殺人名簿は既に渡っている。

ぽえーひろーん_(_っ・ω・)っヌーン

マグノリア=シィール


前が見えないくらいの大雨。


「あ、あぁ……」


恐怖に満ちた女の嗚咽が、両脇に建物のある狭い通路に跳ね返って響き渡る。


水流が生まれた地面に雨のものとは違う赤黒い波が立つ、それは俺の腹に撃ち込まれた三発の弾丸が作った穴から出てきたものだった。


——痛い。


さっきからどんなに押さえても血が止まってくれやしない、俺は医者じゃないが過去の経験から何となく自分の体の状態は察していた。


「だ……いま、今救急車をよびっ……よび……はっ」


傷口を押さえながら仰向けに倒れた俺の傍で、俺ほどじゃないが大量の血を顔や腕から流した女がパニック状態に陥っている。


過呼吸を起こしてて苦しそうだ、胸を押えて蹲っている、右手に握った携帯を何とか操作しようとしているけど手が震えて上手く行っていない。


そのすぐ近くには紙袋が落ちていて、その中からお菓子だとか歯ブラシだとか充電器だとか、近所のお店の品が飛び出て散乱している。


他には返り血に塗れた高級ブランドのバッグとか、お化粧道具とか落ちて割れた鏡とか、ついさっきここで起きたことをコレでもかと表していた。


「落ち着いて、深呼吸をしてみて、新鮮な空気は吸えないだろうけど」


見かねて、というか。


本当はもう少し慌てる様を見てても良かったんだけど、自分に残された時間が少ないことを理解している俺は優しく声を掛けた。


「は……ふ……」


ここからじゃ雨の音に掻き消されてよく聞こえないが、何やらブツブツとおまじないのようなモノを唱えながら深呼吸を繰り返す女。


それが終わると女は、未だ震えの残っている手つきで救急に電話を掛け、たいへんに錯乱しながらも必死に起こった事の状況の説明をし始めた。


「はい……っ、その、道を歩いていたら私が強盗に襲われて、それでたまたま通り掛かった方が助けに入ってくれて、そうしたらその人が撃た、撃たれて!


血が、血が止まらないみたいなんです!血が、血が……あ、私は大丈夫です、そうじゃなくて早く、早く来てください!お願いします彼を助けて……!」


怒鳴って、焦って、涙を流して、頭を掻きむしりながら右往左往して、やや乱暴に電話を切ると女は俺の所にやって来て手を握ってきた。


「救急車がすぐに来るそうです!すぐにです!だから大丈夫です!絶対大丈夫です必ず助かります私が着いてます絶対に平気です……!」


女は何度も何度も、自分の方こそ顔や腕を深々と切り付けられているのにも関わらず、自分の事は度外視で死にかけた俺を励まそうとしてきた。


そう、俺がどんな人間かも知らないのに。


相手が誰で何をして生きてきたのかも分からないのに、どうして人って奴はこうも簡単に他人を近付けてしまうのだろう?


