青い桜とクジラたち

海宝

青い桜とクジラたち

 

 ねぇ、知ってる? 「青い桜のおまじない」。

 ここの裏山には桜の名所があるでしょ? で、その中に1本だけ花が青い桜があって……その木の下で祈ると必ず願いが叶うんだって! 



 ──なんだ、そのくだらない噂は。


 休み時間。僕の席の近くで噂話を始めた傍迷惑な同級生たちに、内心毒づく。これでは、彼女の声が聞き取りづらいではないか。


《……今日のお弁当のおかず何だろうなぁ》


 脳内に響いた彼女の鈴のような声と内容に、先ほどまで苛立っていた僕の心が穏やか気持ちになるのを感じた。

 教室の最後列にある僕の席の、右斜め前の席。そこに入見渚沙いりみなぎさ、またの名を「52Hzのクジラ」がいる。

 

 「52Hzのクジラ」という観測された中で、最も孤独なクジラをご存じだろうか?

 

 某文学賞を受賞した本の題名に使われたため、知っている人は多いかもしれない。

 クジラは普段は声の代わりの周波数を発することで、仲間とコミュニケーションをとる。

 だが、そのクジラは他が聞き取れない高い周波数(52Hz)を発するため、自身の言葉は仲間に届かないのだ。

 僕が入見梨沙を、この「52Hzのクジラ」の例えるのには訳がある。それは彼女も、他の人に言葉を届けることができないからだ。


 ──渚沙は心因性の「失声症」だった。


 彼女の声を奪うほどの出来事がどんなものだったのか、僕は知らない。それに他人がおいそれと触れていい内容だとは思えなかった。

 ただの他人同士であった僕らに転機が訪れたのは今年の春、渚沙と同じクラスになってから。時々、僕の脳内に直接響くような女性の声が聞こえるようになったのだ。

 最初は幻聴でも患ったのかと焦ったが、その声が聞こえるのには、とある条件があることに気づいた。

 それは「」だった。

 検証を重ねたから、これは確かだと思う。現に謎の声が聞こえたのは学校、特に彼女がいる教室だけ。加えて、渚沙が通院のために欠席だった日は教室にいても聞こえなかった。

 試しに他の奴らにも声について尋ねてみたが、「頭がおかしくなったのか?」と返されたので、聞こえるのは僕だけのようである。

 

 つまり僕は入見渚沙限定で、心の声を聞き取れるテレパシー能力を手に入れたのだ。高校2年生にもなって、中二病じゃあるまいし……なんて当初は思ったりしたものだ。

 もちろん、本人に声が聞こえることは伝えていない。言っても気味悪がられるだろうし、彼女の声は思ったことそのままの「心の声」なのだ。それが筒抜けなんて、思春期の女子としては知られたくないだろう。

 ただ文芸部所属で好奇心旺盛な僕としては、正直この状況を楽しんでいた。

 素晴らしい作品を書くには、一定のリアリティーが必要となる。そのため僕は自分自身と入見渚沙を題材にした小説を、密かに授業中や家、部室で書き続けていた。



 その日、僕は焦って学校に戻っていた。

 下校中にルーズリーフに書き溜めていた小説を、机の引き出しに入れたままだったことに気づいたからだ。

 本当はパソコンに執筆したいところだが、それでは退屈な授業中に書き進められない。だからノートに書く振りをしつつ、書いていたのが仇になるなんて!

