【番外編】side ギイ=クレモンヌ

 幼い頃のギイ=クレモンヌの世界は、エルフリーデ=グレンフェルと共にあった。


 明るくて、花のように笑うエルフリーデ。

 駆け抜けていく彼女の背中を夢中で追いかけた、幼い日々。

 彼女の母親が不慮の事故で亡くなり、自分が出来ることならばなんでもしたいと、常に側にいたいと願った。


 グレンフェル伯爵が再婚したこともあってエルフリーデと以前のように会えなくなり、手紙を出しても戻ってこない。何故だと両親を問いつめても濁したような返事ばかり。そもそもグレンフェル家が以前とは違い、ほとんど社交の場に出てこなくなってしまった。


 クレモンヌ家は以前と変わらずに社交を続けていたから、ギイも令息や令嬢の顔見知りができた。そして年頃になってくると、令嬢たちに囲まれることも増えたが、ギイの心はエルフリーデだけを求めていたから一切靡いたことがない。


 そうしてエルフリーデに会いたくて会いたくても、会えない日々――恋焦がれて恋焦がれて――父に頼み込み、デビュタントのファーストダンスはエルフリーデに決まったときには天にものぼるような心持ちだった。


 数年ぶりに夜会で会ったエルフリーデは、以前よりも落ち着きが増していた。


(ああ、エルだ! 本当に、エルだ……! どうしよう、めっちゃくちゃ可愛いな)


 彼女をひと目見た瞬間からギイの鼓動は高鳴り、自分でもうるさいくらいだった。

 それでもなんとか、できる限り平静を装って彼女に挨拶をする。


『久しぶりだな、エル』


 エルフリーデの反応は、以前とはまったく違った。

 彼女は瞬くと、か細い声で呟く。


『おひさしぶり、です……』


 途端にギイは、眉間に皺を寄せてしまった。


(なんだ、なんで……、俺と久しぶりに会えて、嬉しくないのか……? 俺はこんなに嬉しいのに?)


 てっきりエルフリーデも自分との再会を喜んでくれると思ったのに、つれない反応をされてギイは内心焦る。しかも彼女は自分と視線を合わせていたくないとばかりに、うつむき加減にもなる。


『そんな他人行儀に話すんだな』

『――……』


 尖ったような声が出て、エルフリーデが焦ったように顔をあげたが、しかし何も言葉は続かない。ギイもどうしていいのかわからなくなり、ダンスに誘うことにした――それが今夜の目的でもある。


『……では、ダンスをしようか?』


 エルフリーデの手は、記憶よりもずっと小さく、たおやかだった。彼女の手を握りしめるだけで、自分の鼓動は高鳴る――ずっと恋い焦がれていた相手なのだから当然だろう。近くに寄れば彼女の花のような香りを感じられて、くらくらする。

 ギイはどうやってダンスを乗り切ったのか分からない。とにかく必死で終わらせると、彼女の足を踏まなかったことにほっとしつつ、輪から出る。


向かい合って挨拶をしてから、なんて言えば彼女をつなぎとめることが出来るだろう、と逡巡した。


『エル、俺……』


 だがそこでエルフリーデが彼の視線を正面から捉えた。


(ああ、瞳は変わらないな……)


 以前は同じくらいの体格だったのに、さすがに今は自分が見下ろすくらいには成長した。美しくなったエルフリーデを前にするとちょっと気後れするが、しかし瞳の色は変わらない。以前、大好きだったそのままで。


 ぼんやりしていたギイの耳に、エルフリーデの声が飛び込んできて我に返る。彼女はカーテシーをすると、他人行儀に一気に言葉にする。


『ワルツのお相手をありがとうございました。素晴らしいリードのおかげで、忘れがたいファーストダンスにしていただけました』

『――、エル、だから俺は……』


 だが、そこで言葉は途切れた。

 知り合いの令息や令嬢たちに取り込まれたからだ。


(ようやくエルと話せたのに、邪魔だっ……!)