右のポケットに入ってるナイフは血に濡れている、それは俺のモノでも女のモノでも、ましてや俺を撃った強盗のモノでさえもない。


モンザ婦人っていう、美味しいブルーベリーパイを作って持ってくる年寄りが居たんだ。


毎日公園のベンチに座ってボーッとしていた俺に声を掛けて優しくしてくれていたんだ。


好きだった、だから殺してしまった時は悲しかった。


だから台所に置いてあったレシピ帳を、彼女の別れた旦那さんの所に届けてあげようと思って下調べに来ていただけだったんだ。


「あの人が今どうしているか知らないけど、きっと私のパイが食べられなくて悲しんでいるわ、別れる前に作り方を教えてあげれば良かった」


彼女の家で夕ご飯をご馳走してもらっていた時に、優しい顔をしながらそう言っているのを聞いたんだ。


離婚して、新しい旦那さんと死別した今でも、彼女は旦那さんのことを愛していた。


だから俺はいつもは乗らないバスに乗って、いつもは使わない電車を使って、彼女のレシピ帳を届けてあげようと遠出をしていただけだったんだ。


そうしたら通り掛かった路地で女が襲われていたから、咄嗟に体が動いて助けに入っただけなんだ、熱いものを触った時に反射的に手を離すように。


——あぁ、だんだん脳みそが重くなってきた。


「気を確かに……!目を、目を開けてください!私の声を聞いてください!私の声が聞こえていますか!?意識を失ってはダメです……ッ!」


俺の手を強く握り締める女、気のせいか声がさっきより小さいような感じがする、握られている感覚もイマイチあるんだか無いんだかハッキリしない。


俺は立っているのか、寝ているのか、意識があるのか無いのか、色んなことが曖昧に感じられるようになってきて、思考がグルグルと回転している。


指先の感覚が、いいや違う寒いのか、それとも痺れている?よく分からない、あんまり分からないうちに本当に何も分からなくなってきた。


このままじゃレシピ帳が届けられない、彼女の死を伝える人間が居なくなる、このままじゃあ彼女があの世でひとり寂しい思いをしてしまう。


それは気の毒だ、何とかしたい。


でももう立ち上がることは出来ない、いつまで意識を保っていられるかも怪しい、自分の力ではもはやどうにもすることが出来ないと判断をした。


俺は力を振り絞って。


「……!なにか、なにか伝えたいことでも、なにか私に言いたい事があるんですね?」


俺の手を握る女に、こう伝えた。


「左の……ポケット……に、ある物……を、届けてもらいたい……人が……居……」


女は直ぐに俺の言った場所を探し、血に染まった花柄のメモ帳を取り出した。


「これを届けるんですね!?でもいったい誰に——」


俺の意識は、その時点で途切れていた。


※※※※ ※※※※ ※※※※ ※※※※ ※※※


暗い。


ひますらに暗い。


寒さは感じない、暑くもない、ただフワフワと浮いているような感覚をさっきからずっと味わっている、ひたすら暗い何処かを彷徨い漂っている。


色んなことを考えている、色んなことが思い浮かんでいる、でもきっとどれも重要ではなくて、まるで泡みたいに短命であった。


進んだのか、戻ったのか、とにかくしばらく浮かんでいると何やら『音』が聞こえてきた、コツーンというよく響くカスタネットみたいな音だった。


それは一定の周期で鳴り響き、回数を重ねる毎に徐々に音圧を増していき、それと並行して上から引っ張りあげられるような感覚に襲われる。


いや正確には落ちている、にも関わらず表現としては『上がっている』が正しくて実際にもそうなっている。


相反する二つの現象が矛盾なく同時に起こっている、今まで体感したことの無い気味の悪い感覚だ、控えめに言って拷問に等しい。


——カツーン。


音が聞こえる。


——カツーン。


音が近付いた。


上へ上へ、そして下へ下へ、初めはゆっくりで段々早くなっていく、勢いが倍加していき最後には気が遠くなる程の速度となり……


「次、マグヴァリア=シール」


ハッキリと声であることが認識出来る音が響いた、すると俺は何かに、声のした方向に思いっきり突き飛ばされた。


そこで俺が見たものは——。


視界を埋め尽くす青白い炎、見たこともないおぞましい異形を組み合わせて作ったような机、そしてそこに座る何者か。


いつの間にか地面がある、苦しみに歪んだ人間の顔の模様がびっしりと敷きつめられた床だ、壁は何やら胎動しているし天井には大量のやせ細った人間が吊るされている。


何者かはぼんやりとした陽炎のような姿で、微かに人間のような形が透けている気もするが秒単位で姿形が変動していて分からない。


やがてその影はおぞましい響きの『声』を鳴らしてこう言った。


「年齢二十四歳、死因銃弾、人物名マグノリア=シィール。


ここは生前貴様が行ってきた全ての行動、抱いていた思想や周りに与えた影響などを元に『判決』を下す場である。


私が許可するまで一切発言する事を禁ずる、質問に対し偽りを述べることを禁ずる、判決に対し意見を唱えることを禁ずる。


以上のルールを破った場合は問答無用で『永遠の闇』が執行される事になる。


無動きは出来ず話すことも出来ない、誰も居ない、にも関わらず死ぬことすら出来ない。


気が触れて逃げることも許されない、ひたすら闇の中を孤独に漂い続けることになる、理解したのならば自分の口で答えてみろ」


俺は問いに答えながら。


「分かった」


ある宗教の思想が正しかったのだと知った。


「ではマグノリア=シィール、貴様は自分のことをひと言で表すとすれば何になると思う?」


ここが何処なのかとか、なんでここに居るかとか、色々気になることは沢山あるけれど、今はおそらくそんな事を考えている余裕は無いと判断して、俺は自分の素性を端的にこう纏めた。


