03三話『偽眼の女性書記が牝犬に変わる時』
「違いますわ。適当に仕舞わないで下さいまし。それは第二門の哲学で、一番奥の書架。はい、こちらも同じ」
「え……これ、第五門の政治ではないかと。ほら、この著者って政治学でしょ。違うのかな」
「口答えせず、指示に従って下さいまし」
雑役夫さながらに指図され、
高飛車で傲慢な女に見える。直属ではないにせよ、忠嗣にとっては部下に該当し、命令口調など有り得ないが、全く意に介さず、先輩への気遣いも気配りも微塵もない。しかし、その実、彼女が臆病で気弱なところがあることを忠嗣は知っていた。恐らくは、
「この分厚い図版は、第四門の紀行に分類されます。地理ではありません。間違えないように」
「また、細かいな。だってさ、毎回言っているけど、この本も図鑑っぽいのも、二度と世に出ることはないんだし、紀行とか地理とか、ここで緻密に分類する必要あるのかな」
「私は所定の区分法に従っているだけです。因みに紀行は主観的で、地理は客観的。似て非なるものですわ」
絵に描いたような堅物で、身持ちが堅い女と評したら褒め言葉が過ぎる。須磨子の直属の上役は、館内序列が五位相当の糞真面目な司書で、忠嗣の最も苦手な
この古株司書が、須磨子について容姿端麗だの才色兼備だのと陰で話していたのだ。謹厳実直で普段は軽口のひとつも叩かない男が、そう明け透けに寸評するのを耳にして、忠嗣は激しい違和感を覚えたものだ。
彼だけではない。別の司書や製本職工も、表立って須磨子を美人だと指摘する。妙な褒め方である。そこには「美人だが」という否定的な意味合いが言外に含まれているように思えてならなかった。
──美貌の持ち主だが、惜しむらくは隻眼
瞳に障りのあることを前提にして褒めているように受け取れたのだ。彼女が欠けたるところのない眉目秀麗な女性であったのなら、間違いなく、
「これで最後になります。第八門の雑書ですので、
台車に残った一冊の大判は、浮世絵の
頃合いを計らい、忠嗣が振り向いて様子を窺うと、須磨子は顔を顰め、卑猥な絵を
ただ、今回は屈んだ状態で仰ぎ見たことから、前髪の隙間から覗く左の瞳が忠嗣の視界に飛び込んで来た。明るい電燈に反射して
「早く函に収納して下さいまし」
珍しく怒られた。眼と眼が合ったのである。須磨子は偽眼を凝視されたと勘違いしたのか、やや慌てたようでもあった。
忠嗣は大判の影印本を函に詰めながら、申し訳なく思った。過ぎた悪戯、余計な真似。若干の後ろめたさを抱きつつ、大人しく指示に従った。禁書庫の
雑書類の函を閉じて文机に戻っても、須磨子は帰らずに隅の書架を巡っていた。最初の頃は用務を終えるや逃げるように去ったものだが、このところ居残ることが多い。当初は収蔵した禁書の位置を確認しているものと察したが、そうでもなく、漫然と背表紙を眺めているようにしか見えず、不審極まりない。
ひと仕事を完遂し、早速、午睡に入ろうかと考えていた矢先、邪魔で仕様がない。しかし、とっとと去れなどと臆病者が注意できるはずもなく、つらつら様子を眺めるうち、須磨子は机の脇に接近し、下段の書物を調べる必要でもあるのか、前屈し、
閑人の眼と鼻の先、間近だ。彼女は己の恰好を自覚しているはずである。あからさまな媚態を造っているようにも見えるが、彼女は
全く
ペしりと平手打ちするに好都合の距離だったが、閑人にはそんな度胸も趣味もなかった。若かろうが、美人だろうが、女性の臀部に興味などない。軽く撫でたところで、座布団に触れるに等しい。
巌谷忠嗣、御年二十七歳の司書は、この帝國圖書館に於いて、取り分け上級職とされる館員の間では
その横で牝犬は暫し腰を振り、
終始、解せぬ立ち振る舞いであった。扉が閉まった後、独り残された忠嗣は、ふと自分が試されていたように感じたが、大いなる勘違いで、勝手気儘に発情しただけかも知れぬ。
須磨子はあの
男色なぞ趣味の範囲で物珍しくもなく、流布される噂も悪評に
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