 もし引き出しの中身が、床に散らばったりして拾った誰かに読まれたら……恥ずかしさなどで、僕が社会的に死ぬ未来が見える。

 僕は廊下を走り、放課後の教室に駆けこんだ。誰もいないと思っていた教室には、一人の生徒がいた──入見渚沙だった。

 そして彼女が手に持っているのは、僕が原稿用紙代わりにしているルーズリーフ。つまり、僕の小説で……。


《……これ、稲生いのう君の?》


 頭に渚沙の声が響く。否定したいところだが、登場人物の名前は現実と全く同じだ。

 どうして、誤魔化せるように名前を変えておかなかったのかと自分を恨む。


「……よ、読んだ?」


 質問を質問で返す僕に、渚沙は頷いた。


《稲生君って、文章上手いんだね。この小説、面白かったよ》

「──本当!?」


 彼女の言葉に、僕はパァッと破顔したのが自分でもわかった。今まで「面白い」と言ってくれた人もいたが、僕には社交辞令の……お世辞のように感じてしまって。

 渚沙の声は、心の底からの言葉。だから僕は、とても嬉しかったんだ。


《あ、やっぱり思ってることがわかるんだ》


 渚沙はいたずらが成功した子供のように、微笑んだ。

 いつも言葉を発せないことから誰とも関わらず、無表情な彼女が見せた初めての笑顔だ。


「……ごめん」

《どうして?》

「だって、その小説にもあるけど入見さんが思ったことが僕には勝手にわかっちゃうんだ……そんなの嫌じゃない?」

《正直、ちょっと嫌だけど》


 あ、やっぱり嫌なんだ。そんな僕の心情が顔に出ていたのか、焦ったように渚沙の心の声が聞こえた。


《で、でも! 独りぼっちじゃないんだって気づけた方が嬉しいかな》


 そして彼女はルーズリーフの束──僕の小説──を片手に、こんな提案をした。


《これを返す代わりに、私と友達になってよ。小説のことは誰にも言わないから》

「え?」

《筆談でもコミュニケーションは取れるけど……やっぱり喋れないと語弊が生まれたりするから、友達を作らないようにしてたんだ。でも稲生君なら、その心配もなさそうだし》

「……こんな僕でいいの?」


 渚沙は喋らないため孤高の存在だが、本来ならクラスの中心にいるような美少女なのだ。こんな教室の隅で、一人黙々と自分の世界に籠るような陰キャと……友達だって?


《いいの! 私が友達になりたいって言ってるんだから》


 と、少し怒り気味の彼女の声が頭に響く。

 僕は久しぶりに嘘偽りのない人の心に触れた気がした。


「……じゃあ、よ、よろしく」

《それと続きが書けたら、また読ませてね》

 

 握手代わりに原稿のルーズリーフを交わす。

 こうして自分と渚沙は唯一の友達、僕にとっては最初のファンを手に入れた。


 と、言っても高嶺の花とも言える渚沙と僕の関係性は秘密だ。もちろん、僕だけが彼女の声が聞こえることも……不満があるわけではないが、強いて困ったことがあると言えば。


《見て見て、稲生君。先生の『社会の窓』が開いてるよ》

 

 渚沙の言葉に思わず席の横を通った男性教師の股間を見てしまい、僕は吹き出した。

 斜め前の席を見れば、振り向いて彼女はこちらを見てニヤニヤと笑っている。

 ……このように渚沙は僕に声が聞こえることをいいことに、授業中に話しかけるようになってきたことだ。

 僕は教師にバレないようにスマホを取り出し、LINEのトーク画面を開く。そして渚沙にメッセージを送った。


『ちょっと、笑わせないでよ』


 すぐさま既読がつき、僕の頭に彼女の声が響く。


《ごめんって……なんか、稲生君っていじ甲斐がいがあるっていうか》

「はぁ?」

 

 思わず、僕の口から不満の声が出る。教師がこちらをギロリと睨んだ。僕は首をすくめながら、バレないように追加でメッセージ送る。


『早く渡した小説読んでよ』

《はいは~い。これの続きと新作待ってますから……稲生せ・ん・せ・い?》


 優等生のような見た目に反して、意外にも茶目っ気が強い性格なのかもしれない。これは彼女と友人になって初めて知ったことだ。他のクラスメイトは知らないだろうと、ちょっとした優越感を覚える。