「殺人鬼——」


世間は俺をそう呼んでいた……。


※※※※ ※※※※ ※※※※ ※※※※ ※※※


何かキッカケがあってそうなった訳ではない。


死にかけたとか、他者から虐げられたとか、家庭環境が悪かったとかそういった事はまるでなかった、この衝動はある日突然生まれたんだ。


はじめての殺人は両親だった。


当時八歳だった俺は、両親の眠る寝室に忍び込み、キッチンから持ってきたナイフで二人を刺した。


まだ力の弱かった俺は二人を即死させることは出来なかった、随分長いこと苦しませてしまった、けれどおかげで最後の会話をする事も出来た。


父はぐったり力の抜けた母を大事そうに抱き寄せて、恐怖に歪んだ顔で俺に『何故だ』と聞いた。


その時の俺は答えることが出来なかった、気持ちを表現する術を持っていなかった、だから代わりに『お父さんお母さん大好き』と笑って答えたんだ。


二人とも辛そうで苦しそうで悲しそうだったから、自分まで泣いていたら可哀想だと、俺が励ましてあげなくちゃいけないと思ったんだ。


でも父にはそれが怖くて堪らなかったみたいで、怯えて、胸から血を流しながら俺を殺そうとした、でも最後の最後で躊躇いが生まれた。


父は俺を抱きしめて、愛してると言って息絶えた、その後異変に気付いた母方の親戚が家に入ってきて血だらけの寝室を目の当たりにした。


俺は親戚に『僕が殺したんだ』と言った、だが二人はそれを信じず『強盗が入った』のだと解釈した、俺は恐怖で混乱していると思われたのだ。


俺は何度も本当のことを言った、しかし真実を口にする度周りの大人は俺に同情と哀れみを寄せた。


住んでいたのが小さな町だったこともあり、結局俺が罪に問われる事は無かった。


父がまるで抱き締めて死んでいたというのも、ありもしない強盗の影をより鮮明に形作る結果となっていた。


それが俺の最初の殺人だった……。


※※※※ ※※※※ ※※※※ ※※※※ ※※※


「——おぞましいな」


俺の話を聞き終えた影は、いわゆる人間的な感情の読み取れない声でそう言った。


「これまで数え切れない程の罪人を見てきたが、貴様のようなのは久しぶりだな、最初の時にしっかり裁いておけばこんな事にはならなかったモノを。


人間のシステムには欠陥だらけだ、偶に送り込まれてくる冤罪で死刑になった者といいヤツらの法はどうなっているのだ……」


影はよく分からないことをブツブツと呟いている、色々気になることが聞こえたが許可なく発言することは禁じられている。


「生前貴様が殺した人数は三百人近い」


つい二百七十五人だと訂正しそうになった、数は正確でないと死者に失礼だ、死んでないものまで増やして含めたらきっと魂は安らげないだろう。


影はそんな俺の心などお構い無しに話を進め、これまでとは違った押し潰されるような空気を纏ってこう尋ねてきた。


「何故彼らを殺した」


それは俺がかつて答えられなかった質問、だが今なら、今の俺なら迷いなく答えを出すことが出来る。


「そうしなければならないと思ったから」


俺はただただ真っ直ぐにそう答えた。


