月は孤独に散歩する。
虹乃ノラン
第1話
「アタシは月です。
はじめまして。
いつもひとりでさんぽしています。
もしよかったら、アタシとおともだちになってください。」
こんなハガキがある日ぼくのもとに届いた……。
☽
ぼくは三年前に会社を辞めて、カレー屋のフランチャイズを目指して、銀行に借金して店を建てた。
コンビニでもラーメン屋でもよかったけれど、アフターフォローがしっかりしているという噂の、地方ではあるが売り上げの高いカレーチェーン店を選んだ。
トレーニングを受け、無事開店までこぎつけたものの、店は二年と持たなかった。人件費と電気代だけで、どんどん赤字はふくらみ、ついには返済も滞って追加融資も受けられなくなった。銀行に見放された個人事業主というのは、本当に孤独なものだ。
ぼくは店をたたんだ。店にそれなりに近い交通の便の良い場所に住んでいたが、駅から歩いて四十分の築四十七年の一軒家に引っ越した。
いくら古いといっても、もう少し手入れさえされていれば、十分住めるくらいには見た目もよいはずなのだろうが、その家はもう何年も放置されていたとみえて、覆いかぶさった草の根が、庭の割れた踏み石を繭のように包んで地中からうっすらと持ち上げていた。
「アタシは月です。
はじめまして。
いつもひとりでさんぽしています。
もしよかったら、アタシとおともだちになってください。」
ぼくのもとにこんなハガキが届いたのは、三日三晩降り続いた雪が、その重さで庭の枯れた楓の木を、ぼっきりと折ってしまった――そんな朝だった。ぼくが目を覚ましたのは、かわいそうな楓が折れた音ではなく、雪の塊がどっさりと落ちた音のせいだった。
ハガキが届いたといっても、外にある郵便受けじゃない。というより、外に郵便受けはない。玄関はあるにはあるが、立て付けが悪くて鍵もかからず、仕方がないので、ぼくははじめドアノブに紐を括りつけて靴箱にひっかけておいたが、そのうちそれさえするのをやめた。別にだれかが忍び込もうが、なんら構わないと思ったからだ。
その寒い朝、ハガキは熱線もついていないコタツの上にキチンとおかれていた。
畳のヘリを踏むなと、昔大祖父に教わったことがあるが、その美しい白いハガキは整えられた座布団のように、まっすぐコタツのテーブルの上に置かれていた。
よくよく見れば、そのハガキはうっすらと黄ばんではいたが、透けるように美しく、やわらかで、そしてそこはかとなく、か弱い感じがした。
誰かのイタズラか。それにしても手の込んだことをするものだ。ひとり暮らしの貧乏人をからかって、なにが楽しいことがあるものか。
ぼくはそれを手に取って、細いインクのにじんだ弓なりの「月」という文字をしばらく眺めていた。
それから冷蔵庫を開けてなにもないのを確認してから、蛇口をひねり、右手を濡らして顔をぬぐった。その美しい白いハガキは、小さな四角い冷蔵庫の上へそっと置いた。
それから七日経った。
ぼくは白いハガキを毎日見ていた。
冷蔵庫へ行くたびに、その上にそっと置かれたハガキの裾を整えて、冷蔵庫の角に添うようにした。
その夕刻、ぼくは腹を空かして近くのスーパーへ足を向けた。特売のワゴンの中に、だし用の粗削り節が半額になっているのを見てそれを買った。家へ戻るとコタツの上に、また白い美しいハガキがまっすぐに置かれていた。
そこにはやはり美しい字で、こう書かれていた。
「アタシは月です。
もうすぐはんぶんになります。
すこしげんきがでてきました。
でもやっぱりさみしい。
だから、アタシとおともだちになってください。」
そのやわらかな弓なりの文字を見ていると、とてもイタズラとは思えなかった。ぼくは冷蔵庫の上に置いた一通目のハガキの左横へ、きちんと整えて二通目のそのハガキを置いた。
十四日経った。
その日は心底寒く、毛布を二枚かけていても、足がしびれるほどに冷えた。ひびの入った窓ガラスから、月明りがほの明るく差し込んでいた。コトリと台所の方で音がした気がした。そのあと、ポチャン……ポチャン……と水の落ちる音がした。起き上がり、音のしたほうへ向かおうとすると、机の上にさした月明りが、白いハガキを映し出した。