 そんな渚沙には自分と彼女をモデルにした小説だけではなく、それ以前に書いていた小説も渡して読んでもらっている。

 渚沙は授業中に隠れて僕の小説を読み、同様に僕も内職として小説を書くが……筆は全く進まなかった。


《えーここでその展開! 嘘でしょ!? 予想外なんだけど!》


 やった! 彼女の感嘆の声に、僕は机の下でガッツポーズした。


《は? ここ、前の描写と矛盾してない?》


 え? どこ?? 危うく僕は授業中にも関わらず、席を立って渚沙に駆け寄りそうになる。


《ヤバい……泣いちゃう。どうしよう》


 自分の小説で泣いてくれる人がいるなんて。僕も泣きそうになってしまい、困ってしまった。


 ……と、リアルタイムで小説の感想が僕の頭に届くため、集中できるわけがない。おそらく彼女は斜め後ろの席で、僕が百面相をしていたことを知らないだろう。

 でも僕としては嬉しかった。読者である彼女がどこで感動し、作品の至らない点がどこかすぐわかったから。だって、それだけ僕の小説を真剣に読んでいてくれているということもわかるのだ。



 渚沙と友人になって約半年が経った。もうすぐ3年生になろうとした頃、下校中に彼女はこう切り出した。


《あの小説の結末はどうするの?》


 渚沙の言う「あの小説」とは、友人となるきっかけとなった僕と彼女を題材にした話のことだ。


「特に決めてないなぁ」


 傍から見れば、僕が独り言を言っているように見えるだろう。でも気にしない。

 「頭のおかしい人」と思われるより、渚沙という友人兼読者を失うことの方が、僕には恐ろしかったからだ。


《小説の展開としては、ここ辺りで一大イベントを挟むべきだと思うんだよね》


 ……読者というより、編集者だろうか? そう思いつつも、僕は聞き返す。


「一大イベントって?」

《例えば、我が校で有名な噂の『青い桜』のエピソードを入れるとか》

「……『青い桜』ねぇ」

《噂を確かめるべく、私たちは裏山を探索することにして……》


 渚沙も他の子同様に、そういった都市伝説に興味があるのだろう。だが──。


「悪いけどあの小説では、出来るだけ事実を書きたいから、現実じゃあり得ない要素は入れたくないんだ」


 あれは半ば私小説のような、エッセイに近い。他のジャンルの小説ならまだしも……それでは、きっと作品の軸がぶれてしまう。


《そのあり得ない世界を見せるのが、小説でしょう? 小説家目指してるんだったら、色々と挑戦してみてもいいんじゃない?》

「僕は小説家を目指してない」


 彼女の言葉を遮るように、僕は言う。


「だって無理だよ。入見さんは知らないだろうけど文芸部、いや世界には僕よりずっと上手い人がたくさんいて……そんな人でも作家になるのは難しいのに、僕がなれるわけ」


 ふと渚沙の方を見ると、今まで見たことのないような怒りの形相をしていた。


《挑戦もしていないのに『無理だ』とか言って諦める人、私は嫌い……稲生君は自分が周りよりも劣ってると思ったら、すぐに全部諦めるの?》

「それは……」

《あんなに小説を通して、『自分を見てほしい』って訴えてるのに?》


 僕はその言葉に、息をのむ。


《小説に出てくる登場人物は全部、君自身だよね? 姿、性格は全部違うけど皆の核は稲生君で……それだけ自分を投影して、読者に伝えたい気持ちが強いのに。どうして》

「うるさい!」


 僕は自分の心に土足で入られたような気がして、思わず叫んでしまった。

 だって図星だったからだ。小説に出てくる学生も、勇者も、探偵も、全部そのつらの皮を剥がせば僕が現れる。

 僕は自分の言葉に、自分自身に自信がなかった。

 だから登場人物たちに代弁させていたんだ。つまらない人間である僕じゃなくて、魅力的な登場人物の言葉なら読者に届くと思って。僕の想いを伝えて、作品を通して僕自身を見てほしいと。

