと称し、内偵を進めていたと明かす。言い掛かりの濡れ衣だと忠嗣はそしりたかったが、残念ながら声掛け事案は事実で、全体的に隈なく身に覚えがある。

 

 年端も行かぬ少年の立ち小便を眺める趣味があったのだ。滅多に遭遇することはない。そこで忠嗣は智慧を回し、小僧に小便をさせる妙案を思い付いた。


 官舎近くの菓子店で人気のシベリアを購入し、それを一斤あげると言うと、少年たちは進んで下半身を露出させ、壁や塀に美しい放物線を描いた。ただ立ち小便するだけで垂涎の銘菓が苦もなく手に入る。断る小僧は独りとて居なかった。


「まあ、学童に声を掛けることもあったやも知れません。とんと記憶にございませんが、彼の地は路地も多く坂もあって迷子になり易く、まあ、親切心から御節介承知で声を掛けたことが一度や二度あったやも知れません」


 平然と嘘を吐いた。親切心など欠片かけらもなく、好奇心と助平心のみの所業だが、被害者は居ない。覗き見も未成年の小便も軽犯罪に該当しないのだ。それでも尚、尊大な司法主任は難癖を付け、生活様式など色々と尋ねた。


 麹町署に連行されて何時間が経ったのか、腹も空き、明日の業務にも支障を来たすと焦燥感に駆られ始めた矢先、忠嗣は唐突に釈放された。尋問と並行して家宅捜索が行われていたのだ。


 その結果、当然のことではあるが、誘拐された少年の姿は自宅にないと判明。舞い戻って来た刑事も司法主任も態度を改め、速やかに帰宅を促した。一件落着、嫌疑は晴れ、冤罪による不当逮捕は免れた。

 

「やれやれ、とんだ災難に遭ったものだ。まあ、しかし、貴重な体験とも言えなくもない」


 文部省官舎二階の自宅は、荒らされた様子もなく、瞥見する限り、異状は認められない。令状なしの不届きな家宅捜索であったが、司直の手を煩わす程の大事でもなかった。その晩、忠嗣は日頃と同じように床で安眠した。


 異変を知ったのは、翌朝、文部省の庁舎に出勤した後である。上層部を中心に大騒ぎになっていた。明治に遡っても文部省の関係箇所が捜索を受けたことがなく、前代未聞の不祥事に相当するという。


「容疑も何も聴取に臨んだだけで、不審者と間違われたに過ぎません」


 局長に呼び出された忠嗣は、そう弁明して充分の理解を得たが、参与官が内務省に赴く事態に発展しているとの説明を受けた。文官個人の嫌疑とは別に、文部省の体面が傷付いたことに深刻な問題があったようだ。


 更に一週間が経過し、忠嗣が当時務めていた課も取り沙汰された。社会教育局の青少年教育課。最も相応しくない部署である。内務省を通じて平河町事案の経緯を知った参与官は、素行を問題視し、一存で霞ケ関からの追放を決めた。 


 くして、エリイト街道を歩んでいた秩父の元神童は、昨春の新緑芽吹く頃、文部省所管の帝國圖書館に送られたのである。上野の森は情緒に溢れ、近代藝術の里とも言えたが、官吏の本丸たる霞ケ関と比べ格式も低く、島流しに等しかった。職務に身が入らないのも已むを得ない。


「まあ、悪いことばかりでもなし」


 食堂から禁書庫に戻った忠嗣は室内燈を全て消し、足を文机に放り投げると、程なく心地好い眠りに就いた。午睡が長引き、就業時刻が迫ることも屡々しばしばあった。そうした折は、欽治ら出納手の少年が帰り際にそっと忍び入り、起こしてくれる。


 文部省の御歴々に睨まれ、流刑地の図書館でも上級館員に邪険にされる忠嗣であったが、一方で、下足番や火夫など館内で働く請負業者の面々からは親しまれていた。奏任官*でありながらも威張ることなく、気さくな人柄だとの好評を得て、陰ながら支援する者も多かったのだ。


 ほかの司書とは異なり、誰彼構わず話し掛けては軽口も叩く。圧倒的に暇を持て余しているという特殊な事情があるにせよ、人懐っこい性格が幸いし、俸給泥棒の詰所として、この勤務先は絶望のきわでも地獄の渕でもなかった。


 鬼軍曹擬おにぐんそうもどきの怖い上司も居なければ、積み上がる残務に汲々とすることもない。存外に居心地の好い、肌にも神経にも優しい微温湯ぬるまゆと言って差し支えなかった。


<注釈>

*奏任官=現在のキャリア官僚で、戦前は親任官、勅任官に続く高い地位。

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