フィリア - 偏愛短編集 -
2121
「樹」 - デンドロフィリア -
「樹」 - 1 -
土曜日午後のとろとろとした日射しをエンジンにしたような車から見る街は、懐かしくも目新しいものばかりだった。似たような家ばかりが並び、更に走れば同じ長方形の並ぶ団地が並び、それを過ぎればまた似たような家ばかりが並ぶ。こんな風景はありふれたものであるはずなのに、どんな人が住んでいるのだろうと心踊った。信号で待つ髪の長いあの子は私と同じ年くらいでは無いだろうか。同じ小学校ではないだろうか。この新天地で、私はやり遂げたいことがある。
――今度こそ一生の親友を作る!
父親の仕事で転勤が続き、小学生五年生にして五度目の引っ越しだった。しかし今回ばかりは意味が違う。二週間前にまたも県境を越える引っ越しをすると食卓で重々しく告げられたが「今回の引っ越しが最後だ」と目に強い光を灯す父親の姿には私の涙も一時流すのを止めた。曰く、本社勤めになるため転勤族から解放されたらしい。
私自身も解放された気分だった。もう引っ越しによる友達との別離に脅えなくてもいい。親友と呼べる友達が出来ても、引っ越して一年絶てば連絡も無くなってしまう悲しさを感じなくていい。またそうなることを恐れて、仲良くなりかけてもどこか距離を置いて予防線を張ることもしなくていい。いつか訪れる別れを考えながら友達を作らなくていい。だから私はこの土地へ多大な希望を寄せている。
「もうすぐ着くよ」
信号で停まったときに父が言う。その声に助手席の母親が、うーんと唸って目を覚まし「山が近いね」と息を吐くついでのように呟いた。
この街で特徴的なことといえば、山沿いに大きな公園があることだった。元々あった森の間に道を作り、自然溢れる公園にしたのだと聞く。先ほどからも左には緑、右には住宅地の続く道路を走っていた。ここには初めて来るはずなのにどこか懐かしい気がするのは、父親からこの街の話を聞いていたからだろうか。この街は父親がかつて住んでいた場所でもあるのだ。
「田んぼは減ったけど、この公園は変わらないな」
「公園行きたい」
「後でね」
八百屋のある曲がり角で曲がり、体が外側に振られるのに耐えて体勢を立て直したところで車は停まった。車を降り、これから住む家を見上げる。くすんだクリーム色の壁にグレーの屋根で三階建ての家。私の部屋は三階の予定だ。大きな窓とベランダがあり、日当たりがいい。
父親は腕時計を確認し、車のトランクを開けてクイックルワイパーと縦型掃除機を取り出した。
「引っ越し屋さんはあと一時間くらい掛かるみたいだ。軽く家の掃除をしておくよ」
「お母さんは今のうちに昼ご飯を買ってこようかな。
「サラダもあったら食べたい」
「お父さんはツナマヨがあればいいでしょう?」
「僕のことツナマヨさえあれば懐柔出来ると思ってない?」
「思ってる」
「仁衣菜も掃除手伝ってくれるか?」
「掃除機やる」
父親の後ろに付いて家に入ると特有の匂いがした。中古物件なので見た目に真新しさは無いが、壁紙と床は張り替えているので新築の匂いがするのだ。
「広いし綺麗だー!」
リビングのど真ん中に寝転ぶと、電灯を取り付けるための穴が二つ見えた。カーテンも無いから、ガレージの屋根を反射した光がそのまま入ってきて薄暗い天井に差している。
「背中汚れるよ」
クイックルワイパーで轢く父親が視界に入ってくる。
「楽しいよ?」
考えるように目線を逸らし、母親がコンビニに行ったのを確認してから「まぁいいか」と小さく言って、私の隣に同じように寝転んだ。
「ほんとだ、広いね。いい家だ」
物が無いゆえ、空気が部屋の形のまま留まっている静謐さは、家具を入れない今だけ体感できるもの。真新しいノートを前にしたときのような、このままが一番綺麗であると分かっていつつも、鉛筆の黒鉛を手に自分仕様にしていきたくなるような高揚感を覚えた。新築の匂いは、いずれ私たちの匂いに染まっていくのだろう。
掃除を済ませ、母親の買ってきたおにぎり二つを食べるとそろそろ引っ越しのトラックがやってくる時間になっていた。
「公園に行ってきていい?」
「もうすぐ引っ越し屋さん来るけど」
「前に渡した紙の通りに家具は置いといて」
引っ越しは慣れているので、事前に自分の部屋の間取りを見て紙に書き写し、どこに何を置くのかの配置図を作っていた。机は部屋を入ってすぐのところ、本棚はその隣、ベッドは窓際で、窓の縁にはポトス・ライムと斑入りベンジャミンのプリンセス。間取りは変われど大体いつもそんな感じで置いている。
「私がいてもやること無いでしょう?」
「まぁそうだな。スマホだけ持っといて」
父親が私用のスマートフォンを差し出したので、両手で受け取りポケットに入れる。遠いところに行くときだけこのスマホを持たせてくれていた。何かあれば母親か父親の仕事用のスマホに連絡すればいいというわけだ。
「道を外れて迷わないようにね」
「家に帰るのに困ったら八百屋さんを目印にして」
玄関で靴を履き、父親と母親が私の背に掛ける声に押されながら、知らない街へ踏み出した。
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