04四話『官憲の誘導尋問に地団駄を踏む』

 ペしりと軽くしりを叩くと、少年は振り返って愛想笑いを浮かべた。


「あれ、巌谷様は今頃お食事ですか」


「欣ちゃんこそ、妙な時間にどうしたの」


 地下食堂の入り口附近にぼうっと突っ立っていたのは、日頃、巌谷忠嗣いわや・ただつぐが懇意ににしている出納手すいとうしゅ*の欣治きんじだ。喉が渇いた為、一杯の冷水を呑みに来たという。 


「今時分が休憩なんだっけか。まあ兎も角、冷水なんて粋でもない。クリイムソオダを奢ってあげるから、さあ、入った、入った」


 もう一度、背中を押して入室を促す感覚で、少年の臀を叩いた。景気付けでも激励でもなく、そこには下心が潜む。どさくさに紛れて撫でたのである。


 触られた欣治のほうは、間々ままある親睦の仕草と捉えたのか、嫌がる素振りもなく、寧ろ、値の張る清涼水がただで呑めるとあって、嬉々としている。あどけない顔がまた可愛らしく、忠嗣も気分上々。ついでに撫でた掌を鼻筋に近付ける。


「有り難う御座います、巌谷様。でも、一昨日おとついだったか、奢って頂いたばかりですよ」


「そうだけっかな。まあ、そんな細けえこたぁ、どうでも


「巌谷様、それ東京弁ではありませんよ」


 出納手の少年は愉快そうに笑った。目下、忠嗣は東京弁の習得に励んでいる最中で、小さな彼は教師として、稽古相手として適任だった。


 欣治は浅草千束の生まれで、何代続くか爺婆じじばばも知らぬ生粋の江戸っ子の末裔である。ちょっとした日常言葉に少々の癖があり、それが江戸弁の残滓らしい。


 ただし、新旧の噺家が弄する江戸弁と東京弁の間には隔たりがあり、同一ではない模様だ。珍奇な舶来の用語を闇雲に取り込み、日々変わり行くのが東京弁だというから難儀する。

    

「それでは巌谷様、頂きます」


「アイスクリイムが大好物なんだっけか。じゃ、御兄さんのもあげちゃおう。ほれ」

 

 気前良く凍れる塊をすくったところで、忠嗣は周囲に知ったつらが複数あることに気付いた。嘱託の事務員に古株の雇員、奥の席には反りの合わぬ司書までおわす。その幾人かは多くが宜しくない評判に精通する者たちだ。


 出納手の少年に色眼を使っている場合でもなく、抑々そもそも、禁書庫の閑人ひまじんとは言え、食堂で飲食して良い刻限でもなかった。忠嗣は退勤後に欽治を広小路の銭湯に誘うと企んでいたが、自重した。


 これ以上、らぬ噂が立つのは得策でない。館内での待遇改善や出世などとは無関係に、この可愛らしい出納手に迷惑が掛かってはならない。欽治は臀を撫で回しても文句ひとつ言わず、逆に喜んでくれる逸材だ。


「やっぱ、クリイムソオダは、なあ」


うめえじゃなくて、なの」


ですよ」


 妙な気遣いで無理な東京弁を喋っているようにも思えるが、きらきらとした瞳がまた可憐で、仕草も何も悉く許せる。


「うんめいか……」


 復唱しつつ、忠嗣は約一年前の出来事に想いを馳せた。それは順風満帆に近い人生を歩んで来た男にとって、運命を分つものだった。岐路に立たされ、進んだ先の隘路には陥穽が待ち構えていた。

 

 秩父に生まれた忠嗣は、幼少の折りより神童と讃えられ、町長推薦で豊多摩郡澁谷町*の國學院大學に学んだ。同校でも勉学に励み、在学中に文官高等試験で及第となり、卒業後、文部省に入省した。


 堂々たるエリイトコオスである。私学からの行政官登用は稀有で、高文突破の際には学報に顔寫眞入りで紹介される程だった。嘘か誠か、郷里では「我が町の神童、栄に浴す」との祭囃子も聴こえたという。


 しかし、重大な転機は数年と待たず訪れた。昨年の節分の頃である。


 と或る休日、文部省官舎が建つ平河町ひらかわちょうの小径を散策していた忠嗣は、背後から誰何すいかされた。顧みると官憲が二名。独りは制服の巡査、片割れは私服の刑事であった。


「貴方が巌谷忠嗣さんで、お間違えないですね」


 巡査は当初、物腰も丁寧だった。何らやましいこともなく、困り事でもあったのか、と忠嗣は素直に応答した。厄介なのは隣の刑事だったが、質問に罠を潜ませるなど露知らず、警戒を怠るのも無理はなかった。


「相撲に興味がおありのようですが、今の大関の四股名しこなを教えて下さりませんか」


 道端で奏任官そうにんかんに投げ掛ける問いではない。気がれたとは思わないまでも、忠嗣は附近で相撲取が悶着でも起こしたのだろうと安易に考えた。しかし、大相撲には興味も関心もなく、質問には答えられない。


「何事ですか矢庭に。ええと、大関ってあれです、双葉山とかでしょう」


「それは横綱です。こちらが聞いておるのは大関ですよ。違いが分かりませんか」 


 刑事の眼付きが変わった。不審尋問の雰囲気であるが、忠嗣に心当たりはなかった。事件や犯罪とは終始無縁な堅気の高等官吏で、木端役人こっぱやくにんに等しい官憲風情とは格が異なる。不躾な態度に腹の蟲も騒ぎ、珍しく慳貪けんどんに答えを返した。


「横綱だの何だのそんな難しいこと言われても小職は分かりかねます。第一、相撲などうとく、四股名など存ぜぬといった次第です」


「成る程、諒解した。では、署に連行しろ」


 刑事は冷酷に巡査に命じた。同行ではなく、連行。被疑者扱いであることは真面目な勤め人にも理解できる。荒唐無稽にして極まる横暴、権力の濫用。忠嗣は恐慌を来たしたが有無を言わさず、麹町署こうじまちしょまで引き立てられた。


 容疑もまた頓珍漢なものであった。未成年者の掠取りゃくしゅ、或いは誘拐。刑法に記された逮捕監禁罪で、量刑はすこぶる重い。


 門外漢といえども高文試験には法学もあり、基礎的な事柄は忠嗣の頭に入っていた。この容疑に身代金目当てや人身売買の容疑が加味されると、短く見積もっても禁錮十年である。


 しかし、全く身に覚えのない嫌疑で、暗い署内の小部屋に押し込まれた頃には、忠嗣も落ち着きを取り戻し、澱みなく喋ることも可能だった。所詮、間抜けな刑事の人違いか勘違いで済む話である。


 少々の余裕も出て、やや尊大に取調べ人に噛み付いた時、机に新聞紙の切り抜きが据えられた。擦れた活字の隣には大きめの寫眞。相撲の土俵と見受けられるが、力士は随分と小兵こひょうだ。


「これ、君に間違いありませんね」


 新たに登場した司法主任と称する初老の官憲は、寫眞の一点を指差した。土俵の奥、これを向正面と呼ぶらしいが、最前列に見慣れた風体の男が座っている。虫眼鏡を拝借する必要もない。相撲観戦する己の姿である。



<注釈>

*出納手=閲覧希望の図書を閉架より取り出して運搬する係員。

*豊多摩郡澁谷町=昭和七年に東京市に編入され、澁谷区と変わる。

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