 でも小説に込めた僕の勝手なこの願いは渚沙の声のように、どうせ誰にも届きやしないと心のどこかで思っていた。

 だから彼女に指摘された時には届いていたことへの嬉しさよりも、まず戸惑いや恐怖が勝ってしまったのだ。


《……色々言いすぎた。ごめん》


 そう言って、渚沙は立ち去った。僕は何も言うことも、追いかけることもできずにその場に立ち尽くすしかなかった。

 彼女の心の声を勝手に聞いておきながら、自分の心を触れられたらキレるなんて……僕は、ただのガキじゃないか。


「……おはよう」


 次の日、登校した僕は渚沙に挨拶をしたが、彼女の声は聞こえなかった。

 おそらく、僕に心を閉ざしたからだろう。以前のように無表情の彼女がそこにいた。

 あの時、謝るべきなのは僕だったのに。でも、ただ謝るだけではダメな気がする。

 そんな渚沙の声が聞こえない日々が続いたある日、学校から帰って自室のベッドに横になっていた僕は、不思議な夢を見た。

 夢の中で僕はどこまでも広い青の世界、海の中にいた。水中にいるのに何故か僕は呼吸ができて、ふわふわと漂っていた。

 すると一頭の大きなクジラがこちらに泳いでくるのが見えた。


 ──まずい! このままじゃ、ぶつかる!


 僕は手足をバタバタと動かして泳いで逃げようとしたが、全く進まない。そんなことをしているうちに、クジラは目の前に迫る。

 僕はギュッと目を閉じて、衝撃に備えた。しかし、何もない。

 恐る恐る目を開けるとクジラは泳ぐのをやめて、こちらをただジッと見つめていた。


「……?」


 よくわからず僕も、見つめ返す。クジラのつぶらな瞳には、静かな悲しみをたたえているようだった。

 何も言わない僕に興味を失ったのか、クジラは再び泳ぎ出した。巨大な体にヒレが起こす水流に、僕は洗濯機に入れられた服のようにもみくちゃにされる。


《一人は寂しい》

「……入見さん?」

《誰か私の声を聞いてよ》


 クジラから渚沙の声がした。その声はとても悲しそうな独り言のようだったけど、誰かに届いて欲しいというそんな気持ちが滲み出ていた。


「待って!」


 思えばこのクジラは何で群れで行動せず、一頭だけなんだ? まさか「52Hzのクジラ」なのか?


「君の声は僕に届いてるから! 待ってよ!!」


 僕の制止を無視して、クジラは青い海の中を泳いでいく。


「……お願いだから」


 もうあのクジラ、渚沙に僕の声はもう届かないのだろうか? 僕は彼女の声を唯一聞くことができたのに、また孤独に追いやって。


「何てことをしたんだ、僕は」


 僕だって小説に自身の想いを込めるぐらい、誰かに自分の声を届けたかった。

 自分の想いを誰にも共有できないのは、すごく寂しいことだってわかっていたはずなのに。


「……あぁ、そうか」


 そこで僕は自覚した。


 ──僕もまた「52Hzのクジラ」だったんだと。


 そこでハッと目が覚めた。

 窓から月明かりが差し込んでおり、壁時計が指す時刻は午後11時。

 僕はとある決心をすると、スマホを取り出し、LINEアプリを開いて渚沙にメッセージを送る。


『来週の午前4時に、学校前まで来てほしい。そしたら《青い桜》を見せるから』


 しばらくしてから既読はついたものの、返事はなかった。

 約束の日の早朝。僕は学校の校門の前で一人、渚沙を待っていた。3月の春なったとはいえ、まだ肌寒い。


 ……彼女は本当に来てくれるだろうか?


