第2話

 「……」

 真っ白な天井。真っ白な照明。少しだけ明滅している蛍光灯。ほんのりと消毒液の匂いがする、無機質で実用性をどこまでも考えて作られた部屋。

 壁にかけられた時計は、七時を少し回ったところを指している。明るい空を見るに、今は午前七時だろう。鳥が鳴き、朝を知らせてくれる。


 「ふぁ……ぁ……」

 大きく伸びをして起き上がる私こと佐倉灯乃は、実に気持ちの良い寝起きだった。少し寒くなりはじめたものの、部屋の外に出ない事もあり快適に過ごしていた。

 窓の外に見える木々は、すっかり葉を落としきって、冬の訪れを体現しているようだ。少し曇った窓硝子が、外の寒さを物語っている。

 ここは大学病院。大きめの病院で、一回りするのにも一日かかりそうなくらいだ。私はこれまで小さな町医者くらいしか見てこなかったから、病院というよりは小さな町に住んでいるような気分だ。

 病院に滞在する人は、大きく二種類に大別される。ひとつは医師や看護師などの、面倒を見る側。もうひとつは面倒を見られる側、つまり患者だ。前者は必ず真っ白な服を着ており、後者は青い服を着ているから、見分けるのは容易だ。私は後者側の人間であり、例に漏れず薄い青色の病衣を着せられていた。


 私はどうやら事故に巻き込まれたらしい。らしい、というのは、事故のショックで前後の記憶が曖昧だからだ。警察の話によると、私は父の運転する車で家族旅行中、車線をはみ出した車と正面衝突したそうだ。向こうがかなり速度を出していた事、ドライブレコーダーの記録でこちらが法定速度を守っていた事から、完全に相手の過失だと判断された。が、同乗していた父と母、つまり私以外の家族が死亡したと報告を受けた。ひどく無機質な声で説明を受けたが、思ったよりも精神的なダメージは少なかった。というより、ただ実感が湧かなかった。どこか白昼夢を見ているような感覚で、これが現実だと受け止めきれないまま今に至る。

 衝突してきた相手は現在も意識不明だが、一応生きてはいるらしい、という事を聞かされている。賠償金や慰謝料などの説明も聞かされたが、難しくてよく分からなかった。私が未成年というのもあり、代理人や遠い親族を警察があたってくれるそうだ。そちらは任せておけば間違いないだろう。


 こんこん、とドアをノックする音が聞こえる。私は空き部屋がなくて個室を使っているから、小さな音でもより大きく響いた。少しだけびっくりした後に「どうぞ」というと、真っ白な服を着た女性が、ワゴンを押してきた。彼女が押すそれには、朝食と薬が載っており、その他にも注射器やさまざまな機器が所狭しと並べられていた。

 「検診と朝食です」

 彼女はお世辞にも愛想が良いとは言えない人だった。笑顔ひとつも浮かべようとせず、ただ無言で私の朝食を机に置き、色々な機械を取り出し始めた。


 「あの」

 「何でしょう」

 看護師はぶっきらぼうに言う。

 「あっ……えっと、今からは何をするんですか?」

 「腕を出してください」

 どうやらこちらの話を聞く気はなさそうだ。私は諦めて左手を出す。

 彼女は何やら太いバンドを取り出し、私の腕に巻いて風船のように膨らませていく。かと思えばゴムの紐で二の腕の辺りを縛り、関節のあたりに針を刺してきた。

 「痛っ……くない……?」

 痛くない。私は注射が苦手で未だ涙目になるのが常だが、彼女の注射は違った。そもそも刺されたという感覚がない。痛いかどうかではなく、まず触られた事すら知覚できなかった。

 彼女は歴戦の猛者に違いない。そこそこ若く見えるが、それでいてこの腕前。将来は優秀な看護師になるだろう。

 「手練れだ……」

 そう小さく呟くと、彼女に睨まれた。前言撤回。この愛想の悪さは、採血の腕前を以てしても有り余る。


 その後も検査は滑らかに進み、つつがなく終了した。指に小さな機械を挟まれ、移動する時以外は着けておくようにと言われ、看護師は去っていった。置かれた朝食を見ると、どっと疲労感に包まれ、食べる気も起きずベッドに倒れ込んだ。指の機械を見てみると、「spO2 99%」と書かれている。これが何を意味するのかは知らないし、聞いたとしてもおそらくあの看護師は答えてくれないだろう。特に逆らう理由もないから、大人しく着けておこう。

 さて暇になった。私は気づいたらこの病室にいたから、遊べる類いのものは一切ないのである。ゲームは元々する方でもないが、さすがにスマホひとつもないとなると(警察から事故で大破した残骸を見せられた)、時間を持て余して仕方がない。何か良い暇つぶしはないものか。

 正直寝るくらいしかする事がないが、意識を失っていた時間が長かったのだろう、全く眠気を感じていなかった。試しに瞼を何度も閉じてはみたものの、浅い眠りにすら届きそうにはなかった。


 そうだ、では病院を探索してみよう。歩いて回れば、これだけ広い病院なら数日は暇に困らないだろう。

 早速私はベッドから足を出して……、と思ったところで動きを止めた。いや、正確には動けなかった。そうだ、忘れていた。私は事故で足を負傷したらしく、今は歩けないのだった。どこかに移動する時は、必ずベッドか車椅子で運ばれていたのを思い出す。幸い隣には車椅子があるから、これを使おう。

 「よいしょ……と」

 足を手で持って、ベッドの外へ出す。人間の四肢というのは存外重いもので、少し運ぶだけでも体力を使う。特に、今の私は両足が使えないから、踏ん張るという事も出来ず、余計にその重さを体感しているのだった。


 そうして数分を使って、試行錯誤しながらようやく車椅子に乗れた私は、その地点で疲れてしまっていた。もうここで寝てしまおうかとも考えたが、折角車椅子に乗れたのに勿体ない。やはりここは旅に出るべきだろう。

 こうして私の小さな放浪は始まった。

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レム睡眠の遊覧船 ディンガー @dingerbox

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