第一部「みにくいアヒルの子」①

ピピピ、ピピピ……


 アラームが鳴る。

「夢、か」

 二年生の冬、文化祭のアンコール公演。夢に出てくるほどの思い出だったのか、と首を傾げ、張り付いた前髪をかき分けながら、さほど爽快でもない朝を迎える。


 そんなありきたりな日。

 ベッドの上で体をひねり、恵はアラームを止めた。


「明後日、か……」

 そのままの体勢で、色褪せた写真をそっと撫でながら、小さく呟く。

 朝が来た。知多恵は、明日、八月十四日で十七歳になる、普通の高校二年生だ。

 しかし、普通の高校生が誰でも誕生日の前日に心が躍るわけではない。その証明として、恵の表情は陰りに陰っている。


 その表情のまま、恵は制服の袖に腕を通した。一年以上着ている、紺のブレザーと茶のスカート。スカートの丈は、膝より長い。全体的な空気が緩いこの高校では、人一倍礼儀正しい恵のように全ての校則をクリアしている生徒は少ない。クラスメイトには、「あんたどんだけ真面目なのさ!」と一蹴されているが、校則厳守はやめられない。


 恵が通っているのは、一年半前に卒業した三常中学校から一番近い、緑野高校だ。自転車通学をしている人も多いが、恵は電車で通っている。

 定期バスも通っているのに利用しないのは、

 面倒くさいからというのとあと一つ――


「いってきます」

 誰もいないリビングに向けて声をかけ、恵は扉を開けた。母親も父親も朝早くから仕事に出かけていて、弁当と朝食は前日の夜のうちに自分で作って出かけている。朝起きた時に両親がいる方が稀だった。

 駅の方角に歩を進める。緑野高校は偏差値も普通、共学で経歴が目立った部活動もない。中学三年生の秋、突然の進路変更。恵は受験勉強に全く身が入らなくなり、第一志望だった高校を諦めた。本当はもっと、別の理由があったのだが、恵は、先生にそう説明した。

 中学校時代からの数少ない友人であるクラスメイトはそれを知って、「ええ、めぐみん頭めっちゃ良いんだからもっと良い高校行けばよかったのに!」と大騒ぎしていたが。

 もっとも、中学校時代からの数少ない友人であるもう一人からは、気遣うような目線を受けただけだった。泉は驚いたように目を見開いてから、すっと顔を背けたのだ。まるで、恵と関わるまいとしているように。

 そして泉は、当たり前のように天文部に入部届を出した。

 それを見ていたクラスメイト ――高崎蜜という――は、困ったようにこう言ったものだ。

「中学じゃあんなに仲良かったのに、友情って脆いもんだね。ま、あんた真面目だし、クラスが違うと話かけにくいってのもあるんじゃないの?それともさ……もしかして、二人とも、あの子の事、まだ……」

 その時、恵は蜜の話を遮ってしまった。蜜の言は間違っていないが、今でも、改めて訊こうとは思わない。


 駅の階段を上りながら、当時のことに思いを巡らせる。


 恵たち三人が中学校に入学するまで、三常中演劇部は弱小部だった。その年に入部した新入生は恵と泉、そして同級生の横石望の三人だけ。入部後に、蜜を誘う機会があったものの、「あたし陸上部入るから!」と速攻で断られてしまった。

 しかし、その年から一気に、演劇部の知名度は上がっていく。その原因は望だった。

 望は、演劇の才能の塊だった。というと世辞のように聞こえるかもしれないが、実際その通りだった。部内では誰もが天才と認め、彼女が声を出すと不思議と舞台の空気が変わる。そんな、「なにか」が望にはあった。

 恵たちが三年生になる頃、望は部内のトップで、前三年生が引退すると、満場一致で望が部長になった。悩んだのが副部長だったが、これも結構な差をつけて泉が推薦された。

 つまり恵は、何の役職でもない平部員、なのに三年生。周りからの視線が痛い事この上ない。居心地の悪くなった演劇部で、特に重要な役ももらえないまま、恵は何となくで過ごしていた。


 しばらくして、電車が来ると、恵も列に続いて乗り込んだ。


 ――「恵ちゃん?」


 ふと、あの頃の望の声が聞こえたような気がして、恵はさっと振り向いた。

「……望?」

 静寂が流れたのち、私の耳に音が戻って来る。それは、望の声ではなく、電車の喧騒だった。

「幻聴か」

 そう、望はいつでも、誰だってちゃん付けで呼んでいた。呼び捨てにすることはなかった気がする。あの頃一番親しかったであろう恵と泉に対しても、そう呼んでいたのだから。

 ――最後の、あの瞬間でさえ。

 急に心臓が激しく音を立て始め、恵は鋭く息を吸い込んだ。慌てて無表情を作り、保つ。家を出るまで冷静でいたのに、どうしたのだろう。

 喧騒の中に足を踏み入れ、奥に突き進むと、心臓の音の高鳴りも収まった。ほっと息をつき、さらに奥に進む。

 緑色の鮮やかなセーラー服が目に入った。学年色のリボンが揺れている。恵のかつての第一志望校、そして誰もが私が行くであろうと予測した松平高校の制服だ。偏差値はここら辺では一番高い。