 そう思いふけっていると、後ろから背中を叩かれる。そこには渚沙の姿があった。


「来てくれてありがとう」


 だが、依然として彼女の声は聞こえない。


「『青い桜』の前に、この前はごめん……入見さんは何も悪くないのに、怒鳴ったりして本当にごめんなさい」


 渚沙は何の反応もしなかった。相手の感情がわからないことが、こんなに怖いなんて。

 彼女と知り合わなかったら、知らないままだっただろう。

 本当、渚沙と出会ってから僕の人生は新たな発見ばかりだ。そんな彼女に僕ができることは──。


「来て。青い桜の時間は限られてるんだ」


 そう言って、僕は裏山に向かって歩き出した。 

 例え許してくれないとしても僕は渚沙が言っていたように、無理だとしてもやれることはやってみようと思うのだ。

 腕時計で時間を確認しながら、僕は彼女と学校の裏にある山に向かう。そこには噂通り桜の名所があり、ちょうど満開を迎えていた。


《……嘘、本当に桜が青い》


 桜を見た驚いた渚沙の声が、頭に響いて聞こえる。

 聞こえなくなって、たった一週間ぐらいだったのに、彼女の声に僕は泣きそうなほど嬉しかった。熱くなった目頭を隠しつつ、僕は種明かしをする。


「青っぽく見えるだけだけどね。この時間帯は『ブルーアワー』って言うんだ」


 僕は前にも書いたように、彼女との小説にはフィクションの要素を入れるつもりはない。

 そんな僕が出した答えがこれだった。

 「ブルーアワー」とは、日の出、日の入り前に空が群青色に染まる時間帯のことだ。夕暮れによって人や物がオレンジ色に染まるように、ブルーアワーでは青色に染まる。


「『青い桜の木の下で願い事をすると叶う』って噂も、実際はこの僅かな時間帯だけに見える桜がもとで生まれたのかも」

《なるほど。でも完全な青は難しいのね》


 確かに桜色と青色が混じっているために少し紫っぽいが、そこはご愛嬌ということで許してほしい。


《私、青い花が好きで……特に青いバラの花言葉が好きなの》


 青いバラは自然界に存在しない。作ることも難しく、そのため青いバラの花言葉は長らく「不可能」だった。

 しかし、バイオテクノロジーの発展によって青いバラが誕生した。すると不可能を実現させたため、花言葉は「夢叶う」になったという経緯がある。


《でも、あれも大分紫色っぽいのよね》

「学者の努力の結晶に対してなんてことを……それだけ難しいってことなんだよ」

《私の夢は完璧な青いバラを作ること》


 渚沙は桜の幹を撫でつつ、言う。


《──その時に一緒に青い桜も作ろうかしら。このブルーアワーみたいに、綺麗な青色の》

「大それた夢を簡単に言うね」

《不可能だとか、無理だとか言われているものに挑戦する方が燃えない? いつか声だって、私は取り戻してみせるよ》


 そして彼女にしては珍しく不安そうな表情で、僕を見て告げた。


《もし声を取り戻して普通に喋れるようになっても……稲生君の友達として、小説の読者でいさせてくれる?》

「──もちろん。まぁ、その時には僕は売れっ子作家で、読者は入見さんだけじゃないかもしれないけどね!」


 僕のその答えに、渚沙は朗らかに笑う。彼女の背後から、朝日が昇るのが見えた。

 青い桜の木の下で僕らは、夢を願った。この日の出来事は何年経っても、忘れることはないだろう……いや、なかった。




「よっこいせ」


 杖を使い、何とか目的地の公園にたどり着いた。遠出をするのにも一苦労とは、随分と年を重ねたものだ。

 ベンチに座った僕の視線の先には、立派な桜の木が多く植えてある。ただその満開の桜は普通の桜と違う。桜の花の中心にある花弁の根元は赤いものの、本来桜色の部分が群青色となっているのだ。


