いつかだれかの布団宇宙史
茂木英世
いつかだれかの布団宇宙史
1.
津上にとって布団とは寝るための場所ではなく、その前後の時間を過ごすための場所だった。布団と自分の間で熱量が増幅され続け、そのエネルギーをすべて自分の頭の中の活動に費やす。かけ布団で首から下を包んだ簀巻きのような体勢で無限に空想を膨らませる事を津上は至上の喜びとしていた。人によってはその状態でふかす煙草ほど満ち足りる時間はないと言うが、非喫煙者の津上にはそれはどうもよくわからなかった。わからないから否定も肯定もしない。ただ鷹揚に頷く。布団哲学者は大義や信念を振りかざさない。ただ自分にだけ適用される布団哲学を定め、疲れない程度に布団の上でその哲学に沿って生きていく。布団哲学は十人十色であり、互いのリスペクトが不可欠だった。布団哲学に分派はない。論者が納得しているのなら、その数だけ主流があるからだ。
津上が掲げるのは、「たった一人のための布団」という哲学だった。彼の世界は布団の上で完結しており、同時に布団の上からすべてが始まっていた。この一見矛盾したアルファとオメガについては順を追って話されるとして、まず何より重要なのは津上という人間はそのまま布団の上にいる存在だと定義出来るということについてだ。
もう何年使っているかわからない煎餅布団の上こそ、非生産的な思索が最も捗る場所であり、同時にあらゆる生産的行為がストップする場所だ。布団とはつまり、常に境界線の上にあるものなのだ。その絶妙なバランスの上でこそ、津上は最大の幸福を感じる事が出来た。
津上が以上の自己流布団哲学を人に言った事は一度もない。布団哲学とはあくまで布団の上でのみその意味が確かなものとなるのであり、ところ構わず誰彼構わず口にすることは最もリスペクトの欠けた行為とされる。
津上は布団の真ん中で寝転がる。何気なく取られたその手足を広げた姿勢は何も知らないで見れば極めて自然だが、しかし実際は絶妙に他の存在が横たわることを許さない、一人だけで布団を占拠するために完全に計算されたそれだった。
「たった一人のための布団」。その哲学を体現したかのような姿で、津上は布団の上で目を開いている。
2.
この布団の横に川が流れていたら良いのに、と津上は常々思っていた。清流でなくていい。陽の光を反射して水面がキラキラ輝いていなくても良い。むしろ日の出前の最も闇に呑まれている川が良かった。津上は冬と夜が好きだ。その二つの時間は肉体の活動が制限されるが、かわりに精神の活動が促進され、思考はより純粋になっていく。津上はその感覚が好きで、霜秋めいてくれば暖房もつけずに布団にくるまり、ワシャワシャとせわしなく手足を動かして布団内熱量を急速に高める。閉じた布団宇宙の中ではエネルギーと物質が循環して構成と分解を繰り返し、そのサイクルの中でやがて安定する構造が生まれる。
その構造は各人の布団宇宙によって異なり、例えば津上の宇宙では寝床の横に川が流れていた。消灯した部屋の中でせせらぎを響かせるその川にはセイレーンが棲んでいる。
スターバックスのロゴのモデルを用立てるために多くのセイレーンが乱獲された一九七〇年代、彼らは全滅を避けるために一か八か淡水域に逃げ込み、そこではじめて彼らも自分たちが汽水人魚であることに気づいたのだ。
布団の横の川にいるセイレーン、シャマワもその一人で、彼女は今流行りの歌い手活動で生計を立てていた。彼女の声のトーンやピッチの上下は自由自在で、人に歌えてセイレーンに歌えない曲はないとまで豪語している。SNSで知り合ったイラストレーターに描いてもらった人魚のキャラクターをアバターとして動画サイトに自分の歌をあげ続け、アップする度にファンが増える。彼女の歌い手活動はおおむね順調だった。活動を始めるにあたって、マイクやヘッドホンなど最低限の音響機材は津上が用立ててやったため(今ではすべて最新の機材に一新されているが)、彼はシャマワから毎月少しだけ動画サイトの広告収入のおこぼれを頂いている。
