犬
犬は雑種で、かわいいようなかわいくないような、微妙な感じだ。
私は元々、動物があまり好きではない。
夫は、犬に「ベス」と名付けた。
メス犬なので、エリザベスの「ベス」なのだそうだ。
夫は、知り合いから犬小屋などいろいろもらってきて、犬を飼うことに夢中になっている。
やっぱり、私より犬の方が大事なんだ……
置いてきぼりにされたような気持ちになった。
* * *
夫は毎朝、ベスと一緒に散歩に出かける。
とても楽しそうだ。
ますます暗い気持ちになる。
私が毎日、こんなに惨めな思いで過ごしているのに、夫はなんだか楽しそう。
それがおもしろくない。
夫は、こんな私なんかと過ごすより、犬と過ごしている方が幸せなんだ。
私は、犬に負けた気がした。
* * *
時が流れた。
だいぶん体調が良くなってきた。
外にも出られるようになった。
私も、夫と一緒にベスの散歩に出かけてみることにした。
ベスは、おどおどした犬だった。
私にも夫にも、どこか遠慮しているような態度だった。
そんなベスを見ていると、なんだかイライラしてくる。
同族嫌悪なのだろうか。
自分に自信がない私。
ベスも私と同じように、なんだか自信がなさそうだった。
捨て犬の自分を拾ってくれて申し訳ない。
ベスはそんな風に思っているのだろうか。
とにかく、ベスはいつもおどおどしていた。
私が外出できるまでに回復したので、夫は復職した。
夫の代わりに、私がベスを散歩に連れて行くことになった。
なんとなく不本意だ。
夫がもらってきた犬なのに……
けれども、ベスのため、そして、私の健康のためにも散歩に行くことにした。
やはり、ベスはおどおどしている。
遠慮がちに歩いている。
近所を散歩していて気がついたことがあった。
空き地のある方に散歩しようとすると、ベスは伏せをして動かなくなるのだ。
リードを引っ張っても動こうとしない。
ベスは、くぅ~んと悲しそうに鳴く。
疲れたのかな、とも思ったけど、私が別の方向に行こうとすると、すっと立ち上がって散歩を続けるのだ。
それが謎だった。
* * *
私はベスと一緒に過ごす時間が長くなってきたが、その一方で、夫はあまりベスに構わなくなった気がする。
夫がもらってきた犬なのに、なんで私ばかりが世話をしないといけないの?
文句を言いたかったけど、言えなかった。
子供を産めなかった私は、夫に言いたいことをはっきり言えなくなってしまっていた。
夫婦の会話は日に日に減っていく。
話すことは、何もなかった。
夫も、私に話しかけてくることはほとんどなかった。
お互い、ただの同居人になっていた。
今朝も会話のない朝食を終え、夫は出勤していく。
私が犬小屋に近づくと、ベスは尻尾を振って喜んで出てくる。
そして、私の顔をじっと見つめる。
私はいつの間にか、険しい顔になっていたのだろう。
表情を読み取ったベスは、下を向き、悲しい声で鳴いた。
私の鬱々とした気持ちがベスに伝わってしまったみたいで、さらに申し訳ない気持ちになった。
それでも、青空の下をベスと一緒に散歩していると、だんだんと気持ちが晴れてきた。
外に出ることは大切なんだ。
歩くことは大切なんだ。
そう思えた。
しかし、困ったこともあった。
日光湿疹だ。
こればかりは体質なので仕方ない。
日焼け止めを塗ったり、着るものも工夫して出かけた。
夫との会話は、相変わらず、ほとんどなかった。
夫は、たまに犬小屋に行き、ベスに何かを話していた。
夫は私と話すよりもベスと話している方が、気が休まるのだろうか。
そんな日常が、淡々と続いていた。
* * *
今日も私はベスを連れて散歩に出る。
ベスを見ながら思った。
夫はなぜ、ベスをもらってきたのだろうか。
死んでしまった子供の代わりなのだろうか。
子供が死んでしまった時、私はうつ病で入院したけど、きっと、夫も心が病んでいたに違いない。
それで夫は、犬に救いと癒やしを求めたのであろうか。
そんなことを考えながら、私はベスの顔を見つめていた。
私の表情に気がついたベスは、くぅ~んと悲しそうな声を出し、そして下を向いてしまった。
* * *
次の日。
散歩に連れて行こうと犬小屋に行ってみると、ベスの姿はなかった。
いつの間にか、ベスは紐をちぎっていたのだった。
私は探し回った。
けれど、ベスはどこにもいなかった。
私は子供を亡くしたときのことを思い出した。
今度は飼い犬までも失ってしまうのだろうか。
私は探し回った。
けれど、ベスはどこにもいなかった。
罪悪感で押しつぶされそうになる。
ベスは、私のことが嫌いになって出ていったに違いない。
私がいつも暗い顔をしているから、ベスまで悲しい気持ちにさせてしまったんだ。
私のせいだ。
もっと楽しそうに散歩に連れていけばよかった……
後悔しても、もう遅い。
私は探し回った。
けれど、ベスはどこにもいなかった。
私は夫にメールした。
メールするのも久しぶりだった。
「ごめんなさい。ベスがいなくなった」
返信が来た。
「俺も探す」
夫は、仕事を早く切り上げて帰ってきた。
犬小屋の、ちぎれた紐を見て夫は言った。
「すまない」
なぜ夫が謝るのか分からない。
私達は二人でベスを探した。
思えば、夫と二人で外を歩くということすら、久しぶりであった。
いつものベスの散歩のコースを、夫と二人で歩いて探してみる。
けれど、ベスはどこにもいなかった。
夫は、ベスの散歩コースではない方の道を探そうとする。
私は言った。
「ベスは、こっちの道へは行きたがらないけど、それでも探してみる?」
「こっちの道は、俺の散歩コースだった道なんだ」
そう言えば、夫は毎朝、散歩していたっけ。
最近は出勤時間が早くなって、夫は散歩をしなくなっていた。
夫が以前にどの道を散歩していたのかなんて、私は全く知らなかった。
夫は言った。
「この先に空き地がある。ベスはその空き地に住んでいた野良犬だった。毎朝、ベスはそこで俺を待っていたんだ」
そうだったの?
