「樹」 - 4 -
心臓が高鳴っているのは、山登りのせいなのだろうか。
男の子は踏み台代わりに木の根に立ち、木の幹に伸ばしていた手を下ろす。半袖に長ズボンで、年はおそらく私と同じくらいのように見える。髪は短くつり目がちで、おそらく休み時間に一目散に運動場へ出てドッジボールの陣地を確保していそうなタイプだ。
「こんにちは」
「こん……にちは」
目が合いひとまず挨拶をすると、男の子がおずおずと返した。訝るような目でこちらを窺う。「なぜこんなところにいるんだ」とでも言いたげだった。
「誰? 後を付いてきたの……?」
私は隆起している木の根を跨いで彼の元へと進む。
「公園で落としてるのを見掛けたから、渡そうと追ってたらここまで来ちゃって。後ろから声を掛けても全然気付かなかったから」
向かい合わせになりポケットからフタを出して手渡すと、「え?」と驚いたような声を上げて虫かごを見た。もちろんそこにフタは無く、嵌めるとパチンと在るべき場所へ収まった。
「ありがとう! 助かった」
彼は猫のような人懐こい笑顔を見せる。どうやら警戒は解けたようだ。
「珍しい木だね」
見上げたクヌギの大木には、葉に落ちることのない雪が積もっていた。私は足元の葉を拾い、木漏れ日に透かすようにして葉を眺める。雪のように白い斑点が葉に入っている。繊細で綺麗な葉だなと思った。
「斑入りのクヌギなんてあるんだね」
「斑入り?」
「葉っぱに白い点が入ってるでしょう? 突然変異とか遺伝子に何かあったりして、葉緑素が一部だけ抜けてるんだよ」
家で育てているポトスもベンジャミンも斑入りの品種だ。ポトス・ライムはライムグリーンの葉に白い斑が入ることがあり、ベンジャミン・プリンセスは葉の外周が白い。斑入りの品種は葉の一枚一枚に個性があってオシャレで可愛いから好きだった。
「良かった。病気の木じゃなかったんだ。あんまり見ないなと思ってたんだ」
「クヌギの斑入りの品種は珍しい……と思う。調べないと分からないけど」
「俺もこの木しか知らない。多分この木を知ってるのも俺しかいない」
「……もしかして、ここは秘密基地か何かだった?」
「そんなところ。この辺はクヌギが多いし人も来ないから色んな虫が取れるんだ」
そう言う男の子の肩に、何か這っているのが見えてぞわりと肌が粟立った。
「うわぁ!?」
黒い体に白っぽい長い足のこの虫は……ムカデ!?
「あ、こいつ乗せてたこと忘れてた。これはムカデじゃないんだ。刺したりしないし、大丈夫」
「そうなん、だ」
見れば見るほど危険度の高そうな虫に思えたが、こんなところにまで虫取りに来る彼が言うならば本当なのだろう。
「なんて言う虫?」
「ゲジゲジ。見た目は恐いかもしれないけど、温厚な虫だよ。毒も無いし」
「毒ないんだ」
「……触ってみる?」
思いがけない提案に反射的に「イヤ」と言い掛けたが、すぐに考えを改めた。触ってみたいという好奇心が勝ってしまったのだ。
「触る!」
「じゃあ腕を出して」
肩のゲジゲジを掬うように捕まえて、上に向けた私の手のひらに置いた。そういう習性なのか、腕を上へ上へと上がっていく。歩く度にぞわっとして少しくすぐったい。
「気持ち悪いって言わないんだね」
「気持ち悪くは無いかな」
むしろ腕を這わせているとなんだか可愛げがあって愛着が出てきた。足を順番に動かしている姿も、一生懸命でなんだか愛らしい。
「そこの葉っぱ」
私はクヌギの側に生えていた背の低い木を指差した。
「ウルシ科だから触ったらかぶれるんだ。恐くて気持ち悪い木に見える?」
「見えない。そんな木だったんだ……知らなかったら触っちゃうかも」
「見た目が恐くなくても危ない木があるんだから、見た目が恐くてもそうじゃない虫がいてもおかしくないと思うんだ。だから気持ち悪くも恐くもないよ」
「そっか」
どこか嬉しそうに、男の子はまた猫みたいな笑顔を見せた。
「それに私は家で植物を育ててるんだけど、どうしても虫が付き物なんだ。今さら恐がってられない」
室内で育てている観葉植物にはあまり付かないが、屋外で育てているものには虫が付くことがあった。虫がいようが水を遣ったり植え替えたりはしないといけないし、害を為す虫は割り箸などで地道に駆除することもある。植物と虫は切っても切れない関係なのだ。
肩まで上ったゲジゲジを草生くんが捕まえて、木の幹に掴まらせた。
「初めて会ったと思うんだけど、名前は?」
「仁衣菜。今日引っ越してきたんだ」
「俺はそうせいっていうんだ」
“そうせい”という言葉に、八百屋でのことを思い出した。
「そうせい? もしかして“早く生きる”って漢字を書く?」
「“草のように生きる”で草生だよ」
「似てるけど
「早生みかん?」
背負っていたリュックを下ろし、底からみかんを取り出した。フェンスを通るときに引きずったり山登りの間に揺れたりしたから潰れていたらどうしようかと思っていたが、どこにも傷は無さそうだった。
「このみかんは“早く生きる”と書いて早生みかんと読むってさっき八百屋のおじさんに聞いたから、もしかしてと思ったの。良かったら一緒に食べない?」
「いいの? それなら良いところがあるから、付いてきて」
草生くんの後ろに付いて更にもう少し山を登ると、見晴らしのいい高台に出た。
草生くんは岩に座り、私は切り株に座って、みかんを半分こにして一緒に食べる。
「このみかん美味しいね。粒がしっかりしてるし甘い」
「美味しいな。あの八百屋は何を食べても美味しいんだ」
「良い景色を見ながら食べれるからより美味しくかんじるのかも」
「この街に初めて来たなら、全体を見下ろせた方が良いかと思ってさ」
手前には公園、その周りには住宅地があって、更に遠くには市街地のビルが霞がかって見えた。
「小学校はあそこだよ」
草生くんは北を指差した。広い校庭には走っている人の姿が蟻みたいに小さく動いている。
「来週からはあそこに通うことになるのか」
「何年生?」
「五年生だよ」
「やっぱり一緒か。クラスが多いから同じになる可能性は低いかも」
「一緒だったらいいのに」
「そう……だね。…………一緒だったらいいのにって、俺も思う」
言葉を選ぶようにしながら、ゆっくりと草生くんが言った。
「一人で帰れないから一緒に帰ってもいい? 道覚えられなかった」
「道なんて無いようなもんだしな。虫取った後でいい? ちょっと待ってて」
私たちは斑入りのクヌギのところまで戻って虫取りを始めた。今日の目当てはカミキリムシで、ゴマダラカマキリを二人で探した。
サラサラと心地よい葉の音がする。虫を取る草生くんを手伝ったりしていると、段々と日が暮れてきた。
「そろそろ帰らないとな」
みかん色の日を浴びる草生くんが遠い目をしながら言う。その声はまだここにいたいとでも言うようで、家には帰りたくないとでも言うようで、 切なく響く。
初対面の私は彼のことなんて何も知らなくて、「どうかしたの?」なんて聞けるわけが無かったから、そうだねとせめて彼の言葉に寄り添えるようにそう小さく呟いた。
フィリア - 偏愛短編集 - 2121 @kanata2121
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