 と怒鳴りつけたかったがそれより前に、人垣の向こうでエルフリーデは踵を返して去っていってしまった。


(なんでだよ……! 待てよ、今夜俺は……っ、もっと彼女と話したかったのにっ……)


 うまくいかなくて地団駄を踏む。

 それから夜会で会うたびに、エルフリーデと会話するように試みたが、彼女との会話の最中に常に邪魔が入って、続かない。エルフリーデもそこまで彼との会話に固執しているようには見えなくて、あくまでも昔馴染みといった体だ。


(俺はずっとエルが好きだったが、エルはそうじゃないのか……?)


 そんな風に考えつつも、だがギイは婚約者はエルフリーデしか考えられない。両親は味方になってくれ、グレンフェル伯爵に話も通してくれた。

 

『お前は本当にエルフリーデが好きだなぁ』

『ねえ、昔からそうでしたわよねえ』

『驚かないな。まぁ、エルフリーデが嫌だったら断るようには伝えたから、もし断られたら察しろよ』

『そうよ、男は諦めが肝心。しつこいのは嫌われてよ』


 両親にそう言われつつも、グレンフェル伯爵から承知の返事が来た夜、興奮のあまりギイはなかなか眠れなかった。

 ただグレンフェル伯爵は、まだエルフリーデの気持ちが固まっていないようなので、もう少し待って欲しい、と付け加えていた。

 それでもこれでエルフリーデの隣に立っていることができる、まずはそれだけで十分だ、と考えていたギイが目の当たりにしたのは、すっかり変わってしまったエルフリーデと、意地の悪いマリス、そして冷たいグレンフェル伯爵夫人。

 グレンフェル伯爵は、夫人に遠慮しているようだった。

 マリスが自分に固執しているようだったから、余計なことは言わないように気をつけつつ、彼らを観察するしかなかった。

 

 それでもエルフリーデと初めてお茶をすることができた日は、ずっとドキドキしていた。しかも彼女は自分のためにクッキーまで焼いてくれて……さりげなく並べられていても、さすがに料理長の焼き菓子とは違う。

 だが、形など重要ではない。


 ギイの脳裏に子供時代の二人の会話が蘇る。

 彼女は、甘いものが得意ではないギイのためにお菓子を手作りすると約束したのだ。


(これは、俺のためにだよな……!?)


 ギイのために彼女が焼いてくれたという事実こそが正義だ。彼女が自分との約束を覚えていてくれたのだと、嬉しすぎてすぐに食べる。

 さくっとした口当たりのクッキーは香ばしく、やはり甘すぎなかった。


(エル、やっぱり俺との会話を覚えてくれているのかな)


 しかしその後、マリスが突撃してきて事態は変わる。

 それまで少しはリラックスしていたように思えたエルフリーデの顔色が曇り、またマリスがため息をつけば、あろうことかエルフリーデは身体をこわばらせる。

 それを見た瞬間、ギイの頭に血が上った。自分がいないグレンフェル家で一体何がおこなわれていたのか、想像がついたから。


(こんな奴らに言いっぱなしにさせるなよ、昔のエルだったら言い返してたろ) 


 自分が知らない間にそんなことがあったという怒りに、自分が守ってやれない焦りと、自分を見て笑ってくれない苛立ちを込めて、何度か本人にぶつけてしまったことは、今でも反省している。

 

 もっとはっきり意見を言ってくれよ、と思いながらもマコノヒー伯爵家で転倒してからのエルフリーデは少しおかしかった。

 正直、意見をいうどころか元気すぎたし、ギイとの思い出は食い違いすぎていたし、とにかくエルフリーデらしくなかったのだ。


 けれどあのエルフリーデは「ヒント」も与えてくれていた。

 花を一輪も贈ってくれていない、と言ったのだ――ギイが贈ったのにも関わらず。しかもギイは花に手紙も添えていた。それも彼女は受け取っていなかった。


 そこでギイはおそらくグレンフェル家で、エルフリーデにとって何か良くないことが起こっているのだろうと推測し、両親に話した上で、グレンフェル伯爵に話をしたのだ。以前ならば無理だったことが今は可能だ――もう子供ではないし、何しろエルフリーデの婚約者候補なのだから。


『ギイ、そう言ってくれてありがとう』


 ギイの推測を黙って聞いていたグレンフェル伯爵は、一言そう呟いた。

 顔色は真っ白になり、明らかに具合が悪そうだった。


 グレンフェル伯爵も時同じくして――それもエルフリーデに言われたことがきっかけで――それまで妻に遠慮をしていたのを止め、自分の屋敷で何が行われているのかを調べ始めており、お互いに答え合わせをすることとなった。


