第一部「みにくいアヒルの子」②

 授業中でも、思い出せそうで思い出せないメロディーのように、恵の脳内では泉のことがしつこいくらいにぐるぐる回っていた。


 蜜があんなことを言ったからだ、と恵は顔をしかめる。

 その煩わしさを追い払うように、奇跡なんて信じない、と口だけ動かしてみても、気分は晴れなかった。


 そう、恵は奇跡なんて信じない。

 しかし、たまに思う時がある。もし願い事が一つだけ叶うなら、過去に戻って何もかもやり直したい、と。



 六限目の物理の授業だった。

 関西弁をしゃべる北海道生まれ北海道育ちの担任教師、山城先生の軽いジョークを聞き流しながら、私は消しゴムのかすを一つにまとめた。

「……てなわけで、この公式で解けまんねん。皆わかったんやか?ここはテストに出まんねんな」

 黒板に、素晴らしいチョークさばきで書き連ねられる板書を、恵はノートに写す。シャープペンシルの芯を戻すついでに、ペンの先を沈めて頬杖をついた。

 泉がいるじゃんか、と言った蜜の笑顔が脳裏をよぎる。

 泉を演劇部にスカウトする。泉が経験者であることを考えると、一番いい選択だ。部長も、恵が演劇経験者の友人がいると明かしたら、是が非でも我が部に、と飛びついてくるに違いない。三常中学校卒業と聞いたら尚更だ。

 ただ、現実的ではない。

 泉になぜ避けられているのか、恵にはわからないが、現在泉は天文部に入っている。天文部もみどり祭で大規模な企画を用意していると天文部の女子生徒が言っていた。

 無理に頼むのも気が引けるし、会う機会もそうそう――。

「……ある、か」

 思わず声に出してしまい、慌てて周りを見るが、授業に夢中の山城先生を筆頭に、誰も気づいていないようだった。

 会う機会……、会わないかと誘う機会なら、ある。それも今日明日のレベルで。

 明日、私の誕生日ではない。明後日、つまり日曜日だ。

「ほなら、今日覚えたことは忘れへんでおくんなはれ。時間やのでこれで授業は終わりや。おおきに!」

 いつの間にか時間が過ぎていたようだ。山城先生の言葉と放課のチャイムが響くのがほぼ同時だった。


 がら、と年季の入った扉を開け放って先生が出ていくと、教室の中は騒がしくなる。

「知多、いつもに増して覇気がないけど大丈夫か?」

 隣の席で教科書を片づけていた男子——立野が、恵をちらと見て言った。ちなみに、立野はこの学校の生徒会長でもある。

「へ?なんで?」

「なんでって……見りゃわかるだろ」

「そんなに元気がなかったかな。……ありがとね」

 おう、と立野はそこまで興味なさそうに、空いたままの扉から廊下へ出て行った。

 覇気がない、彼の言葉を反復する。今日の朝、久しぶりに泉のこと、そして望のことを思い出したからかもしれない。

「日曜日、どうしようかな」

 先程の思い付きを真剣に考えてみよう、と席に着こうとしたところで、恵は先ほどの言葉に違和感を覚えて立ち止まった。

「……いつもに増して覇気がない?」

 ——自分は普段から覇気がないように見られていたのか、と恵は苦い顔をする。



「どう思う?」

 放課後、部活に行くまでの数分間で、恵は荷物をまとめながら蜜に訊ねた。

「どう思うって……どっちを?」

 蜜はあからさまに困惑した表情でスポーツバッグを担ぎ上げ、逆に訊いてくる。服装は部活用のTシャツだ。

「二つともだよ。一つ、私は普段どのように見られていますか?」

「何だよ、立野にその……いつもに増して覇気がない?って言われたこと、根に持ってんの?」

 蜜は呆れ顔で首を横に振った。その仕草が妙にお姉さんじみていて、恵は訝しく思った。蜜は三人姉妹の末っ子のはずだ。

「まさか……。でも、少し気になったんだよ。最近、泉にも避けられている気がしてね」

「それはめぐみんに原因があるわけではないと思うけどなあ」

 蜜の発した意味深なセリフに、飛びつくようにして恵は訊いた。

「それ、どういう意味?」

「さあね」

 人を食ったような答えに、恵がさらに身を乗り出そうとしたその瞬間、蜜はするりと身をかわすと後ろに下がった。

 易々とマウントポジションを奪われた恵は、立ち尽くしたまま蜜を睨む。

「違うって、教えたくないわけじゃないんだよな。でも、それはめぐみん……恵自身が抱えてる問題だし、恵が自分で気づくべきだと思うんだ。泉に自分がどう見られているか、なら本人に直接聞いてみるのが一番手っ取り早いと思うぞ」

