「樹」 - 3 -

 引っ越し作業をするからと長袖長ズボンを着ていたのは良かったが、靴が些か滑りやすいのが良くない。

 男の子は慣れているのか、道の無い森の中を迷うことなく登っていく。たまに迂回して進んでいるところを見ると、通りやすい道を把握しているのだろう。私も彼にならって足跡を辿るように同じところを踏むことにした。

 しかし同じところを通っても自分の靴ではスムーズには進めない。足を踏み出して体重を掛けた瞬間、体重は真下ではなくスライドするようにいなされてしまう。また苔の生えた石だ――と焦りながら両手を前に出すことで後ろに倒れ掛けた体勢を立て直す。転ばなかったことに安堵しつつ、自分を安心させるよう大きく息を吐く。乱れた心音は中々戻らないが、強く鳴る音を胸に抱いたまま彼を見失わないよう更に前へと足を出す。

 先程からなんども足を滑らせ掛けていた。山登りをすることになるとは思っていなかったので仕方がない。見失いそうだから戻る訳には行かなかったし、例え戻ろうにも振り返れば公園はもう見えておらず戻るだけでも迷子になってしまいそうだった。迷子で済めばいいが、もはや遭難しそうな勢いだった。

 彼はどこまで行くつもりなのだろう。格好からして何か虫を取りに来ているのだろうが、山奥にしかいない虫を狙っているのだろうか。

 不意に彼が足を止めた。そこが目的地という訳では無さそうだが、立ち止まったまま何かをじっと見ている。その間に追い付こうと足を早めるも、また前を向いて歩き始めてしまう。

 彼が何を見ていたのかと同じ場所に立ち顔を向けていた方向を見る。外側のみを残した枯れ木の根本にあったのは、汚れているけど白っぽくて、硬そうな……

 ひ、と喉の奥で悲鳴を上げ半歩後ずさる。

 それが何かが分かって、ぞわりと背を這う恐怖と寒気に襲われる。けれどそれから目が離せない。森は変わらずサラサラとさざ波のような葉擦はずれの音がしていた。

 ――頭蓋骨だ。頭蓋骨が落ちている。

 拳くらいの大きさだから、動物のもののようだ。空洞の目をこちらに向けていて、よく見れば体の骨もあり横たえるように頭蓋骨から繋がっている。

 おそらく野生動物に何かがあって死んだだけなのだろう。けれど……日常で見ることなどまず無い異様な光景に、この森にそもそも入ってよかったのかと疑念がうずまく。木々のざわめきが鼓膜をざらりと撫でるようで気持ち悪い。ずっと同じ音を聞いているはずなのに、急に場所が変わったかのように足元が覚束無くなる。

 彼は追っても大丈夫な存在だったのだろうか……と彼の背中を見ながらポケットに入れたフタを触った。知らない土地の非日常な状況の中で信じられるものが欲しかった。フタは確かにここにある。渡さないと、今から虫取りをするなら困るはずだ。私は当初の目的を胸に持ち直ししっかりと地を踏む。後ろを見れば木がとうせんぼをするように枝と枝を交差させていた。

 私の道しるべは彼しかいないのだと再確認し、大丈夫と自分に言い聞かせながら前へと進む。

 山道を登りきると平坦な開けた場所に辿り着いた。どうやらここが目的地だったようだ。はぁ、と下を向き山登りで上がった息を整えていると、見慣れない葉が落ちていることに気付く。

 あれ、この葉って――。

 葉の形からおそらくクヌギだろうけれど、私の知る葉とは明らかに見た目が違う。病気の葉という訳でもなさそうだ。疲れも忘れ、突き動かされるように顔を上げる。私の存在に気付いた彼も視線を上げこちらを向く。

 融けることの無い雪を湛えた木の下で、私は彼に出会った。

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