書肆グラン=ギニョヲルの裏階段

蝶番祭(てふつがひ・まつり)

第一章〜禁書庫を統べる偽眼の美女〜

01一話『華咲く春の白昼鬼語』

 風そよぎ、桜花おうかひとひらひらひらと舞う。春爛漫の杜深もりふかく、草木蒼く地を染めて、土の匂いに混じり合う。地べたに咲くは葡萄風信子ムスカリの、群青の花、愛おしく、歩みもそろりと慎ましく、巡る季節を慈しむ。


 かわずかな、蛙にあらず、蛙かな。賑やかなる声、樹の下で、あでなるわらいと胴間声。男女紊だんじょみだれて雑魚寝して、芽吹きの頃を尊ぶでもなし。とっぴんしゃんの童唄わらべうた、さあさ、さあさの御囃子も、粋に無粋に小煩こうるさく、風情も欠けば、品も欠く。


 微風流れ、また、一葉。薄紅うすくれないの蝶に似て、ふわり、ひらひら舞い堕つる。儚きはねは地に伏して、散り行き消ゆると思いきや、風に抗い大地を蹴って、再び宙に浮き揚がる。その様、可憐に勇ましく、生命宿いのちやどした揚羽あげはのよう。


 舞い上がったひと片は、力強く羽搏はばたき、やがてパナマ帽子の男の眼前を過ぎると、不幸にも哀れにも、風に屈して腕に留まった。パナマ帽は立ち止まり、眼をらすと、懐中ふところより手巾ハンケチを抜き出した。


 肩でも頭のてっぺんでも靴の爪先であろうとも、墜落を免れ、土に穢されることなく留まった桜のはなびらは誉高く、幸運の印と見做され、大切に仕舞う者も多い。渋い色合いの背広に帽子を被った男も、左様な乙女染みた俗説の信奉者と見受けられた。


 極めて慎重な所作で手巾を広げ、左腕に留まったひと片を移す。丁寧に折り畳みて重宝にする所存である。見た目、三十路に達する手前の紳士。童女のような趣味があるのやら。

 

 樹の下で花見と洒落込む男女四人は、唄も会話もはなを啜るのも止め、興味深そうに、パナマ帽の仕草をみつめた。桜花儚く散る様も、高級そうな手巾も男とは不釣り合いで、眼をかれたに相違ない。


 銀糸を編み込んだかのような手巾。パナマ帽は折り畳もうとして、寸前で止めると、桜花ひと片を口に放り込んだ。花見客は眼を顰め、独りの女は顔を背けた。観てはならぬものを垣間見てしまったといった素振りである。


 それをまなじりに捉えつつ、パナマ帽の男は、くちゃくちゃと汚らしい音を立ててむ。小僧や親爺がするめを嚙み締めるかの如く、下品に喰む。


「桜餅の味がするでもなく」


 独り言ではない。花見客の耳にしっかと届く大きな声だった。そしてまた、汚い音を繰り返し、しまいにはと呑み込んだ。高が薄っぺらの葩一枚、噛み砕く必要もなく、明らかに大袈裟な演技、下手な小芝居である。


 次いでパナマ帽は、花見客のほうに向き直り、つかつかと歩み寄った。茣蓙筵ござむしろに寝転ぶ女は、おののいたか、隣にす連れの袖を掴み、男もすわと身構える。乱入者に等しい。細やかな宴に割って入る不届者に違いない。


 しかし、海松茶色みるちゃいろの背広を着たパナマ帽は、脇に逸れ、わざとらしく茣蓙を踏み付け、八分咲きの桜樹の前に進み出た。宴の男女には眼もれず、周囲に誰しも居ないといった足取りだ。


「南無…」


 幹に向かって合掌し、読経とも噯気げっぷともつかぬ声を発する。


 ここに至って、野郎は二人は示し合わせたかのように顔を伏せた。花見の男はいずれも職人風の角刈で、面構えも勇ましく、身形みなりも派手で堅気には見えぬ。やくざ者か破落戸ごろつきか、その両方でもあると言って差し支えない。


 女共は、明らかな獏連あばずれだ。独りは場末の遊女を思わせる古風な銀杏髷に縞模様の内掛を羽織り、剥き出しの襟足から青白い頸を覗かせる。もう片方は長い髪を垂らしたモダンヘアだが、卑猥なカフェヱの女給擬じょきゅうもどき。短いスカアトから生足を見せびらかせ、安っぽい香水が春の匂いを打ち壊す。


 しかも、この女は腹這いで臥し、角刈の若い奴に按摩を強いているようだった。年増の姐御あねごか、何様か、男誑おとこたらしといった風情で、およそ麗しく咲き誇る満開の桜に似合わない。