三通目のハガキにはこう書かれていた。
「アタシは月です。
さむいですね。
でもきっと、もうすぐとってもあたたかくなります。
アタシがほしょうします。
だから、アタシとおともだちになってください。」
二十一日目が来るのが明日になった。
ぼくは明日こそ、四通目のハガキがくるに違いないと考え、コタツ台を念入りに拭き掃除し、部屋の中も整えた。布団は干し、冷蔵庫には決まってなにもなかったが、茶だけは用意した。布団はたたんだままで、ぼくはその夜、服を着たままコタツの前で横になった。
二十一日目の朝が来た。
いつの間に寝てしまっていたのか、細く吹き込む風でぼくは目を覚ました。後悔を思う間も惜しみ、勢いよく起き上がるとコタツの上に白いハガキがやはりあるのをみて、手につかみ、その内容を確認することもせずに、白いそれを握りしめたまま、ぼくは家を飛び出した。
履物を無造作につっかけて、庭から表へ出る。まだ日は昇っていない。淡い紫色のなんとも美しい朝焼けのなか、月が透明に消え入りそうに、しかしまん丸く輝いていた。
ぼくは月を見上げた。そのときはじめてぼくは、右の掌に力がはいっていることに気づき、はっと緩めてハガキを両手に整える。
「アタシは月です。
おなかすきましたか?
きっともうすぐおなかいっぱいになります。
だから、アタシとおともだちになってください。」
ぼくはわけがわからず、出そうになる涙を堪えた。ほんのしばらくぼくはそこに立っていて、低い地平線から差し込むまぶしい太陽の光が路面を照らし始めると、振りかえって家へと戻った。
二十八日目。
その前の日からぼくは一睡もできなかった。寝そべったり正座したりを繰り返しながら、トイレへ行くのにもそわそわし、短い廊下を駆けて居間に戻ったほどだった。
しかし、夕刻になってもその日はなにも起きず、ひと月前には、やたらくすんで汚れていたコタツの木の板も、今では光沢を取り戻している。その上にはなにも置かれてはいないが、畳の上には丸い盆と、湯呑を用意しておいた。
光ったコタツを目の片隅になんども留めながら、ぼくは特に用事もないのに、狭い台所と居間を行ったり来たりした。
朝からずっと、もし小さな女の子だったらどうしようという思いが頭をもたげていた。ジュースを買ってこようか、どうしようか、しかし留守にしている間にこられては、と何度もためらい、とうとう夕方になって、ぼくは慌てて家を飛び出してスーパーへ走った。
汗をかいたのは、カレー屋のトレーニングを受けていたとき以来だと思い出し、にわかに笑いながら汗を袖でぬぐって部屋に戻ると、コタツの上にはまだなにも置かれてはいなかった。
ぼくは心底ほっとして、買ってきたオレンジジュースとカルピスを冷蔵庫にしまった。レジ横で、黄色い星の絵が描かれたかわいらしい子ども用グラスを見つけたので、それも買った。
外が暗くなり、いつしか月が昇っていた。
ああ、今日はこのまま終わってしまうのか? そんなことを思いながらガラス越しに茂った庭を見ると、そこに《月》が落ちていた。三日月だ。
目をこすって、中腰で駆け寄り庭へ続くガラス戸を開けると、暗闇のなかに黒い猫が倒れていた。月に見えたのは、黒猫の背中にある、細い弓なりの白い三日月だった。
裸足のまま外へ出て、両の手で猫を拾い上げると、その黒い小さな生き物は、ぼくの手のぬくもりに気づいたのか、音もなく弱々しくニャアと鳴いた。
☽
猫は「月」と名付けた。
ぼくのコタツに届いた白い美しいハガキは、四通きただけでそれ以降は届かなかった。
熱線のないコタツに毛布をかぶせ、ぼくは膝の上にたしかなぬくもりを感じている。
毛布に手をつっこみ、だし用の粗削り節を差し出すと、月がぺろぺろとぼくの指をなめた。
月は散歩してこの古い家にやってきた。ぼくの腹が今日も鳴ったが、その音は月のかわいいゴロゴロという鳴き声に共鳴してかき消された。
窓ガラスからは、今日も美しい弓なりの細い光が差し込んでいた。
(了)
月は孤独に散歩する。 虹乃ノラン @nijinonoran
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