「根元の赤色の部分は、どうにもならなかったわ……まだまだ改良の余地があるわね」


 と、老婆が不満気に、でもどこか楽しそうな声音で呟きながら僕の隣に座った。

 高校時代に聞いていた鈴のような声に比べると老いによって、しゃがれた声になったが僕は今でも彼女──渚沙の声が好きだった。

 何より彼女の口から言葉が発せられるようになったことが、一番の喜びなのもある。

 それにしても難題に挑戦したがる性分は、いつまで経っても変わらないようだ。


「僕はあれでいいと思うけどなぁ。あの日、君と見た朝焼け──ブルーアワーの色合いのようじゃないか。夜の青を残しつつ、朝日の赤を表しているようで」

「さすが小説家、随分と詩的な表現をなさるのね」


 僕は作家になれたものの、超売れっ子にはなれなかった。何とか専業で生きていける程度の……中堅作家にはなれたと信じたい。

 だが渚沙は宣言通りの完璧な青いバラに、青い桜を作り、世界的に有名な生物学者になった。

 しかしどれだけ忙しくても青い桜が初めて植えられたここで、僕らは毎年必ず会い続けている。


「あの裏山の桜、伐採されたんですって……ソメイヨシノは寿命があまり長くないから」

「なら、噂のおまじないはもう出来ないのか」

「ある意味ね」

「え?」

「あの山に私が作った桜を寄贈するって形で植えることにしたの」

「それは本当かい?」

「来年で高校が創立されて80年だから、記念にって」

「じゃあ、今後もおまじないができるのか」

「正直、私はあのおまじないに物申したいのよ」

「へぇ、なんて?」

「『青い桜の木の下なんて限定的な場所で祈らなきゃ叶わないなんて、夢がない』ってね」

「限定的な場所だからこそ、人は特別性を見出すのさ」

「そうだけど……どこで何を願っても叶った方が皆幸せじゃない」


 そこで僕は彼女の寄贈に隠された意図に気づいた。


「もしかして裏山に桜を植えるのは、限定的な条件を少しでも減らすため?」

「ふふ、稲生君は私の考えをすぐわかってくれるから嬉しいわ。これでブルーアワーなんて時間的条件はなくなった」

「なら皆、好きな時に裏山で祈ればいいのか」


 青く染まった裏山を僕は思い描いた。あぁ、確かにそれは。


「──いいな」

「でしょう? 無事に植林が終わって咲いたら、お花見に行きましょう」

「あぁ」

「今日は、目の前の桜で我慢して」


 目の前には、青い桜を見上げる男女の学生がいる。

 彼らが僕には、かつての自分と渚沙に重なって見えた。彼女もそのようで、小さく呟く。


「……青春ねぇ」

「そうだなぁ。僕たちはもう晩春だから」

「何、老人みたいなことを言って春を終わらせようとしてるのよ」

「いや……僕らは、もう70近いんだが」

「だから何? 若者みたいに気力があれば、いつでも青春なの」

「それが入見さんの思う『青春』かい?」

「えぇ、時間が経つにつれて花が散るように、人は諦めがちになる。でも、また花を咲かす桜のように諦めなければ、年齢関係なく青春は来るものよ。何度だってね」


 そして渚沙は声に出し、笑いながら言った。


「それに春の象徴である桜を青くしたわけだし……これで見た目に加えて言葉通りに『青春』を作れたようなものだわ。うふふふふ」


 実際、彼女は開発者権限で青い桜の品種名を「青春」にしたどころか、「青春」の花言葉も「無限大の可能性」に決めた。

 青春と言うよりも、何にでも挑戦して不可能を実現する渚沙を表しているようだった。


「近くにお洒落なカフェがあるの。そこで新刊にサインを書いてちょうだい? 稲生せ・ん・せ・い?」


 僕らは学生時代、52Hzのクジラのように自分の思いを心に秘めたままだった。

でも今はそれぞれ本を通して、青い桜を通して届けることができる。

 海の代わりに青い桜吹雪の中を、僕らはゆっくりと歩き出した。

                               

                                   (了)

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青い桜とクジラたち 海宝 @with_kage98

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