津上はその金で電子書籍を買い、布団の上から一歩も動かずにダラダラと読書にふけっている。シャマワと違い、津上はSNSの運用があまり得意ではないため(シャマワ曰く「川の中で自由に動ければ、大概の流れは自分のものに出来る。けれどそれは海中より難しい」そうだ)そのスマートフォンはもっぱら電子書籍閲覧のために用いられている。以前は古本を通販で安く買って読む本を調達していたが、受け取りの度に布団から外に出る事の億劫さと、布団宇宙の閉鎖性の保持のため、今ではもっぱら電子書籍ユーザーだった。
津上は短編小説集を好んで読んだ。それは一冊で沢山の世界を観測することが出来るからだった。彼は一つの作品ごとに一つの世界があると信じている。だからどれだけ分厚い長編小説であっても彼にとっては一つしか世界を内包していないしけたものであり、同じ一冊分の値段で複数の世界を知ることが出来る短編小説集の方が圧倒的にお得だったし、楽しめた。長編小説の方が世界に広がりや深さあるという意見を聞くこともあったが、津上にとって作品世界の広さや深さというものは読み手である自分次第でいくらでも変化するものだった。彼はわずかな描写からその世界の路線図を自由に描けたし、登場人物の頬を撫でた風が舞いあげた木の葉の行く末を見届けることが出来た。
そういうことが出来るからこそ、布団宇宙を観測し、そのなかで生きることが出来るのかもしれない。
津上自身はそんなことを考えず、気ままに電子書籍のページをめくっていた。
3.
津上は先天的な布団哲学者だった。しかし彼の幼児期と今とで違うのは、その布団の上に津上以外の存在がいた事だ。それはいつの間にか彼の手元にあったデフォルメされた蛙のぬいぐるみ、ウブゥだった。それは厳密にはぬいぐるみの名前ではなく、津上がそのぬいぐるみに抱きついた時に必ず第一声がウブゥだった事から彼の両親がつけた名称だ。ウブゥのデフォルメのされ方はどうにも奇怪で、シルエットはほとんど人のそれだった。これでは蛙の代名詞である高いジャンプはどうやっても出来ないだろうと津上は幼心に感じており、そのアンバランスさに愛おしさを抱いていたが、ウブゥは津上の枕元に現れた時と同様、いつの間にか姿を消していた。
津上がウブゥの存在を思い出したのは、シャマワの不意の一言がきっかけだった。
「そういえば」川岸に置いたパソコンでミキシング作業をしていたシャマワが、ヘッドホンを外した。「この前、川の中でぬいぐるみを見たよ」
津上はシャマワの一言でウブゥのことを思い出し、同時に抱いた時のその愛おしさと温もりが急速にぶり返してきた。
布団哲学に一貫性は求められない。生まれてすぐから死んだ後の遺体の安置まで、人は布団と共にいる。その過程で自分にとっての布団というものはいかようにも変わって構わないとされている。元より正しさを突き詰めたり、他者の布団哲学と突き合わせたりするものではないからだ。必要なものはリスペクトであり、それはかつての自分の布団哲学にも適用される。一度は失った論理もその気になればいつだって取り戻せる。布団宇宙の時間軸は必ずしも直線ではないからだ。
津上はここ数年は「たった一人のための布団」という哲学を掲げてきたが、今一度ぬいぐるみのためのスペースくらいなら開けても良いかな、と思っていた。
「その蛙はどこへ?」
「さあ。第四宇宙速度に乗って、また別の子の腕の中へ行くと言っていたけれど」
ウブゥのあの足は明らかにジャンプに適していない姿形をしていると思っていたが、それはリスペクトの欠けた津上の勝手な思い込みだった。
ウブゥは自分なりの飛び方で地球の重力も太陽の引力も、あるいは時間や因果の軛すらも振り切る第四宇宙速度に到達して、またいつの間にかそれを必要とする子供のもとへ降り立つのだろう。あの奇怪なシルエットはそのためにあったのだ。
津上はそう考えて満足し、もうしばらくは「たった一人のための布団」という哲学を降ろさない事にした。彼は今日も布団から頭と右手だけを出し、スマートフォンで電子書籍を読む。
4.