 そして判明した真実にギイは鮮烈な怒りを覚えた。


『どうして、気づかなかったんですか……!』


 思わずそうグレンフェル伯爵を問い詰める。


『……私は……、私が介入しすぎないほうが、全てが円滑にいくと思っていたんだ……間違っているかもしれないと思ったときには、エルフリーデの心が離れてしまっていた。それからはもう私に出来ることは何もないと……とにかく彼女の婚約だけは、望み通りにしてやろうと……』

『だけど、裏でいくらでも手を回せたはずでしょう……!』


 クレモンヌの両親が、ギイの名前を小さく呼んで諌める。


『いや、いいんだ。そうだな、ギイの言う通りだ。私は全てが壊れるの怖くて見て見ぬふりをした臆病者だ』


 グレンフェル伯爵は紙のようにしわしわで、小さくなっていた。

 しばらくして、彼が口を開く。


『だがわかった以上、放置はしておかない。どうか愚かな私に免じて、婚約はこのままで――』

『当たり前です! 俺が絶対にエルフリーデを幸せにします! ……彼女が受け入れてくれるならば』


 食い気味にギイが言えば、グレンフェル伯爵は目を潤ませてありがとうと呟いた。


 正直グレンフェル伯爵への怒りが消えたわけではない――……だが、あまりにも後悔して落ち込んでいる彼を見たら、それ以上責めることはできなかった。自分だって遠く離れた場所にいたのだ。後からであれば何だって言える。


 そしてエルフリーデはいつの間にか、元の彼女になっていた。


 そのことに気づいた日は内心歓喜した。

 

(だが、焦ってはいけない……、彼女は辛い目にあってきたんだ。少しずつでも俺を信頼してもらわなければ)


 少しでも楽しい思い出を。

 精一杯、考えうる限りの誘いをすることにした――観劇、カフェ、それから美術館。

 できるだけ優しく接して、そして彼女の本音を聞きだしたい。

 ――今のエルフリーデを知りたい。


 あの元気すぎたエルフリーデよりは大人しいものの、それでも少しずつ笑顔を見せてくれ、堅苦しい態度が取れ……ギイの知っているエルフリーデが戻ってきた。


 そしてようやく彼女と思いが通じて――今、ギイの日々は薔薇色だった。


 今はグレンフェル伯爵家にお茶にやってきて、彼女の部屋で隣同士で座ってお茶を楽しんでいるところだ。渡した赤いカーネーションを今日も彼女は嬉しそうに受け取ってくれたし、ギイはギイで、運ばれてくるなりエルフリーデお手製のクッキーをつまんで食べる。


(うまい、ほんっと――にうまい)


 黙々と彼女のクッキーを完食するギイをエルフリーデはにこやかに眺めていた。


 そして、彼女がグレンフェル家の今後について話し始めると、ギイは瞠った。


「なんだって、引越しを?」

「ええ、近いうちにマリスを連れて別邸に行くらしいの」


 エルフリーデに聞かされたのは、グレンフェル伯爵と伯爵夫人が別居するというセンセーショナルなものだ。マコノヒー伯爵家で謎の光を浴びて寝込んだマリスが別人になったことは記憶に新しい。

 ギイはもちろん、マコノヒー家の夜会でのマリスの企みを許してなぞいない。チャンスさえあれば糾弾しようと思っていた――自分たちの婚約に影響がでない範囲で。

 だがそんな風に考えていたギイも、その考えを改めるくらいのマリスの変貌だった。


「そうか……グレンフェル伯爵はなんて?」

「お父様は、お義母様が望まれない限り離縁されるおつもりはないみたいだった。自分も線を超えられなくて、決してお義母様だけが悪くない、というようなことをおっしゃっていたわ」