 その獏連共が黙して凝視する中、合掌するパナマ帽は、咳ひとつ、噯気をふたつ、更に再び取り出した手巾で洟を噛み、おもむろと喋り始めた。


「仰山、人が死んだ。兵共つわものどもが夢の跡。移り変りし世の狭間、大砲浴びて四肢捥ししもががれ、血染めの岡の土となる。ここはうしとら、鬼門の地。巡る因果は尽きまじと、万朶ばんだを揺らす春風の、その一陣に恨みあり。くしてもりと成りせども、嗚呼、無名戦士の卒塔婆に花は散るらん」


 パナマ帽は即興で、適当に言葉を紡ぐと、桜樹に一揖いちゆうし、くるりと踵を返す。優雅な花見のひと時を微塵に砕く、呪詛に満ちた独り言。嫌味を越えた明らかな挑発だ。


 この不遜な態度に、破落戸風の男は両眼を細めて鋭くめ付けたが、次の刹那、改めた。怒り露わに袖を引く遊女風情を制し、首を横に振って、押し黙る。乱入したパナマ帽の男を気狂いと判定にしたに相違ない。触らぬ邪神に祟りなし、と顔に書いてあるかのようだった。


 しかし、合掌し、呪いの文句を投げ捨て、再度、茣蓙を踏み付けて去り行く男は、服装も髪型も整い、はぐれて回遊する瘋癲ふうてんであるはずがなかった。背広は地味な色ながら、仕立ても上々。無精髭の一本も見当たらない。


「下衆を揶揄っている場合でもない。そろそろ仕事場に潜り込まないと危うい時刻だ」


 花見客から離れ、腕時計に視線を落とす。この男、やくざ者をもおそれぬ酔狂な紳士、巖谷忠嗣いわや・ただつぐは、いま正に出勤の途上であった。洟水を吸った手巾を乱雑に懐中に戻し、やや足早に木立を抜けて、勤務先へと急ぐ。


 気がれていると見せ掛けて、気は確か。頭脳怜悧のようでいて、捻子ねじが幾つか抜け落ちる。変質者風情であるが、官職にも等しい大層立派な勤め人。亦、理屈は妙にせよ、桜の木の下で申した事柄も夢想ばかりではなかった。

 

 この花見客が集う岡で、三百名近くの戦死者を数えたのは、遡ること七十一年前*の暑い季節だった。上野寛永寺に詰めた旧幕府軍の彰義隊しょうぎたいは、四方を包囲され、壊滅した。慶応年間の終わりのことである。


 江戸から東京府に改まっても、都心部でこれ程の激戦が起きたことは後にも先にもない。舶来の大砲が火を噴き、居残った彰義隊の最期たるや無惨、凄惨にして講談ではなすこともはばかられる。


 錦絵にしきえに残る往時の戦さ場、徳川家の菩提寺たる寛永寺は中堂も伽藍もことごとく砲撃の嵐に見舞われ、焼け野原と変わり果てた。江戸城の鬼門を封じんと建立された寛永寺。矢張りうしとらの方角は災禍に塗れ、死屍累々の修羅場と化したのだ。


 奇矯なる振る舞いの男、巖谷忠嗣の職場も、この過渡期の歴史と因縁に満ちた杜の奥深くにあった。西洋風の洒落た白亜の館。三階建なれども、威厳と風格を備え、銀座界隈の新しきビルヂングにも引けを取らない。


「おや、巖谷君じゃないかね」


 正面玄関を潜ると、極めて都合が悪いことに館長と鉢合わせになった。上司の上司に該当する勤め先の大親分、松本喜一まつもと・きいちである。仕舞った、と巖谷忠嗣は首をすくめ、意味もなくパナマ帽を脱いだ。


「これは、これは館長殿では御座いませんか。科學博物館前の桜の木は、もうご覧になりましたでしょうか。丁度、満開の頃合いと申せましょう」


 口八丁の法螺を吹いた。博物館附近の桜など見てもいない。いいや、と答えた松本館長は、胡乱うろんな眼差しで巌谷を眺め、次いで、玄関にある柱時計に目を配るや、合点したとばかりに頷いた。時計の針は正午半を指している。


「ああ、巌谷君、外に昼飯をりに行っていたのかね」


「え……あ、左様です。公園の出店に美味い汁蕎麦があると聞いたもので」


 これも出任せである。恩賜おんし公園で蕎麦の屋台など見掛けた試しがない。それでも、松本館長は巌谷の身形みなりあらためて納得した模様だ。昼過ぎに出勤した男は鞄も下げず、ふらりと休憩時刻に散歩へ赴いたようにも見える。勘違いであるが、これにて大胆過ぎる遅刻男は咎めらずに済んだ。


 一難を逃れた巌谷は館長を臀眼しりめに、地下に続く階段を降りながら、ぺろりと舌を出した。


「危うい、危うい。手ぶらで出勤して命拾いした」


 近頃は重い革製鞄を担ぐのも億劫になり、空身で出勤することが癖になっていたのだ。勤め先では鞄を掛けずに出勤する背広組など居ない。全くって、人生、何が幸いするか分からないものである。


<注釈>

*七十一年前=慶應四年、洋暦一八六八年。詰まり、物語上の現在は昭和十四年に当たる。

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