そんな話、初めて聞いた。
* * *
その空き地までやってきた。
私達は二人でベスを探した。
けれど、ベスはここにもいなかった。
「ベスは、いつもこの空き地にいた。誰かの捨て犬だったのかもしれない。人懐っこくて、近所の人たちからもかわいがられていたんだ」
「ベスに会うために、毎朝散歩していたの?」
「ベスに会うのは、散歩の楽しみの一つだったよ。ベスは子犬を産んでいた。子犬も、とってもかわいかった。見せたかったけど、散歩、嫌いだったよな」
「で、その子犬はどこにいるの?」
「……車にはねられて、みんな死んでしまった」
ベスは、死んだ子犬にずっと寄り添っていたらしい。
保健所の職員が来て子犬の遺体を片付けているときも、ベスはそばでじっとしていたとのこと。
片付けが終わっても、ベスはその場でじっとしていたらしい。
すっかり意気消沈して、動けなくなっていたのであろう。
そして、ベスは野良犬として捕獲されそうになっていたとのこと。
その顛末を見ていた夫は、ベスを引き取ることにしたらしい。
「急にベスを連れて帰ってすまなかった」
「そんな事情があったのなら、あのとき話してくれたら……」
そこまで言いかけて、私は気がついた。
夫がベスを連れてきた頃、私は心を病んでいた。
それで、夫は刺激的な話を避けたのだろう。
なんだか元気のない犬だとは思っていたけど、ベスも子犬を失っていたんだ……
「ベスは散歩の時、こっちの方へは行きたがらないの」
「そうか……そう言われてみれば、俺が散歩に連れて行ったときも、こっちの道へは行きたがらなかったな……」
ベスの行動の謎が解けた。
* * *
空き地を離れ、いつものベスの散歩コースをもう一度探してみた。
しかし、ベスを見つけることはできなかった。
「最近は、おまえにばっかり散歩に行かせて悪かったな」
「そうよ。日光湿疹が出て大変だったんだから!」
「そうだったのか……」
夫とこんなたわいもない会話をしたのも、なんだか久しぶりに感じた。
心のもやもやが少しずつ晴れていくような気がした。
「あんなところに新しいお店ができていたんだね」
「ここに、こんなお店があったなんて気が付かなかった」
そもそも、夫と二人で近所を歩くなんて、いったい何年ぶりだろう。
自分の住んでいる街も、ベスを探しながら歩き回ったことで、意外な発見がたくさんあった。
しかし、肝心のベスを見つけることはできなかった。
私は言った。
「どうして、ベスは出ていったんだろう?」
すると、夫は顔を曇らせてこう言った。
「俺が……ベスに変なことを言ったからかもしれない」
「何を言ったの?」
「……ベス。妻と以前のように話をしたいんだけど、どうしたらいいと思う? って」
「…………」
「情けないよな。こんなことを犬に相談するなんて」
夫も、私との会話がなくなったことを気にしていたんだ……
夫は言った。
「ベスは、自分のせいだと思って出ていったのかもしれない」
「そんなわけ、ないでしょ」
むしろ、ベスの家出は私の方に原因があるのでは?
私はいつも鬱々とした気持ちのまま、ベスを散歩に連れて行っていた。
ベスは私の気持ちを感じ取り、表情が暗いのは自分のせいかもしれないと思い、出ていったのかも。
「散歩で私が暗い顔をしていると、ベスはそれに気づいて、くぅ~んって鳴くの……」
ベスは見つからなかったけど、夫と久しぶりに話せて、なんだか夫婦の会話を取り戻せた気がした。
そのことは嬉しく思えたけど、やっぱりベスのことが気になった。
ベス、今どこで、何をしているの?
夫もベスも、大切な存在。
ベスがいなくなって、今さらながらそのことに気付かされた。
* * *
ベスを発見した。
ベスは、ちゃんと家に帰ってきていた。
犬小屋の前でお座りをして、私達が帰ってくるのを待っていた。
私達の姿を見つけると、ベスは尻尾を振りながら駆けてきて顔を擦り寄せてきた。
「ベス! 探したよ! ごめんね……」
私と夫は、満面の笑みでベスを抱きしめた。
* * *
今日は休日。
私は夫と一緒に、ベスの散歩に出かける。
散歩をしながら、私は夫との会話に花を咲かせる。
ベスは私達の会話を聞きながら、楽しそうに尻尾を振って、一緒に歩いてくれる。
私は笑顔を取り戻せた。
私は夫とベスと共に、これからも前を向いて歩いていく。
< 了 >
ベスがいなくなった 神楽堂 @haiho_
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