書肆グラン=ギニョヲルの裏階段
蝶番祭(てふつがひ・まつり)
第一章〜禁書庫を統べる偽眼の美女〜
01一話『華咲く春の白昼鬼語』
風そよぎ、
微風流れ、
舞い上がったひと片は、力強く
肩でも頭のてっぺんでも靴の爪先であろうとも、墜落を免れ、土に穢されることなく留まった桜の
極めて慎重な所作で手巾を広げ、左腕に留まったひと片を移す。丁寧に折り畳みて重宝にする所存である。見た目、三十路に達する手前の紳士。童女のような趣味があるのやら。
樹の下で花見と洒落込む男女四人は、唄も会話も
銀糸を編み込んだかのような手巾。パナマ帽は折り畳もうとして、寸前で止めると、桜花ひと片を口に放り込んだ。花見客は眼を顰め、独りの女は顔を背けた。観てはならぬものを垣間見てしまったといった素振りである。
それを
「桜餅の味がするでもなく」
独り言ではない。花見客の耳に
次いでパナマ帽は、花見客のほうに向き直り、つかつかと歩み寄った。
しかし、
「南無…」
幹に向かって合掌し、読経とも
ここに至って、野郎は二人は示し合わせたかのように顔を伏せた。花見の男は
女共は、明らかな
しかも、この女は腹這いで臥し、角刈の若い奴に按摩を強いているようだった。年増の
その獏連共が黙して凝視する中、合掌するパナマ帽は、咳ひとつ、噯気をふたつ、更に再び取り出した手巾で洟を噛み、
「仰山、人が死んだ。
パナマ帽は即興で、適当に言葉を紡ぐと、桜樹に
この不遜な態度に、破落戸風の男は両眼を細めて鋭く
しかし、合掌し、呪いの文句を投げ捨て、再度、茣蓙を踏み付けて去り行く男は、服装も髪型も整い、
「下衆を揶揄っている場合でもない。そろそろ仕事場に潜り込まないと危うい時刻だ」
花見客から離れ、腕時計に視線を落とす。この男、やくざ者をも
気が
この花見客が集う岡で、三百名近くの戦死者を数えたのは、遡ること七十一年前*の暑い季節だった。上野寛永寺に詰めた旧幕府軍の
江戸から東京府に改まっても、都心部でこれ程の激戦が起きたことは後にも先にもない。舶来の大砲が火を噴き、居残った彰義隊の最期たるや無惨、凄惨にして講談で
奇矯なる振る舞いの男、巖谷忠嗣の職場も、この過渡期の歴史と因縁に満ちた杜の奥深くにあった。西洋風の洒落た白亜の館。三階建なれども、威厳と風格を備え、銀座界隈の新しきビルヂングにも引けを取らない。
「おや、巖谷君じゃないかね」
正面玄関を潜ると、極めて都合が悪いことに館長と鉢合わせになった。上司の上司に該当する勤め先の大親分、
「これは、これは館長殿では御座いませんか。科學博物館前の桜の木は、もうご覧になりましたでしょうか。丁度、満開の頃合いと申せましょう」
口八丁の法螺を吹いた。博物館附近の桜など見てもいない。いいや、と答えた松本館長は、
「ああ、巌谷君、外に昼飯を
「え……あ、左様です。公園の出店に美味い汁蕎麦があると聞いたもので」
これも出任せである。
一難を逃れた巌谷は館長を
「危うい、危うい。手ぶらで出勤して命拾いした」
近頃は重い革製鞄を担ぐのも億劫になり、空身で出勤することが癖になっていたのだ。勤め先では鞄を掛けずに出勤する背広組など居ない。全く
<注釈>
*七十一年前=慶應四年、洋暦一八六八年。詰まり、物語上の現在は昭和十四年に当たる。
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