茜を喰らう

海沈生物

第1話

 深夜零時までの長い残業を終え、仕事から帰宅した時のことだ。二十連勤の激務から来る疲労で身体がへとへとで、もう今すぐにシャワーを浴びて布団に沈み込みたいと思っていた。眠い目を擦って寝室に向かうと、ソファーに私の恋人である茜がベッドの上で寝落ちしていた。


 どうやら、彼女はスイカゲームをしている最中に寝落ちしてしまったらしい。彼女が持つスイッチ・ライトの画面には「567」というリザルトが表示されている。やれやれと思いつつ、風邪を引かないように布団をかけてやる。


 だが、その時のことだ。ふと、彼女のうなじが目に入った。まるで彼女の好物である雪見だいふくのように真っ白なうなじは、私のお気に入りである。お互いの身体を重ね合わせる時ですら、キスの痕を付けることはない。


 けれど、今日の私は酷く疲労していた。上手く頭が回らず、いつものように彼女を尊重してあげられる余裕がなかった。私は私の中から溢れてくる「彼女を穢してあげたい」という欲求に逆らうことができなかった。私は自分の太くて可愛くない両手を彼女の細くて可愛い首と触れ合わせると、キュッと首を絞めてあげた。


 突然誰か分からない相手から首を絞められたことに気付いた茜は動揺した。私の両手を振り払おうとして、必死に身体をよじらせた。しかし、首を絞めようと思っていたのが誰でもない恋人である私であることに気付くと、彼女は抵抗をやめた。それどころか、まるで天使にでも出会ったように朗らかな笑みを浮かべた。私は泣きながら、茜の首を絞める手に力を入れた。彼女の細い首が、冷めた首が、私のふくよかな手によって絞められていく。


「あ……あ……あ……」


 茜の口から漏れる声はエロティックで、私の加虐心をさらに煽ってきた。もっと声を聞かせてほしい、もっと苦しみの声を上げてほしい、私のために死んで欲しい。下腹部のそれに触れているわけでもなければ、キスをしているわけでもない。それなのに、彼女はただ私が首を絞めているという行為だけで絶頂しかけの表情を浮かべていた。


「………………」


 いつしか夢中になって首を絞めていると、ふとした瞬間に茜の声が聞こえなくなった。私は思わず現実に戻って彼女の姿を見ると、朗らかな笑みを浮かべたまま息絶えていた。違う、違う、違う。私は、彼女を殺すつもりなんてなかった。ただ衝動に駆られて、茜を穢したいと思っただけだ。それなのに、なんで、なんで。


 私は現実の全てに耐えられなくなって、胃の中の内容物を全て彼女の胸に向かって吐いてしまった。朝ごはんに食べたカロリーメイトらしき茶色の物体やお昼の休憩中

に食べたコールスローサラダとおにぎりらしき緑と白と黒の物体が混在した、黄土色の吐瀉物。吐き終えた私の口元からは、茜の胸にかけて透明な唾液の糸が垂れている。口元を服の袖で拭うと、茜と繋がっていた糸はプツンと簡単に切れてしまった。


「……っあ」


 ダメだ。それはダメだ、と思った。茜との繋がりが消えてしまう。茜が私の手が届かない遠い場所に行ってしまう。それだけは、それだけはダメだ。混迷と絶望で思考が真っ暗になってしまった私は、もはや正常さを失っていた。


 私は彼女の胸に吐いた吐瀉物に顔を埋めた。鼻が壊れそうなぐらいの異臭にまた吐きそうになったが、そんなことはどうでも良かった。吐きたての吐瀉物の中にいなければ、私は彼女が死んでしまった事実に耐えられなかった。彼女の胸の中にいて、彼女がまだ生きていると思っていなければ、正気を保つことができなかった。


 それから、何時間も同じ体勢でいた。しかし、時間というものは残酷である。吐瀉物も彼女の温度も下がっていくと共に、私は彼女が死んでしまった事実に向き合わざるを得なくなっていた。


 いっそ、私も彼女の後を追って死んでしまえたら良かった。けれど、私にはその一歩を踏み出す勇気がなかった。彼女を殺したのは私だというのに、私自身は死が怖くて死ぬことができない屑だった。


「ごめんね……茜……ごめんね……」


 謝罪の言葉をかけたところで、もはやただの肉塊に成り果てた茜は答えることがない。空に消える言葉たちに、どうしようもない空虚さに、私はもう気が狂ってしまいそうになっていた。


 せめて、せめて、何かをしなければならない。私が彼女の死に報いてあげられることを、何か、何かを。


「――――――ああ、そうだ」


 。私が彼女の死に報いるのなら、それは彼女を食べることだ。食べることで彼女と私は一つとなり、そして完璧になる。それこそ、それだけが彼女の死に報いる唯一の手段なのだ。


 私はキッチンから肉切り包丁を持ってくると、丁寧に、丁寧に彼女の身体を解体する。目をくり抜き、鼻を落とす。耳を切り落とし、爪を剝がす。吐瀉物に塗れた胸を切りさばき、内臓を摘出する。どの部位を取っても彼女は素晴らしくて、見ているだけで目から涙が出てきた。


「ああ……はぁ……ああ……」


 息が荒くなる。私が、私の手で、彼女を穢している。死した彼女の肉体を切り落とし、鮮血を散らし、そうして食べようとまでしている。その傲慢さが、後ろめたさが、人でなしさが、私はとても心地よかった。狂気でおかしくなりそうな私にとっての、最上の「救い」だった。


 一通りの解体を終えると、私は早速彼女の指を取り上げた。細く脆い彼女の指はいつも見慣れた通りの感触をしていて、まるで彼女がまだ生きているような気分になった。この肉体の破片が、今から私の身体の中に入り、溶かされ、混ざり合い、一つの肉体になるのだ。興奮から涎が上顎に流れ落ちた。


「……いただきます、茜」


 私の舌と彼女の指が触れ合う。初めて食べた彼女の味は、とても酸っぱい味がした。これが他人の人肉であるのなら「不味い」と断言しただろうが、茜のその酸っぱさはこれ以上なく美味しく感じた。


 それから歯でガリッと齧ると、中から血が溢れ出す。茜の血は彼女の好物である雪見だいふくの餡のように甘くて、病みつきになってしまいそうなほどに美味しかった。やはり美しいものは、得てして美味しいものなのだろう。


 私はそれから無心に彼女を食べた。剥いだ爪は丁寧に付けられたネイルの化学物質の味がした。切り落とした耳は柔らかくて、餃子の皮のような食感がした。二つの目は歯で潰すと中から体液がぶしゃっと溢れ出してきて、舌は甘美な苦さに酔いしれた。


 ああ、なんて彼女を食べることは楽しいのだろうか。これはもう、キスやセックスのようなありふれた性行為では味わうことができない。そんな行為よりも、もっと密接で、もっと彼女のことを感じられる、最上の行為だった。


 肉片一つ残さずに茜の全てを食べ終えると、私は彼女の血に塗れたベッドの上で仰向けになった。仕事から帰宅した頃は真っ暗だった空には、いつしか茜色の夕陽が沈みかけていた。私は夕陽の眩しさに目を細めながら、大きくなった自分のお腹を優しく撫で、胃の中にいる喰らった茜の存在をひしひしと感じていた。

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