津上はその晩スマートフォンの画面を点灯させたまま眠りに落ち、夢を見た。よく誤解されることだが、布団宇宙と夢は同義ではない。夢は無意識のつぎはぎだが、布団宇宙は津上の意識無意識に関係なく新たな可能性を形にしていく。
津上がその日見た夢は、彼が「たった一人のための布団」という哲学を提唱するに至ったきっかけの夜のことだった。その季節はさだかではない。長袖ではなかったはずだから少なくとも冬ではない。
布団哲学を布団の外で声高に提唱することはリスペクトに欠けた行為だが、津上は寝転がりながら煙をふかすことが至高だという他者の哲学を知っていた。なぜそれを知っているのかといえば、もちろんその提唱者と津上が同じ布団に入っていたからだ。
数年前、津上は丸眼鏡をかけた一人の女性とよく同じ布団に入っていた。その布団は彼女の部屋の真ん中に敷かれており、彼女もまた自らの布団宇宙を持っていた。
彼女の布団宇宙の開拓はあまりに鮮やかで、芸術的と言っていいほどだった。掛け布団から右腕だけを露出させ、灰皿にトトンと灰を落とせばそれだけで口を備えた灰色の墓石が立ち並び、我先にと彼女に向けて自分の物語を披露しようとした。畳の目の数よりも多い墓標たちが物語を語るごとに布団宇宙は膨張する。津上もときおり口を挟んで、宇宙の拡大に寄り道をさせたりしていた。
彼女の布団は万年どころか布団宇宙開闢のときから敷きっぱなしだったので、布団の周囲には得体の知れないきのこが生えており、彼女は小腹が空いたときにはそのきのこをぽきっと手に取って食べていた。さらには煙草を指揮棒のように振り、菌糸を編んで布団の裏から何本もの触手を形成し、蛸のように布団を動かすことも出来た。津上たちはその布団に乗って布団宇宙の
あれは私が今まで吸った煙草の火だよ、と彼女は布団の上から指をさして言った。私はこれまで数万回煙草に火をつけてきたのに、私とその火が触れ合った事はないんだ。
「だから私はあれに触る事が出来ない」
と彼女は少し寂しそうに言った。
「君ならいつか触れるのかな」
あるいは、
「いつかあれが落ちて、恐竜の時代が終わったみたいにこの布団宇宙も焼かれるのかな」
彼女はどちらの想像を語る時も夢見る乙女の眼をしていた。だが津上がそのテトラポットの結末を見る事は出来なかった。
ある夜、布団宇宙を漫遊した後に津上は暖色の豆電球が薄ぼんやりと照らす六畳一間の彼女の部屋で、どうして煙草と布団なのかと疑問を口にした。彼女はアメスピの最後の一吸いを幾分不満足そうに口から離し、灰皿に擦りつけた。
「煙草は指と指、唇の間に挟まれる。人も寝る時にはシーツと掛け布団、あるいは敷き布団と掛け布団の間に挟まれるだろう? そして足先からじんわりと熱を浸透させていく。布団の中の私たちは煙草のようなものなのさ」
津上はどうにも納得のいっていない顔を縦に動かし、自分の信条に従って否定も肯定もせずにその布団哲学を受け入れた。彼女はその様子を見て、クックッと歯の隙間から笑い声を漏らしながら伸びをした。
「君は能動的受動者だね。自分で煙草を吸うつもりはないけれど、人の煙草の煙を吸うのは好きなんだ」
「そう言われると自分が凄く曖昧な存在に感じます」
「自分で言っていたじゃないか。君の布団は常に境界線上にあるんだろう。筋が通っていて結構なことだ」
「でもこれはあなたの布団です」
彼女は眼鏡をはずし、灰皿の横に置いた。うんと腕を伸ばし、蛍光灯の紐を引っ張って唯一の光源だった豆電球も消した。
「おやすみなさい」
そして次の朝、彼女は津上の傍らから消えていた。
彼女が煙のようにいなくなったことで空いた一人分のスペースから、布団宇宙内のエネルギーは穴の開いた風船のように急速に抜け出していき、しぼんだ。彼女の布団宇宙は凍りつき、その日を境に津上は「たった一人のための布団」の哲学を提唱し始めた。
5.