「……何それ」

 恵には納得がいかなかったが、続きを言いたそうな蜜に視線で先を促す。

「もし、いずみんとか関係なしに人にどう見られているか気になるんだったら、参考までにあたしのイメージを教えとくよ。めぐみんの第一印象は、物静かな人だなあ、でも話してみたら意外と良い子だし楽しそう、かな。あと真面目」

「やっぱり物静かじゃない……」

「ちなみにめぐみんの、あたしの第一印象はどんなだった?」

「笑顔が可愛いだとか、スポーツできそうとか」

 蜜は恵の反応とは真逆に、満足げな顔をした。

「そうだよ、あたしテスト近いから英単語憶えなきゃなんだよな……。綴りがどうも頭に入んなくて。めぐみんは自信あんの?」

「まあね。全国模試もあるでしょ」

「さすがめぐみんだなあ」

 蜜はそう感嘆のため息をついてから、ふと私の方に向き直った。

「んで、部活もあるし、二つ目は手短にお願いしたいんだけど」

「そうだった。えーと二つ、日曜日、私は泉を誘った方が良いと思いますか?」

 正直こちらの質問の方が核心をついている。日曜日、八月十五日は、今恵たちが通っている緑野高校では夏休みが終わっているが、三常中学校の夏休みは長かったため、十五日も平日休みだった。

 恵も今となっては、その三常中夏休み期間が長い制度を心から恨ましく思っているが、どれだけそう思っても意味はない。

 蜜は、少々行儀悪く机の上に座って足を組むと、しばし黙考した。

「うーん、そうだなあ。それも、めぐみん自身が考える事じゃないのかな」

「……何それ!」

 まったく意味が解らない。蜜は真面目に考えているのかいないのか。

「本当に考えてくれてる?」

「もちろん。でも……そうなんだよな、めぐみんは一番大切な所に気づけてないんだよ。それが教えられない理由」

「……何それ」

 先程から「何それ」を連呼しているが、致し方ない事だと思う。恵が相談に乗ってもらったのはそこが知りたかったからなのだ。

「つまり、泉を誘えってことなの?」

「そうは言ってないぜ」

「……何、誘うなってこと?」

「そうも言ってない」

「どっちなのよ……」

 机に突っ伏す恵を見て、蜜は苦笑した。

「だから、それを自分で決めるべきなんだって」

「うう、何それ!」

 その時。かた、という音がしたと思って振り向くと、いくつかの足音が廊下に響いた。どんどん足音が近づいてくる。

 文化部棟で部活動を行う部活が、二年生フロア奥にある共通階段を通って隣にある文化部棟に行こうとしているのだ。

 機材がぶつかり合って鳴っている音。天文部だ、と直感で分かった。

「泉もいるんじゃないか?誘いたいなら誘ってくれば?」

「ええ?いや、今じゃなくても……」

 そうこうしている間に足音は去っていく。あーあ、と蜜がため息をついた。

「行っちゃったじゃんか」

「いいよ……」

 横に首を振り、勢いよく立ち上がった。

「ごめん、呼び出して。私も部活あるからもう行かなきゃ。ありがとう、蜜。また明日ね、じゃあ!」

 動揺を悟られないようにくるりと踵を返すと、私は歩き出そうと一歩目を踏み出す。

「呼び出しておいて先に行くのか……」

 蜜の呆れ声を背中で受け止めながら、恵は扉を開けた。

「めぐみん、一つだけヒントあげる」

 呼びかけられた蜜のその声が、先ほどまで話していた二つの質問についてだと気が付くのに、数秒を要した。

「何?」

「いずみんは、めぐみんが嫌いなわけじゃないと思う。ただね、めぐみんが思ってるほどあの子だって強くはない。そんで、めぐみんも自分が思ってるほどは弱い人間じゃないんだよ」

「……何が言いたいの?」

「さあね」

 蜜は本日二度目の返事をすると、スポーツバッグを担ぎ直した。

「そこから先は、自分で考えな。頭いいんだし、すぐ解るって。じゃあな、あたしも部活行ってくるよ」

 がら、と扉を開け放ち、蜜が廊下へ出る。

「誘うなら、誘っときなよ」

 歩くような足音は、すぐに陸上部の猛ダッシュに変わった。時間を奪ってしまったな、と恵の中に今更ながら申し訳ない気持ちが湧いてくる。

「行ってらっしゃい」

 日曜日は、すぐ近くに迫っている。


 ——八月十五日。

 それは、横石望の命日であり、三常中演劇部の、初めての合宿予定日でもある。 

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カーテンコールは特等席から 夜山ひなり @yoyama0623

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