ベスがいなくなった

神楽堂

私にも子供が授かった。


これまで様々な不妊治療を試して、どれも結果を出せなかった私も、ついに、というか、やっと「母」になることができた。

子供のいない人生もありかな、と自分に言い聞かせて生きてきた半生だったけれど、やはり、女性として生まれてきたからには……と思っていたのも事実だった。


そんな私の体に「命」が宿った。

なんという感動!!

女性として生まれてきてよかった。

改めて、そう思えた。


夫もとても喜んでくれた。

私の親戚も、夫の親戚も、みんな喜んでくれた。


命を授かったことは、私や夫だけではなく、私達の周りの多くの人に喜びを与えてくれた出来事だった。


けれど、妊娠期間は辛いことも多かった。

具合が悪くなると、体だけではなく、心も病んでしまう。

私は幸せ者のはずなのに、なんでこんなに苦しいんだろう……


矛盾する感情に悩まされた。


出産への不安にも襲われた。

経験者から話はいろいろと聞いていたけれど、自分のこととなるとなかなかイメージできない。


夫は毎朝、のん気に散歩に出かけていた。

夫の出勤時間は遅いので、毎朝の散歩が日課になっていた。


夫は毎朝、散歩しているだけで、そのうち父親になれる。

一方、私は母親になるために、毎日を不安な気持ちで過ごしている。

なんだか不公平だ。


散歩には、前から一緒に行こうと夫に誘われてはいたのだが、私は日焼けが嫌なので、散歩に行くのは論外だった。

そして、妊娠しているので、もしものことを考えると外に出るのも怖かった。


何をするにしても、赤ちゃんに悪い影響があったらどうしよう、と気になってしまう。


私がしていることは、赤ちゃんにとって大丈夫なのか。

私が食べているものは、赤ちゃんにとって大丈夫なのか。


一つ一つの自分の行動が気になって、これで正しいのかどうか、いつも悩まされ続けた。



不安は尽きない。



ちゃんと生まれてくるのだろうか。

高齢出産だとリスクも高いと聞いている。

そして、出産して終わりではない。

出産は、育児の始まりに過ぎない。



ちゃんと育てられるのだろうか。

どんな子に育つのだろうか。

どんな人生を送るのだろうか。

不幸になったりしないだろうか。


まだ生まれてもいないのに、あれこれと考えてしまう。


産まなきゃよかった、そんな風に後悔することはないだろうか。



気が狂いそう……


けれど、私のお腹の中で「命」は日に日に育っていく。

あれこれ悩んでいる間にも、私の赤ちゃんは毎日毎日、大きくなろうと頑張っている。


私という命の中に、私の赤ちゃんという別の命も生きている。

それが、とても不思議だった。

まだ、生まれていないし、そして、顔も見ていないのに、一緒に生きている気がする。



超音波の検診で、姿を見せてもらった。

赤ちゃんは子宮の中でちゃんと大きくなっていた。



私の体から生まれてくる「命」。



会いたい……


出産予定日が近づくにつれ、また、不安になってきた。

お腹の赤ちゃんに会える喜びと、出産への不安。

両方の気持ちが入り混じる。



そして、ついに……



私は病院に搬送され、出産することになった。



分娩室が慌ただしくなる。

激しい陣痛に何度も襲われ、体中に脂汗をかく。


いつまでこの痛みが続くの?


難産となり、お医者さんの判断で帝王切開になった。

その可能性は事前に言われていたので、覚悟はしていた。



* * * *



生まれたらしい。


らしい、というのは、私には何がなんだかわからないからだ。


産声は?


赤ちゃんの声が聞きたい……



どうして聞こえないの……



お医者さんや看護師さんが慌てて何かをしている。


赤ちゃんは……?




数時間後。

私は真相を知った。



新生児仮死



喉や気管の羊水を吸引して、酸素を吸入させる。

それでも産声をあげないので、気管にチューブを入れて人工呼吸器にもつないだらしい。


けれども、私の赤ちゃんは生きることができなかった。



何ヶ月もの間、ずっと会いたいと思っていた私の赤ちゃん。


私の赤ちゃんは、新生児集中治療室NICUで、青くなって横たわっている。



生きて産んであげることができなくて…………ごめんなさい…………


それからのことは、私はあまり覚えていない。

思い出すことを、脳が拒否した。



産婦人科から退院した後、私は日常に戻ることができず、精神科に入院した。


親戚の面会は、すべて断った。



夫は仕事を休んで、私に付き添った。


* * *


数週間後、私は退院した。


けれども、私は何もすることができなかった。

夫は、私の看病のために休職した。


家事はすべて、夫がしてくれる。

申し訳なかった。


毎日毎日、何もせず、時間だけが過ぎていく。


夫は、毎朝の散歩を欠かさない。

一緒に行こうと、誘われてはいた。

それでも、私は外に出る気にはなれなかった。



私の存在意義は何なんだろう……


子供も産めない……


家事もできない……



毎日が惨めだった。


ある日、夫がとんでもないことをした。


犬を拾ってきたのだ。


「殺処分されるのがかわいそうで、もらってきた」


え?


犬を飼うなら飼うで、なんで私に相談してくれなかったの?

私のことなんてどうでもいいの?

私が子供を産めないから?


それで、代わりに犬をもらってきたの?


夫は、私に愛想をつかして、それで犬を飼い始めたのだろうか……


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