「……貴様は両親を殺したあと、自分を引き取ってくれた母方の親戚のことも殺害しているな、それもそう思ってやったのか?」


「二人とも自分の娘に会いたがっていた、毎日泣きながら墓参りをしていた、そのままで居るのはきっと不幸なことなんだと思ったんだ。


俺が殺してしまったから、二人も同じように送ってあげるべきだとそう思ったんだ」


きっと二人とも会えたと思う、枕元に四人が写ってる写真を飾ってる、毎日話しかけているし皆一緒だから寂しくなんかないはずだ。


「だが彼らを殺したのはお前だ」


暗黒がこちらを見つめている、アレの放つ言葉には不思議な魔力がある、俺が生涯従ってきたのは己の欲求のみだがこの声は、それによく似ている。


「そうだ、この俺がやったんだ」


「罪悪感は無いのか」


「みんなには申し訳のないことをしたと思っている」


「殺人をやめるつもりは?」


「九十億も居るから」


俺の興味の対象は人間で、人間が居るうちはきっと俺の殺人が止むことはないだろう。


「全員を殺すつもりなのか」


「寿命が足りないよ」


「寿命があればやるとでも」


今まで計画立てて人を殺したことは無い、全てがその場の衝動によるものだ、だからハッキリとしたことは言えないがひとつだけ確かなことがある。


「必要だと感じたら」


そう、全てはその時次第だ。


「……そうか、なるほどな」


影はしばらくの間黙って揺れていた、それはあまりに異質な沈黙で、俺が今まで生きてきた中で最も緊張感に溢れた時間だった。


やがて影が俺の元に伸び、体に纏わりつき、全身を束縛しながら耳元でこのように囁いた。


「判決を下す」


冷たい、息苦しい、重い、いやそんな陳腐な言葉ではとても表現出来ない何かだ、人間の語彙では目の前で起こっている事の説明が出来ない。


「貴様はあってはならない生き物だ、存在してはいけない命だ、貴様を輪廻の輪から外す、魂を消すッ!」


反論は出来ない、異論も唱えられない、最初に説明されたルールを破ることは出来ないと本能で理解している。


納得は出来ていない、もちろんそんな事は御免だ、でも抗えない、まるで俺が殺した人たちと同じように暴力によって意思が捻じ伏せられる。


死とは。


あの時のアレとは全く別種のなにかだ、そんな次元の話では無い、俺は自分がこれからどうなってしまうのかまるで想像もできない!


次の瞬間、俺の意識は掻き消され——。


ゴウッ!


暗闇を切り裂く閃光、俺の体にまとわりついていた影はそれによって振り払われた。


「勝手に何をやっているデッドアリス」


途端に、空間が侵食された。


燃え盛っていた炎が消され、黄金のような神殿がそびえ立つ。


「おのれッ!あと少しだったというものを……ッ!」


影が荒れ狂い暴風が吹きすさぶ、影は『怒り』を全身で表している。


対するは光の柱、生き物らしい輪郭は持ち合わせていない、しかし神聖な感じはしない、暴力的で凶悪で決して相容れない存在であることが分かる。


光の柱は音を発した。


「如何なる理由があろうとも、どんな身分の誰であろうとも。


ルールを破る事は許されない、お前は必要な手順を省略して判決を確定させようとしたな?


