02二話『典籍の眠れる禁書庫にて眠れ』
広小路より北に歩を進めると、上野の山という呼び方が良く理解できる。なだらかな丘陵で、左眼に南州像、右眼に國電の大層立派な
徳川家ゆかりの寛永寺は、砲撃戦で焼け野原となった後、明治新政府に境内の大半を譲り渡した。御維新で負け組になった寺社のひとつである。権勢も威光も喪い、本堂や五重塔は
けれども風情が著しく損なわれることはなかった。一帯を支配下に置いた明治政府は、ここを公園として整備し、文化と藝術を尊ぶ森に変えた。秋には紅葉、春には緑風爽やかなる丘である。
てくてくと
「これは司書殿、お早よう御座います……という時刻でもないっすね」
「お、権ちゃん。お早よう、お早よう。そんな細かいこたぁ、気にする性分でもなかろうに」
下足番の
掛札もプレエトもなく、
「早速だが、昼寝でもするか」
何処までも舐め切った勤務態度である。正午も過ぎた頃、大幅に遅刻して出勤したにも
とことん
無用の館員に不要の本。忠嗣の詰める部屋は、古今東西の発禁図書が収蔵される書庫だった。様々な理由で閲覧を禁じられ、一般向けの目録からも抹殺された書籍、刊行物が押し込まれる本の墓場だ。
「不要とされた書物を看取る
口さがない館員の誰かが、そう評した。賤しき
世に著された書物もまた貴賤はない……と忠嗣は声を大にして訴えたい気持ちもあるが、淫本は所詮、淫本に
取り分け、旧幕時代の遊女を描いた春画などは吐き気を催す。書架の隅に何点か挟まれているが、書物としての価値は
「いい加減、絵草紙も飽きてきたな」
何冊もある浮世絵集は、
近頃は、密かに辞書を持ち込み、
それがまた奇天烈で、中には猟奇的な図柄もあって、忠嗣には少なからぬ
挿絵に添えられた見出しや短い説明文の翻訳から始まった暇潰しの作業は、次第に興が乗り、内容に踏み込んでノオトに和訳を
「あれ、昨日読んでいたのは、何処に戻したかな。適当に放ったような……あ、
朝の九時過ぎに起きたとあって、出勤早々の昼寝も難しい。忠嗣は昨日の帰り際に隠した冊子風の洋書を取り出し、机に広げた。拷問か処刑か、悪逆無道、残忍酷薄たる挿絵がふんだんに盛り込まれた英語の書物だ。
表紙の色合いから推量するに、さほど古い書でもないが、印刷の具合は芳しくなく、説明文の一部が消え掛かっている。それでも読めないということはない。禁書庫は無用の本が押し込められる禁足の間であるにせよ、室内燈は貴賓室と同じ最新式で全てを
図書館はその性質上、火災を
ぎぃと軋む音が響き、禁書庫の扉が開かれた。ノックもなしに進入する者は限られる。忠嗣は点検の作業員かと思い、如何わしい洋書を隠さなかったが、来室者は女性の館員だった。
部下に当たる年若の書記、
しかも、禁書を仕舞う棚について色々と細かく指図する。職務は台車で書籍をここに搬入するまでで、その後の作業に関しては一切携わらないのだ。上司の指示に従っているだけとは言え、手伝う素振りも見せず、事務的に、やや横柄に棚の位置を指定する。
忠嗣は好感も嫌悪感も抱かぬが、須磨子は専ら美人との評判だった。卒業年次から計算すると齢二十三か二十四か。いかにも都会育ちらしく、味気ない事務服の下に洒落た柄のブラウスを着込み、髪型も最新の流行に沿った仕様と噂される。
婦人雑誌の表紙で見掛けるような長くも短くもない髪。その容姿で特徴的なのは、前髪が顔の一部を覆い隠していることだ。
振り向いた際に、ちらりと窺える。言葉を発する時などに、前髪の隙間から微かに見える。そっと髪の下に仕舞われた彼女の左の瞳。それは
<注釈>
*文机=禁書庫は畳敷きではない。主人公が洒落て表現しているだけで、実際は多くの官庁に納品される國誉(現コクヨ)の事務机。
<附録>
近況ノオト【寫眞解説】帝國圖書館潜入編〜①〜
https://kakuyomu.jp/users/MadameEdwarda/news/16817330668265355956
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