02二話『典籍の眠れる禁書庫にて眠れ』

 広小路より北に歩を進めると、上野の山という呼び方が良く理解できる。なだらかな丘陵で、左眼に南州像、右眼に國電の大層立派な驛舎えきしゃを捉えつつ、緑なす勾配を登り、更に奥へ奥へと突き進む。広大な敷地を誇る公園で、上野のもりと称されることも、奇をてらった形容ではない。


 徳川家ゆかりの寛永寺は、砲撃戦で焼け野原となった後、明治新政府に境内の大半を譲り渡した。御維新で負け組になった寺社のひとつである。権勢も威光も喪い、本堂や五重塔はのこったものの、一介の古刹こさつに成り下がった。


 けれども風情が著しく損なわれることはなかった。一帯を支配下に置いた明治政府は、ここを公園として整備し、文化と藝術を尊ぶ森に変えた。秋には紅葉、春には緑風爽やかなる丘である。


 てくてくと驛頭えきとうより十分ばかり歩み、木立が一層深くなった箇所に、白煉瓦の美しい建物がおわす。東洋一の文庫を目指し、新政府の威信をかけて造られた帝國圖書館ていこくとしょかん。それが、パナマ帽の紳士、巖谷忠嗣いわや・ただつぐの勤め先である。


「これは司書殿、お早よう御座います……という時刻でもないっすね」


「お、権ちゃん。お早よう、お早よう。そんな細かいこたぁ、気にする性分でもなかろうに」


 下足番の権亮ごんのすけが苦笑するさまを気に留めることもなく、忠嗣は上草履に履き替えて地下の廊下を一番奥へと向かった。食堂を過ぎ、行き止まりに見える汽罐室きかんしつの更に向こう側。一般の来館者はおろか、館員さえも滅多に足を踏み入れない秘密の場所が、この帝國圖書館にはあった。


 掛札もプレエトもなく、あたかも存在しないかの如く館内図からも抹殺された部屋である。人知れず、訪れる者もまれな禁足の間。その重厚な扉を軋ませ、忠嗣は室内燈のスイッチを捻るや、隅の椅子に座って文机ふづくえ*に足を放り投げた。


「早速だが、昼寝でもするか」


 何処までも舐め切った勤務態度である。正午も過ぎた頃、大幅に遅刻して出勤したにもかかわらず、仕事に励むでも、また、忙しそうな素振りを演ずるでもなく、転寝うたたねを試みる。


 とことん巫山戯ふざけた男で、職務以前に世の中を侮っているが、与えられた仕事は無いに等しく、サボタアジュ気取りでもない。実際に、出勤しても取り掛かる用務がないのである。


 無用の館員に不要の本。忠嗣の詰める部屋は、古今東西の発禁図書が収蔵される書庫だった。様々な理由で閲覧を禁じられ、一般向けの目録からも抹殺された書籍、刊行物が押し込まれる本の墓場だ。


「不要とされた書物を看取る隠亡おんぼうか、墓守のような役職」


 口さがない館員の誰かが、そう評した。賤しき生業なりわいの者と貶めるような雑言であったが、忠嗣は気に入っていた。隠亡も汚穢屋おわいやも醜業にあらず、悪行犯罪を除き、恥じ入る渡世などない。賤しいと嗤う者こそ心根が下賤である。


 世に著された書物もまた貴賤はない……と忠嗣は声を大にして訴えたい気持ちもあるが、淫本は所詮、淫本にかずであり、永く読み継がれる高尚な典籍と同列に置けるはずもなかった。


 取り分け、旧幕時代の遊女を描いた春画などは吐き気を催す。書架の隅に何点か挟まれているが、書物としての価値は塵紙ちりがみにも劣る。便所紙は青少年を惑わすこともないが、遊女の春画は劣情を惹起させる。有毒で、災いを招く。


 洟紙はながみにしてやろうかと思うこともあったが、鼻が穢れるようにも感じ、躊躇ためらわれた。それ以前にたとえ春画といえども、蔵書に相異なく、上司の裁可を経ずして破棄するなど許されない。ここは万巻の書物が安らかに眠れる砦、本邦のみならず東洋に於いて空前絶後の巨大な文庫である。