「それでとりあえず別居か……まぁでも、一緒に住んでいない夫婦は多いものな」


 グレンフェル伯爵とエルフリーデの本当の母や、今でも仲が良いギイの両親が珍しいくらいだ。


「俺たちは絶対に一緒に住むからな」


 眉間に力をいれてギイが言えば、エルフリーデの頬に朱が走った。


「うん。……私もそうしたい」


 小声で付け加えられたそれに、笑顔にならざるをえない。あまりにもしまりのない顔をしてはエルフリーデに嫌われてしまうかも、とギイは咳払いをして気持ちを引き締めた。


「それで、マリス嬢も一緒に連れて行かれるんだな……まぁ、当然か、あんな状態だもんな」

「ええ」


 マコノヒー邸で、姉妹が立て続けに気を失うというありえない事態になったが、グレンフェル家としては何も申し立てはしないらしい。それはそうだ、エルフリーデは自ら足を滑らしたし、マリスに至っては何があったか誰にも分かっていない。


(だけど、やっぱりおかしいよな……、どちらもあの天使の像の前で倒れてるんだよな)


 よく考えればエルフリーデがあの夜、天使像の前に行こうとしていたのではないかと思えてくる。今の彼女はそこまで衝動的な行動をするタイプではないから、あの夜一人で行動したがったのに何か理由があるような気がしてならない。

 だがエルフリーデはギイに何も言わなかったから、彼はただ黙っている。そのうちエルフリーデが話してもいいと思ったら、きっと話してくれるだろう。必要があれば。


(本当は全部話してほしいけど……、きっとそのうち、俺のことをもっと信頼してくれるようになれば――エルにもっと信頼されるように、生きなくては)


 そう思いながら隣に座っているエルフリーデを見ると、彼女の横顔はどこか納得したような、すっきりしたものだった。


「どうした?」


 水を向けると、こちらを向いて口元を緩めてみせる。


(か、かわいっ……)


 一気に思考が停止する。

 一般的に言ってももちろんエルフリーデの顔は整っている方だが、ギイにとってはエルフリーデがエルフリーデというだけで無条件で可愛いのだ。


「ううん、なんでもない。もうあまりお義母様やマリスに会うこともなくなるんだろうな、と思っただけ」


 彼女はあっさりとそう言うと、ジェシカに視線を送った。


「ジェシカ、あれを持ってきてくれる?」


 承知しました、と頭を下げたジェシカが部屋を出ていく。


「なんのことだ?」


 やっぱり我慢できずにギイは尋ねる。エルフリーデのことになると彼は堪え性がなくなってしまう。

 エルフリーデは今度ははっきりと微笑んだ。


「あまり甘くないパイよ。カフェで約束したでしょ?」

「え、焼いてくれたのか!」

「もちろん」


 にっこり笑うエルフリーデがあまりにも可愛すぎて、ギイはぎゅっと抱き寄せてしまった。


「食べてくれる?」

「当たり前だろう」

「さっきも、私の焼いたクッキーだけ食べたでしょう?」

「美味かったよ」

「ありがとう。甘いのが得意じゃないのに?」

「エルの焼いたものは別だ。また今度焼いてくれ」

「ふふ――……そんなギイが好きだなぁ」


 しみじみと呟くエルフリーデが、愛しい。


 「俺も、大好きだよ」


 そう言えば、彼女の横顔が一瞬で赤くなる。ギイは彼女をもっと近くに抱き寄せると、彼女の頬に手をかける。そっと親指で彼女の唇をなぞると、エルフリーデの身体がぴくんと揺れた。


「構わない?」


 そっと尋ねると、エルフリーデがこちらをゆっくりと見上げた。


(――っ!)


 潤んだ彼女の瞳を見た瞬間、ギイの心臓はどくんと高鳴る。

 どくんどくんと鼓動はとどまることを知らない。


「してほしい」


 エルフリーデがそう呟き、ギイは息を呑む。


「ギイ、大好き」


 その囁きまで全て欲しくて、彼はエルフリーデの唇を奪ったのだった。彼女の甘くて、柔らかいその唇にかじりつき、陶酔する。


(エル……愛している)


 頭の中で繰り返されるその言葉を、ちゃんと声にできただろうか。ギイは生まれて初めてのキスに夢中だったから覚えていない。だが、声にしていなくても――これからの人生で何度も伝えていくのだから、今くらいは多めに見てほしい。

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伯爵令嬢エルの不思議な10日間〜もう一つの世界でどれだけ愛されても、やっぱり貴方に会いたい〜 椎名さえら @saera

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