太陽が南中するころに目を覚ますと、津上は粘性の高いスライムのようなものになっていた。ゲル状の体はシーツの皺一つ一つに張りつくように、薄く平べったく広がっている。それは津上が太陽光対策のために編み出した姿だった。
津上にとって太陽、もしくは日光とは暴力性の化身であり、理不尽の極みのようなものだった。それが世間では正気や活気の象徴として扱われている事は津上にとってどうしても理解の及ばない事柄の一つだった。
だから津上は他者を顧みずにその力強さを振るう日光に耐えるため、日の出ている時間に眠りから覚めると衝撃を流動的に逃し得るこの姿をとる。そして緩やかに穏やかに、人の姿を取り戻していく。
こういう自己の変質は、津上も最初から出来たわけではない。それは布団宇宙における自らの座標というものを正しく理解した時にようやく可能な
無論、個々人の布団哲学を発端として展開される布団宇宙の起点はその哲学者本人──この場合津上のこと──だが、だからといってその布団宇宙の王、ましてや神というわけではないのである。
地球の反対側で台風が発生するきっかけとなった蝶がその台風の影響で生じた風に煽られて死なないとも限らないように、布団哲学者はあくまで遠因にすぎないのだ。その布団宇宙は誕生と同時に自律し、ただの
津上はようやく人としての固体の体を取り戻し、パチリと目を開けた。日の出とともに眠り、南中する頃に目覚める。それがここしばらくの津上の生活習慣だった。
目を開いたからといってすぐに布団から体を起こすわけではない。津上は眠い目を擦り、欠伸をし、今度はうつぶせの体勢に移行した。と言っても二度寝をするわけではない。これは地球の引力を利用した圧迫法だった。津上はこの体勢のまま「ウバァァァ」と奇妙な呻き声を枕に向けて発し続ける。そしてちょうど良い具合に声が掠れてきたらやめる。こうしてストレスを発散し、気持ち良く一日を始めるのかと思えばそうではない。そもそも可能な限り津上は布団から出ない。布団宇宙内のエネルギーがわずかでも減少する事を許さないからだ。
津上は起床後、最低でも三十分間寝床の中で思考を跳躍させる。過去の気恥ずかしい失敗、昔読んだはずの本の思い出せないオチ、ティッシュの備蓄がそろそろ無くなりそうな事。様々な事柄が飛び石のようにポツポツと浮かび、その上を思考が軽やかに飛び移っていくのだ。そしててんでばらばらだった飛び石が徐々に繋がり、整った道を形成しはじめ、ようやく津上は布団宇宙の存在としての活動を開始する。
津上の部屋は布団宇宙における交通の要所だった。どんな場所、時間、次元へ行くにしてもかなりの確率で通る事を必要とするポイントであり、津上はほんの少しばかりの通行料を頂戴する代わりに、どんな素性でも関係なく通すようにしている。
例えば、蟹化された騎士団はガシャガシャと揺れる甲殻は鎧、ガチガチと鳴らされる鋏は剣、シャカシャカと忙しない八本脚は騎馬であり、つまり蟹の姿こそが最も効率化された騎士のそれであると気づいた布団宇宙辺境出身の自警団だ。彼らは前方の空間を鋏でちぎって口に運び、糞にして後方にひり出す事で布団宇宙内を凄まじい速度で進軍している。が、蟹はまっすぐに進めない為にいつまで経っても彼らの討伐目的である布団宇宙収納を目論む巨悪とは出会えていない。
例えば、かつて王だった扇風機は、そのプロペラを布団銀河と同期させる
例えば、セーラー型宇宙服を着た少女は青春十八きっぷで布団銀河鉄道を乗り継ぎ、旅をしていた。彼女は使命も責務も関係なく、ただそれが楽しいからという理由で一人風の吹くまま気の向くままに布団宇宙を渡り歩いている。
津上もかつては遊歩者としての性質も持ち合わせていた。彼は自分が気持ち良くなれる風が吹く時間や道を明確に探り当てる才能があり、その独特の嗅覚に従って街を散策することもあった。それは往々にして、薄闇が手を広げている時間帯だった。