 ようやく一人分落ち着いて立っていられるスペースを見つけ、恵は網棚にバッグを預ける。

 小さくため息を漏らしたその時、車内のアナウンスが滑らかに流れ、ドアが開いた。こうして、日常は恵を置き去りにして進んでいく。

 そして恵は、ずっと過去という枷から逃れられない。


 自嘲気味に微笑んだ時、最寄り駅の次の駅から、たくさんの人の波が押し寄せてきた。私も奥に追いやられ、息が詰まる。

「わっ」

 恵が思わずよろけると、入ってきたスーツの男性に尖った舌打ちをされた。押し殺した声で謝る。同じ電車を利用している者同士、妙な諍いは起こさないのが身のためだ。

 入ってくる列の最後尾に、揺れる短いポニーテールが垣間見えた。生まれつきの茶髪の下は、恵と同じ緑野高校の制服だ。平均身長の女子生徒。

 彼女は辺りを見渡して車内に入ってくると、恵の方向で首を止めた。人ごみの間を縫って寄ってくる。

「めぐみん!」

 小声でそうあだ名を呼びながら、彼女はにかっと破顔した。蜜だった。

「蜜、おはよう」

「おはよ」

 蜜が誇るのは誰にでも好かれる笑顔と、鍛えられた脚力だ。中学校から陸上部に所属している蜜は短距離選手で、次期部長候補だと一目置かれている。

 因みに、スタイルがいいので男子からも人気がある。

「明日だね、あんたの誕生日。土曜日だから学校ないけど。お祝いしよっか?」

「ありがと、でも大丈夫。それに私には、土曜より明後日……日曜の方が大切だから。十七歳って言ったって、節目の数字じゃないしね」

「そっか」

 一部始終ではないが、蜜は恵たちの――恵と泉、望のことをよく知っている。丁度、また車内アナウンスが流れた。


「それより、あんた今年のみどり祭で主役張るんだって?二年生なのに大変だよな」

 みどり祭というのは、緑野高校の文化祭の名称だ。蜜は、特有の口調で言いながら、恵の肩をばしっと叩いた。

「いでっ!」

「ほらほら、しっかりしなよめぐみん!」

「大丈夫だよ。みどり祭は午後の体育館、屋上の軽音部と被ってるから、ほとんど人こないし」

 これは事実だ。みどり祭だけなら、一年生のときに部長の相方の役をやったときも観客の人数が少ないせいか中学の時よりも緊張度合いが小さく、大丈夫だった。

 ただ、問題は校内行事のみどり祭だけで済むかどうかだ。この街には、高校の文化祭などとは比べ物にならない大きなお祭りもある。演劇部は毎年、そちらの方でも文化祭と同じ演目を披露しているのだった。


 そんな恵の心境を知ってか知らずか、蜜は話を振る。

「で、どんな劇やんの?」

「まだわからないかな。部長が脚本を創るんだって。文芸部も展示の準備で忙しいみたいで、書いてもらえなかったみたい」

「そうだよな、あんたの部、人数少ないし」

「そうだよね……」

 中学校時代の強豪部だった演劇部とは異なり、緑野高校演劇部は人数が少ない。下手したら廃部だ。まるで、三常中の演劇部の最初の頃みたいに。

「あれじゃん、部外からスカウトとかできないわけ?それこそ経験者とか」

「経験者っていっても、そんな都合よくいるわけないよ」

「……泉がいるじゃんか」

「無理だよ」

 唇からこぼれ出た声は、自分でも情けないほど細く、掠れていた。

「そんなの、上手くいくわけない。確かに、明後日――日曜日で二年がたつよ。忘れるには、十分な時間かもしれない。でもね、私にとって、それは短すぎる。忘れられないから、演劇を続けてる。演劇をやめちゃった泉は、もう前を向いて歩きだしたのかもしれないけど、私には無理なの。……ごめんね、蜜」

 親切心で言ってくれたのであろう友人は、得意の笑顔を無理矢理作るように顔を歪めた。

「ううん、こちらこそごめん。そうだよな、二年だもんな。お、そろそろ着くぜ」

「ん……」

 浮かない顔を上げた恵に、蜜は再び笑いかけた。

「光陰矢の如し、だよ。何事も早めが吉。……みどり祭の主役、頑張ってよ。

 応援してるよ、めぐみん」

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