「いい加減、絵草紙も飽きてきたな」


 何冊もある浮世絵集は、醜女しこめの裸婦像ばかりで情趣もなく、獣と交わる春画に好奇の眼を注いだこともあったが、藝術作品の域に達さず、繰り返しの鑑賞には堪えない。


 近頃は、密かに辞書を持ち込み、徒然つれづれに洋書をひもとくことも多くなった。発禁本に指定された洋書の大半は、文章の内容が問題視されたものではない。如何わしい挿絵が主な要因である。


 それがまた奇天烈で、中には猟奇的な図柄もあって、忠嗣には少なからぬ刺戟しげきとなった。


 挿絵に添えられた見出しや短い説明文の翻訳から始まった暇潰しの作業は、次第に興が乗り、内容に踏み込んでノオトに和訳をしたためるまでに本格化した。所詮は辞書と首っ引きで行う素人の翻訳に過ぎず、精度を欠き、飛ばす箇所も目立つが、本邦にはない知見に出会うことも珍しくはない。


「あれ、昨日読んでいたのは、何処に戻したかな。適当に放ったような……あ、抽斗ひきだしの中か。分厚い辞典よりも、薄い本のほうが保管に困るというのも、これ不思議なこと」


 朝の九時過ぎに起きたとあって、出勤早々の昼寝も難しい。忠嗣は昨日の帰り際に隠した冊子風の洋書を取り出し、机に広げた。拷問か処刑か、悪逆無道、残忍酷薄たる挿絵がふんだんに盛り込まれた英語の書物だ。


 表紙の色合いから推量するに、さほど古い書でもないが、印刷の具合は芳しくなく、説明文の一部が消え掛かっている。それでも読めないということはない。禁書庫は無用の本が押し込められる禁足の間であるにせよ、室内燈は貴賓室と同じ最新式で全てをともすと非常に明るかった。

 

 図書館はその性質上、火災をおそれる。ここは帝都の民家で頻発する漏電事故とは無縁で、電気系統の保全に気を配り、点検も月に二度と忠実まめで律儀。忠嗣にとって作業員の来室は煩わしかったが、拒む道理も職権もない。


 と軋む音が響き、禁書庫の扉が開かれた。ノックもなしに進入する者は限られる。忠嗣は点検の作業員かと思い、如何わしい洋書を隠さなかったが、来室者は女性の館員だった。


 部下に当たる年若の書記、九鬼須磨子くき・すまこである。彼女は、禁書に指定された書物を運び込む役割を担う。しかし、年度末を迎える頃から頻度が増し、三日に一度の割合で屡々しばしば出没するようになった。開かずの間の住人にとっては安眠を妨げる邪魔者でしかない。 


 しかも、禁書を仕舞う棚について色々と細かく指図する。職務は台車で書籍をここに搬入するまでで、その後の作業に関しては一切携わらないのだ。上司の指示に従っているだけとは言え、手伝う素振りも見せず、事務的に、やや横柄に棚の位置を指定する。


 忠嗣は好感も嫌悪感も抱かぬが、須磨子は専ら美人との評判だった。卒業年次から計算すると齢二十三か二十四か。いかにも都会育ちらしく、味気ない事務服の下に洒落た柄のブラウスを着込み、髪型も最新の流行に沿った仕様と噂される。


 婦人雑誌の表紙で見掛けるような長くも短くもない髪。その容姿で特徴的なのは、前髪が顔の一部を覆い隠していることだ。


 振り向いた際に、ちらりと窺える。言葉を発する時などに、前髪の隙間から微かに見える。そっと髪の下に仕舞われた彼女の左の瞳。それは偽眼いれめだった。



<注釈>

*文机=禁書庫は畳敷きではない。主人公が洒落て表現しているだけで、実際は多くの官庁に納品される國誉(現コクヨ)の事務机。


<附録>

近況ノオト【寫眞解説】帝國圖書館潜入編〜①〜

https://kakuyomu.jp/users/MadameEdwarda/news/16817330668265355956

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