夜の冷えた風が鼻孔を吹き抜け、伝熱して脳の温度が少し下がる感覚が津上は好きだった。だがそんな風を受けるには外に出て体を動かす必要があり、それによって体温が上昇してしまうというジレンマが津上を苦しませ、結果として彼は布団哲学者と遊歩者、二つの在り方の内前者だけを選び取った。
津上は通行料を受け取る時に、旅する少女と少しだけ話をした。
「私は旅が好きなんじゃないの。例えばホームで電車を待っている間端から端まで歩いてみたり、時刻表を見て本数の少なさに驚いたり、後ろの座席の二人組の会話の行く末を想像したり、そういう事が好きなの」
「凄くよくは分からないけれど、少しだけ分かる気がするよ」
「ありがとう、正直な人ね。つまりね、私は旅が持つ越境的性質ではなく、むしろその境界線上を歩く側面が好きということなの」
「子供が道路の白線の上を歩くみたいに?」
「そう! とてもそれに近いわ。でも違うのは、旅においてはその境界線自体が動くということ。より巧みにバランスを取らなくちゃいけない。だからこそ楽しいのよ」
そして彼女は次のホームに向かった。津上は自分の布団の裏側を想像した。津上にとって布団とは常に境界線上にあるものだったが、彼女曰くその境界線自体が動くこともあるらしい。なら、その上の布団もどこかへと動くのだろうか。シャマワが泳ぐ川に流されるように。煙草の哲学者が布団から菌糸の触手を生やして自由に練り歩いたように。
自分がかつて煙草の哲学者が言った能動的受動者でなくなることもあるのだろうかと、津上は布団の上で考え続けた。
6.
川の水が溢れ始めていることに気づいた時、津上は遂にその時が来たのだとすぐに理解した。彼がこの部屋で布団宇宙を展開し始めた最初期からその川はあり、溢れるどころか流れが早くなることすらなかったのにも関わらず突然の変化に津上が驚かなかったのは、煙草の布団哲学者からこういう事例について既に聞いていたからだった。
「落とした覚えのない灰が部屋の中にあるんだ」
彼女が煙のように消える前、共に同じ布団の中で布団宇宙散策の疲れを癒していた時、彼女はその現象について述べた。それは確か、どうすれば拡大する自分の布団宇宙の中で自由に移動できるのかという問いへの返答だったはずだ。
「落とした覚えのない灰を見つけたり、自分のじゃない煙草の匂いがしたりする。そしてそれは必ず、自分の布団の中から生じているんだ」
「侵入してきているということ?」
「布団宇宙連続体だよ」彼女はアメスピに口をつけ、煙を吹いた。長い燃焼時間がその銘柄を選ぶ理由だった。「それとの接触になにか明確なきっかけはない。ただ誰かの紫煙を横切るように、それと気づかず一線を跨ぐんだ。そして初めて互いに感知しあう」
「それと接触することで、どうして布団宇宙内を自由に動けるようになるんです」
「布団宇宙の内、という発想が消えるからだよ。布団宇宙には内も外もない。布団にも内と外はない。布団の中にいない時間もすべて布団に入るための時間であり、つまりあらゆる時間に布団がタグ付けされる。その境界線が失われた時、布団宇宙は君のフロンティアとなる」
津上は久しく嗅いでいないアメスピの匂いを鼻腔の奥に感じた気がした。寝床の横を流れている川は静かに氾濫し、彼の生活領域を犯し始めていた。手をつけることのなくなった本棚、中身を取り出してそのままのスーパーのレジ袋、来客用に買って埃を被ったクッション。それらすべてが布団宇宙の水に浸かっていく。
「急に大きな雨雲が出来たのよ。城塞のように巨大で、分厚く、威圧感のすごいやつが。それで大雨が降って、洪水寸前」
浸水していく部屋の中を眺める津上の背にシャマワが声を投げかける。彼女は早々に自分の音響機器を撤退させていた。