それがタブーであることは誰よりもよく理解しているはずだデッドアリス、お前は罪ばかりを問う事で天秤を意図的に偏らせようとした。


我々は公正でなくてはならない、この男は確かにおぞましい殺人鬼だが、生前罪だけを犯して生きていたという訳では無い、勝手な行いは断じて許さん!」


不思議な感覚だった、耳に聞こえてくるのは理解不能な音色なのに頭では意味が分かる、強制的に情報を流し込まれているような気味の悪さだった。


「だがコイツは、コイツは問答無用で消さないとダメだ!、ルールに則っている場合では無い、たとえ私が裁かれることになろうともな!」


影がこちらに伸びてくる、しかしそれが俺の元に到達する事は無かった。


助け出された俺は光の壁で守られている、いや寧ろ封じ込められていると言った方が正しいだろうか、身動きひとつ取る事も出来ない。


「私が来たからにはそうはさせん、恨むのなら己の仕事の遅さを恨め、それとも今この場で私と全面戦争でもやらかすつもりか?」


返答は無かった。


「さて、罪人よ」


光は俺に語り掛けてきた。


「罪の次は、お前の積み重ねてきた善行を見る番だ」


返事をしようと口を開きかけて、俺には話す許可が与えられていない事を思い出す、誰も何も言わないがこれだけ『ルール』が重視されるのなら。


まだ撤回されてはいないはずだ。


「……小癪な」


やはりそうか、今発言していたら永遠の闇とやらを執行されていたに違いない。


「人を殺していない時のお前は良い人間だ、それは間違いない。


捨て犬を助けたことがあったな、目の見えない物を介助したこともある、募金を欠かさずしているし地面に落ちているゴミをいつも拾っているな。


飛び降り自殺を止めたこともある、事故を起こして燃え盛る車に飛び込んで子供を助け出したこともある、お前が死んだ原因も人を助ける為だったな。


日常的に積み重ねられた善行と、犯してきた数々の殺人、傷つけられた者も多いが救われた者もまた同様に多数存在している。


そこに打算はなく、ただそうしたいと思ったからという理由でお前は人を助けている、確かに罪はあるがそこのデッドアリスの判決は正しくは無い。


ルールに則って判決を下すのならお前は……」


ヒュッ——。


言葉が終わる前に影が動いた。


槍のように伸びた暗闇が光の壁を貫き、囚われている私に向かって伸びる、退路のない私にはどうすることも出来——。


「そう来ると思っていたよ」


カッ!


眩い煌めきが炸裂する、そして再び視界が晴れた頃には、影は檻の中へと幽閉されていた。


「邪魔を……ッ!」


影はなんとか拘束を抜け出そうと足掻いているが意味は無い、縛りはビクともしない、完璧に捕らえられていて為す術が無い。


無情に、冷徹に、光は言った。


「お前は感情に影響されすぎる、人間に寄り添い過ぎる、皆それを評価してお前をここの責任者に任命したのだが時としてそれは判断を鈍らせる。


推薦人のひとりとしてお前の暴走を止めるのが私の役割だ。


だがどうやら此度は少し行き過ぎたようだな、説明の義務を放棄しただけならまだ厳罰程度で済んだ、だが今の行為は見逃せん」


空間の侵食が加速する、辺り一面が純白の大理石に包まれる。


「モンテナクァトールの名において、罪人に判決を下す!


