09九話『指紋押捺に顫えて閑人は自白した』
もう一巻の終わりで今度こそ逮捕拘禁される、と忠嗣は諦観した。机の上には骨壷に似た色合いの白磁陶器があり、指にインキを付けて押捺せよと命じられたのである。
屈辱的で、
「右手と左手、全ての指が必要です」
捜査員と
「済みません。小職が犯人であります」
図らずも、勝手に口が動いて自白してしまった。この場から一刻も早く抜け出したかったのだ。
「ここは冗談が通じる場所ではありませんよ」
何処かで聞いた
白衣の男に指導されるまま、忠嗣はそれ以上の軽口を叩くことなく、左手小指から順にインキに浸した。
女性雇員に連行された場所は、持ち場たる禁書庫ではなく、一階玄関脇の事務室だった。現状、地下は完全封鎖の様相で、立ち入り規制が解かれていない。忠嗣がここに入ったのは、昨春以来のことである。異動の挨拶で各所を巡った際に一度立ち寄り、その後、足を踏み入れることなく、日々が過ぎた。
「小職は
「何ぞ勘違いしておられるようですが、当方は
再度、事務室の端から笑い声が響く。白衣の男は警視庁の鑑識官だった。忍び込んだ犯人の指紋を識別する為に、関係者の指紋を確保しておく必要があると説明する。それを最初に言って欲しいものだ。
「左様なら、小職の容疑は晴れ、今晩は留置所で枕を濡らすことはないと」
「当たり前です。貴方は奥の書庫の番人なのでしょう。三階から侵入する
余裕が出た
「小職は番人ではなく、あの重要書庫の室長なんでありますが、その、職場に戻れるのは何時頃になるでしょうか」
息をする如く嘘を吐いた。室長という肩書きなどなく、専任部署も部下もいない平の司書だ。ともあれ、忠嗣が気になったのは、
モップを借りに行って帰れなくなったのだ。春画や浮世絵風の淫本であれば目も当てらない始末だが、小振りの辞典も
「室長さんでしたか、これは失礼。書庫のほうは、やや時間が掛かる見通しです。鋭意捜査中で不確かなことは言えないのですが、盗賊共はそちらに狙いがあったと考えられます」
初耳である。
「本棚の下段からも泥が見付かったんです。賊はそこを足掛かりにして上にある本を奪ったと推察されます。詳しいことは捜査の進展を見ないと何とも言えないのですが、あの書庫が明るくて幸いでした」
堅物の電燈点検員に感謝すべき事柄である。照明周りを桃色に変えていたら万死に値するところだった。
インキ塗れの指先をアルコオル液で清め、一礼する。所用も済み、早々に退室して三階の閲覧室に舞い戻ろうとした矢先、黒の背広男に呼び止められた。
「奥の書庫の室長と聞きました。少々、お話を伺いたい」
慇懃な口調だが、声が矢鱈に大きく、松本館長もこちらを注視する。肩書きの詐称がばれたことは確実。背広男は所轄の警部かと思われたが、内務省の官吏だった。警保局保安課。特別高等警察、
同省同局の図書課は、納本や検閲関連で帝國圖書館と密接な関係にあるが、事務方の雑務に近く、実行部隊たる特高とは
所轄や警視庁の上部機関が乗り込んで来たとなると、矢張り只事ではなく、館内が極度の緊張状態に陥るのも頷ける。
「いや、小職は室長ではなく、本業はこのような者でして……」
防衛本能か、その場凌ぎか、忠嗣は怖気付く余り、隠し持っていた霞ケ関時代の名刺を手渡した。文部省社会教育局。この部局に加え、高文試験突破の官吏と聞けば、たいていの公僕は態度を改める。しかし、特高警察の頭領は名刺を瞥見しただけで、受け取ろうともしなかった。
「手間を取る話ではない。盗まれた書物に関して教えて頂きたい」
最も困難な要求である。残された本は直ぐに分かるが、何が奪われたのか知る由もない。無理筋だ。返答に窮していると、こちらを凝視する松本館長の表情が俄かに曇り、忠嗣の動揺に拍車を掛けた。
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