「ちょっと前かな、空に急に熱源体が現れてそれが水面の温度を急上昇させているの。変な形よ。なんて言えば良いのかしら、火山がこういっぱい引っついていて」
「テトラポットのような?」
「そう、まさしくそうね。よく今の説明で分かったわね」
津上はそれには答えず、薄く笑みを浮かべた。微笑むという動作はとても久しいもので、客観的に見ればぎこちなかったが本人としてはこれ以上なく心のこもったものだった。
布団宇宙との境界線の消失は行き着くところまで行けば布団宇宙との同化なのではないか、と津上は考える。
その時、津上の鼻腔の奥で生まれたアメスピの香りが煙となって鼻から吐き出された。それは津上を取り巻き、次第に人の形をとった。シルエットは不安定だが、その目に当たる部分には二つの輪が描かれていた。
「同化、というより正しくは偏在しているのだけれどね。真っ白なシーツの上は神の寝床、すなわち宇宙。けれど私達はそれを汚し、汚れこそが人間の
「ではここにいるのは紛れもなくあなたなんですね」
「と言いたいが、これも正しく言えば私の一部分に過ぎない。君の布団は心地良いが狭いね。降ろせた私の情報量はとても限定的だ。偽りなく私だが、過不足なく私とは言えないかな」
人の形を取った煙がゆらゆらと揺れながら言葉を吐く。互いに再会の挨拶はしない。この降霊が極めて限られたものであると二人とも理解しているからこそ、交わされるのは必要最低限の言葉だった。その方が良いとさえ、津上は思っていた。
「どうして今なんです」
「君自身がようやく布団宇宙の存在となったおかげで、こうして私を降ろせた。私は広大な布団宇宙のあらゆる場所に偏在しているが、布団宇宙に生きるものとしか対話出来ない。どうして今なのかだって? 今ようやく君と話せるようになったからさ」
「それは、お待たせしました」
「退屈な時間ではなかった。布団宇宙は閉じているがそれゆえに複雑だ。その構造に触れているだけで時間は煙のように流れ、消えていったよ」
つまり煙で象られた彼女も、もうじき流れ、消えていく。津上は明言されてはいないその事実を感じ取っていた。
「あれから今まで何を」津上は目を閉じ、言葉を組み替えた。「いえ、これからどうするんです」
「変わらないよ。煙に巻いて管を巻いて、面白そうなものがあればネジを巻く。ただそれを繰り返すだけでこれまで楽しかったし、これからもそうする」
自分は面白そうなものでしたか、という言葉を飲み込み、津上は長く息を吐いた。煙は形を崩し、流れていく。
開けていく視界の中で、最後に言葉だけが残った。
「君が布団の上で宇宙を想う時、私は同じ布団の上にいる。その事だけは確かだよ」
声の残響も消え、ようやく津上の意識は布団の上に戻る。部屋の水嵩は増しているが、敷きっぱなしだった布団は津上を乗せて筏のように水面に浮かんでいる。シャマワは愉快なものを見たようにカラカラと笑っていた。
「ボンボヤージュ」
シャマワも水中に潜り、また新たな彼女の場所へと泳いでいく。津上もそろそろ出発しなければならない。
布団後尾にはいつの間にかモーターとスクリューが据えつけられていた。プロペラがゆるやかに回転を始め、布団はついに川に出る。
今はまだこんなチャチな推進方法だが、時を重ねるごとに津上の布団はより速く、より遠くまで辿り着くようになる。空を飛び、音を超え、光を目指す。まずはシャマワから聞いたあの火山のテトラポットを目指そう。だがそれはあくまで通過点に過ぎない。
布団の上から見る光は全て星なのだから。
いつかだれかの布団宇宙史 茂木英世 @hy11032011
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