……デッドアリス、お前はまだ未熟だ、この機会に私からすこし教育をくれてやろう」


判決とは何なのか、教育とは何なのか、無数に湧き出る疑問が解消されることはなく、俺の意識は前触れもなく掻き消されていった——。


※※※※ ※※※※ ※※※※ ※※※※ ※※※


「は……ッ!?」


俺は息苦しさによって目覚めた。


何を把握するよりもまず空気が欲しかった、空気が欲しくて欲しくて堪らなかった、俺はなりふり構わずに深呼吸し肺の中をいっぱいに満たした。


そして。


「——」


メスを持った白衣の男が、俺の傍で固まっていた。


「……」


「……」


時間が停止する。


お互いの目をよく見て、そこに反射した景色すらも認識してたっぷりと間を置いてから、男は大きく息を吸い込み悲鳴を上げる準備を始めて——


「止まれ」


たったいちどのによって阻止された。


白衣の男はまるで金縛りにかけられたようになり、言葉どころか呼吸ひとつ、衣擦れの音ひとつ立てないようになった。


「……まったく、御大層なことを言っても地上の座標ひとつ正確に指定出来ないではないか、危うく大事になるとこだ」


カツーン、カツーンと、よく響く足音が聞こえる、男の背後に人影が見える、それはやがて男とすれ違い、俺の視界へと飛び込んできた。


「忌々しい男め、貴様のせいで私はこのザマだ、この恨みどう晴らしてくれようか」


そこに居たのは女だった。


「マグノリア=シィール、喜べ貴様は死に損なった、これよりこの時を以て貴様には猶予期間が与えられる事となる。


『ルール』だ、貴様は生き返る代わりに今後一切の殺人行為を禁止される、その兆候が見られた場合は管理人の権限により即座に魂の消滅が執行される。


……おい何をさっきから黙ってこちらを睨みつけている、言いたいがあるのなら言ってみたらどうなんだこのイカれた殺人鬼め」


「お仕置されるかと思って」


それに言いたい事なら多すぎて、正直何から手を付けていいのやら。


ここ最近起きたあらゆる出来事が、俺の理解の範疇を大きく逸脱しすぎていて現実味が無い、今こうしていることだって全然まったく納得していない。


……そうだ、そんなことよりも。


「何が起きてるのかな」


俺の頭がどうかしたのでなければ、そこに居る女はさっきの影みたいなモノと同じ存在のはず、今起こっていることの全容を把握しているに違いない。


「……」


あぁ、面倒くさそうな顔をした、『なんで私がこんなことをしなきゃいけないんだ』という態度が全面に出ている。


見た目は確かに人間だ。


頭があって、両腕があって、両足がある、という点においては生物学的に『人間』に分類されるのだろうがしかし。


どことなく悪魔的というか、人というより人型の動物に近いと言うか、漂っている雰囲気の話ではなく骨格や体の作りがニンゲンっぽくはないのだ。


爪の形とか、服の上から見た関節の感じとか、そうそうあとはヤケに尖った耳とかだ、髪の色も染めているにしては自然すぎるというか色の感じが……。


「なんだ」


「俺の身に何が起こったのかを、詳しく説明してもらうことは可能なのか気にしていたんだ」


女は深い深い溜息をつき、『一度しか言わないぞ』と前置きをしてから語り始めた。


「貴様は死んだんだ。


死んで、お前たち人間が『あの世』と呼んでいる場所に送られた、そこは生前に罪を犯した者が送られる言わば魂の裁判所みたいな所だ。


私はそこの窓口のひとつ、貴様らもあるだろう電車だとか飛行機だとかバスだとか、ああいう乗り口が無数に別れて存在していると考えるといい。


私達には名簿が与えられる、担当する人間がこれまで何を思い何をしてきたか詳細が綴られた名簿を、正直に言ってここまで酷いのは久しぶりだ」


女はうっ血するほど拳を握りこんだ。


「……コイツは消し去らなくてはならないと思った」


キッ、と眼光が向けられる。


「だが!これまでの経験に照らし合わせて考えてみれば貴様は恐らく消滅させられる事は無い、軽い罪ではないだろうがそこ止まりだ!


私はそれが許せなかった、だから手順を捻じ曲げてルールを破ってでも、マグノリア=シィールという男の魂を消し去らねばならないと思ったのだ!


罪を償った者の魂は、再び輪廻の中に送られてまた別の人間として地上で生を受ける、そしてきっとその時また同じような事が起きると判断した!


……だが甘かった。


判決を確定させる前に見つかってしまった、ルールを破った私は罪に問われ、貴様と一緒に地上に送られてしまったんだ」


喜怒哀楽様々な感情を見せながら、女はひと息にそこまでを説明しきり、『どうだ満足か』と言わんばかりにそっぽを向いて拗ねていた。


「それでつまり俺はどうなるんだ」


「分かりやすく言えば執行猶予だ、貴様の場合罪と善行のバランスがあまりにも難解すぎたんだ。


オマケに死の直前のあの行い、自分の命を省みずに人を助けたという事実がそれを加速させた。


我々は人間のような基準で罪人を裁かない、一人の罪人に対して掛ける所要時間に限りはない、いくらでも手間をかけて判断を下せる。


よって貴様には猶予期間が与えられる事になった、課せられた条件を達成出来るか否か、それを見極め然るべき正しい罰を貴様に与えるためにな」


……にわかには信じ難いことだが、実際に体験してきたのだから信じる他無い、これは紛れもない事実であり、この女の言ったことは全て現実だ。


「じゃあ、君は何なんだ?」


「……貴様と一緒に裁かれて地上に送り込まれたんだ管理人として、これから私は貴様のそばに四六時中張り付いて行動を監視しなくてはならない」


なんだって?


