04四話『官憲の誘導尋問に地団駄を踏む』
ペしりと軽く
「あれ、巌谷様は今頃お食事ですか」
「欣ちゃんこそ、妙な時間にどうしたの」
地下食堂の入り口附近にぼうっと突っ立っていたのは、日頃、
「今時分が休憩なんだっけか。まあ兎も角、冷水なんて粋でもない。クリイムソオダを奢ってあげるから、さあ、入った、入った」
もう一度、背中を押して入室を促す感覚で、少年の臀を叩いた。景気付けでも激励でもなく、そこには下心が潜む。どさくさに紛れて撫でたのである。
触られた欣治のほうは、
「有り難う御座います、巌谷様。でも、
「そうだけっかな。まあ、そんな細けえこたぁ、どうでもよかです」
「巌谷様、それ東京弁ではありませんよ」
出納手の少年は愉快そうに笑った。目下、忠嗣は東京弁の習得に励んでいる最中で、小さな彼は教師として、稽古相手として適任だった。
欣治は浅草千束の生まれで、何代続くか
「それでは巌谷様、頂きます」
「アイスクリイムが大好物なんだっけか。じゃ、御兄さんのもあげちゃおう。ほれ」
気前良く凍れる塊を
出納手の少年に色眼を使っている場合でもなく、
これ以上、
「やっぱ、クリイムソオダは、うんめいなあ」
「
「あたぼうですよ」
妙な気遣いで無理な東京弁を喋っているようにも思えるが、きらきらとした瞳がまた可憐で、仕草も何も悉く許せる。
「うんめいか……」
復唱しつつ、忠嗣は約一年前の出来事に想いを馳せた。それは順風満帆に近い人生を歩んで来た男にとって、運命を分つものだった。岐路に立たされ、進んだ先の隘路には陥穽が待ち構えていた。
秩父に生まれた忠嗣は、幼少の折りより神童と讃えられ、町長推薦で豊多摩郡澁谷町*の國學院大學に学んだ。同校でも勉学に励み、在学中に文官高等試験で及第となり、卒業後、文部省に入省した。
堂々たるエリイトコオスである。私学からの行政官登用は稀有で、高文突破の際には学報に顔寫眞入りで紹介される程だった。嘘か誠か、郷里では「我が町の神童、栄に浴す」との祭囃子も聴こえたという。
しかし、重大な転機は数年と待たず訪れた。昨年の節分の頃である。
と或る休日、文部省官舎が建つ
「貴方が巌谷忠嗣さんで、お間違えないですね」
巡査は当初、物腰も丁寧だった。何ら
「相撲に興味がおありのようですが、今の大関の
道端で
「何事ですか矢庭に。ええと、大関ってあれです、双葉山とかでしょう」
「それは横綱です。こちらが聞いておるのは大関ですよ。違いが分かりませんか」
刑事の眼付きが変わった。不審尋問の雰囲気であるが、忠嗣に心当たりはなかった。事件や犯罪とは終始無縁な堅気の高等官吏で、
「横綱だの何だのそんな難しいこと言われても小職は分かりかねます。第一、相撲など
「成る程、諒解した。では、署に連行しろ」
刑事は冷酷に巡査に命じた。同行ではなく、連行。被疑者扱いであることは真面目な勤め人にも理解できる。荒唐無稽にして極まる横暴、権力の濫用。忠嗣は恐慌を来たしたが有無を言わさず、
容疑もまた頓珍漢なものであった。未成年者の
門外漢と
しかし、全く身に覚えのない嫌疑で、暗い署内の小部屋に押し込まれた頃には、忠嗣も落ち着きを取り戻し、澱みなく喋ることも可能だった。所詮、間抜けな刑事の人違いか勘違いで済む話である。
少々の余裕も出て、やや尊大に取調べ人に噛み付いた時、机に新聞紙の切り抜きが据えられた。擦れた活字の隣には大きめの寫眞。相撲の土俵と見受けられるが、力士は随分と
「これ、君に間違いありませんね」
新たに登場した司法主任と称する初老の官憲は、寫眞の一点を指差した。土俵の奥、これを向正面と呼ぶらしいが、最前列に見慣れた風体の男が座っている。虫眼鏡を拝借する必要もない。相撲観戦する己の姿である。
<注釈>
*出納手=閲覧希望の図書を閉架より取り出して運搬する係員。
*豊多摩郡澁谷町=昭和七年に東京市に編入され、澁谷区と変わる。
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