七 − 二.その男、天と共に在り

 名を、呼んだ。誰が――男が。

 天は弾かれたように顔を上げる。

 目玉が飛び出そうなくらいに目を見開くと、男が口元に着物の袖口をあてて笑っていた。

 その肩が微かに揺れている。


「そんなに驚くことなかろうに」


「だ、だって。あんたが、あたしのこと名前で呼ぶから……。え、初めに名乗った時にはしまえって言ってたのにっ!」


「名を受け取るということは、その者と縁を結ぶということだ。天ならば、その意味も知っておろう?」


 天は頷く。だから、名は簡単には明かせないのだ。


「でもさ、なんで今……」


「なぁに、簡単な話ゆえ」


 男が柔く金の瞳を細めると、瞬きの間に彼の姿形がほるりと解けた。

 天がきょろりと辺りを見回す。

 人工的な明かりも届かぬ場所で、唯一の光源は周囲を浮遊する蛍火のみ。

 その一つが天を淡く照らしながら眼前で震えた。

 こっちだと方向を示すように、ふいっと飛んでいく。

 その先に在るのは――池だ。

 はっとする。同時に居場所を訴えるように、ばしゃんっと跳ねる水音が響いた。

 天は慌てて駆け寄り、淵に手を付きしゃがみ込んで池を覗く。


「ごめんっ! あんた、金魚だったね」


「もはや時を共に有すぎ、器である金魚の意識と混ざり合ってしまったからの」


 気が付けば、金魚が本体となってしまっていた。なんと間抜けなことか。

 水面から顔を出した、金の鱗を持つ金魚の目が虚ろなのは気のせいか。

 蛍火が金魚を励ますように、その周りを飛び交い始める。

 広がる蛍火に目を奪われた。

 そしてまた、池の水面に蛍火が映り、天はその光景にもさらに目を奪われる。

 これはきっと、かつての蛍の名所と呼ばれていた頃の風景だ。

 しばしの間、見惚れた。そして。


「――蛍」


 突とした呟き。

 天は瞳を瞬かせ、半瞬遅れてゆっくりと視線を落とした。

 呟きは金魚のものだった。

 彼は天を見上げ、続ける。


「私の名だ。安直だろうが、かつての人々は私を蛍の名で祀った。それが私の本質を現す」


「待って、それって」


「天よ、私の名を呼ぶことを許そう。縁を結ぼうぞ」


 呆けて口を開けていた。

 状況が咄嗟に飲み込めなかった。

 けれども、それをじっくりと解していくごとに、天の頬は喜びでほんのりと色付く。

 その口を一度湿らせてから、天はゆっくりと慎重に、大切にその名を紡いだ。


「――蛍」


 その瞬。金魚――蛍が水面から跳ねた。

 跳ね上がったままに宙空を泳ぐ。

 その様を眺めながら、天は小さく苦笑を浮かべた。


「……なんだ。もうとっくに縛りは解けてたんじゃん」


 天の小さく口にした文句に、蛍が悪戯っぽく笑った気がした。

 蛍火が彼の金の鱗を照らし、きらめかせる。

 尾ひれはなびき、ひれ先はまるで揺らめく焔のようで、ひれ先からは火の粉を散らしていた。

 宙空を泳ぐその金魚は、その姿を池の水面にも映し、天はその光景に思わず息を呑んだ。


「綺麗……」


 吐息のように呟くと、蛍が尾ひれをなびかせながら天へ向かって飛び立った。

 そして彼女の肩に着すと、口から火の粉を吐き出す勢いで意気込む。


「そこらの小物など私の焔で丸焼きゆえ、私を連れて行けば損はせぬぞ」


 蛍が金魚の姿のまま、きりりとすまし顔をする。

 金魚のくせに表情が豊かなやつだ。

 そのことに苦笑を滲ませながら、天は息を細く息を吐き出した。

 その言葉を意味することは、つまり。


「……一緒に行ってくれるの?」


「天の精気は私の力を強くするからの」


 蛍の変わらぬ物言いに、天は堪らず笑った。

 胸内に灯る蛍火のような小さな熱は、何の熱なのだろうか。小さな熱なのに、それはひどくあたたかい。

 天はその熱をどう呼べばいいのかわからなかった。

 名を付けられるほどに、蛍――彼のことをよくは知らないのだから。

 だから、それを知ってから名付けてもいいのかもしれない。

 天はからりと笑った。

 それからしばらく。

 蛍火に囲まる中、己がどれ程有能かという蛍の自分語りが始まり、それは温めた空気が冷え、天が寒さに鼻をすするまで続いた。



 のちの事。焔操る金魚とグーパン退魔女子のコンビは、その名を各地で轟かせて行くことになるのだが、それはまた別の物語である。

 これは、そんなコンビの始まりの物語だ。



 ――了――

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蛍は天へと飛び立つ 白浜ましろ @mashiro_shiro

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