「……貴様のせいだ、貴様のような奴が居るおかげで私はしたくもない人間の格好をさせられて、頭のおかしい殺人鬼と行動を共にしなくてはならないのだ」


「それっていつまで……」


「ずっとだ!」


キーンと響く大声を出したあと、女はぷりぷりと怒りながら乱暴に歩き、扉の前に立ち止まって『早く来ないと殺すぞ』という目を向けてきた。


病院には不釣り合いな赤いラインの目立つ黒のスーツ姿は、近代的な死神のようにも見えなくはない、ここは解剖室の様だしあながち間違いでもないか。


俺は台から降りようとして、ある事に気が付いた。


「服が無いんだけど」


「そのままでも良いんじゃないのか」


良くないのは知ってると思うけど、自分だって人間の着るみたいな服着てるし。


つまりコレは八つ当たりって事で、俺はちょっとしたイタズラ心を出してみた。


「仕方ない、ここに居る男を殺して衣服を奪おうか」


一瞬の間があって、女は言った。


「簡単に私を怒らせられると思うなよ」


女の顔には怒るどころか動揺ひとつ見られなかった、初めから本気で取り合ってなどいないという表情であったのだ。


「やるつもりなら私に聞くまでもなく既に殺っているだろう、貴様なら」


確かに言う通りだなと思っていると、顔に布の様な者が当たった。


「さっさと着替えるんだ、目撃者を増やしたくない」


俺は言われた通りに着替えて女の元に駆け寄った、そしてふと気になったことを尋ねてみた。


「あそこで写真みたいになってる男は?」


「……あぁ」


女は立ち止まり、解剖台の前で銅像みたいに固まっている男に視線をやると、それまでの束縛がまるで嘘みたいに膝から崩れ落ちて倒れた。


「死んだ?」


「馬鹿を言うな、気を失っただけだ、目を覚ます頃には目撃した全てのことを忘れている、あの男は少々働きすぎてるようだから過労で倒れたと周りは思う」


「見ただけで」


「それくらいの力が無いと、殺人鬼は止められない」


散々超常現象に見舞われた後だ、今更このくらいの事で驚きはしない。


……そういえば俺達は廊下を歩いている訳だが、不思議なことに誰ともすれ違わない、見た感じここは病院のようだから無人なワケは無いのだけれど。


これもその『力』ってヤツの仕業だろうか、だとすれば恐ろしくて堪らないな。


「それで俺達はこれからどうするんだ」


早足で歩く女の後ろを着いて行きながら尋ねる。


「貴様金は持っているか」


「あー引き出せば、誰かに取られてなければだけど」


「ならば飯を奢れ、美味いヤツだ、せっかく地上に送り込まれたんだ、ここでないと出来ないことをたっぷり満喫してやると決めた」


奢れねぇ。


そうは言われても何が好きなのかさっばり検討が付かない、味覚は人間基準で考えていいのだろうか?それともの方が良いのだろうか?


「その目をやめろ、貴様が考えていることぐらい分かる、この姿は私が決めた者じゃない、正しい現地の知識を再現出来ないポンコツ上層部のせいだ


……どう見ても人間ではないだろう、これじゃまるでハロウィーンのコスプレだ、アレは毎年多くの死者を産む悪しき行事だからさっさと潰れてほしいが」


立場上、仕事上?の悩みか、罪人を裁く役目だとか言っていたな、ハロウィンの日に事故で亡くなる犯罪者を担当しているとかそういう話だろうか。


「余計なことを考えずさっさと行くぞ人間、この身体になった影響か腹が空いた」


殺人を禁止されるなんてイマイチ想像がつかない、だって今まで誰にも止められた事が無かったから。


その事が自分にとってどれ程の影響を与えるのかさっぱり想像もつかないのだ。


「共に過ごすからと言って馴れ合うつもりなど無いからな人間、貴様は罪人で私はそれを裁く執行官だ、いついかなる時もその立場は変わらない」


「分かったよ」


こうして俺の人生は、奇妙なる死の影と共に転がり始めたのだ。


「とりあえず、生き返らせてくれてありがとう」


「自惚れるな」


この恐ろしげな女と共に。

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