第36話 エピローグ
天使像の前で気を失ったマリスは、それから数日意識が戻らなかった。
もしかしたら、マリスも不思議な世界に行ったのかも知れない、と後々エルフリーデは思うようになる。
(でも、私の行った世界とは違うのかも……)
というのは意識を取り戻したマリスは、それまでのほとんどの記憶を失っていただけでなく、まるきり別人になってしまったからだ。
今ではマリスは穏やかに人の話を聞き、相槌を打つばかり。
誰もがマリスの変化に驚き、あまりの変貌ぶりにそれこそ義母も国中の医者に診せて異常がないかを調べるのにやっきだったが――……性格が内向的に変わった以外はまったく問題がなく、異常なし、との診断だった。
それからすっかり義母は腑抜けたようになった。
おそらくそれまでの義母を支えていたのは、マリスにより良い婚約を結ばせることであり、それによって得られる自身の確固たる社交界での立場であろう。そして華やかな外見と外交的な性格のマリスならばそれが叶うかも知れない、という一縷の望みを持っていたのだろうが、それがマリスの性格がこうも変わってしまっては――。
今後何があるかもわからず、正直なところ嫁入りできるかも誰にも分からない。
そして、父との関係にも変化があったようだ。
貴族らしく離縁はしないものの、別居はするらしく、義母には新しい家があてがわれることとなった。父と義母は、夫婦として次のステージに進んだのだ。
すっかり意気消沈した義母は、マリスを連れて新居へうつることとなった。
◇◇◇
マリスが義母と共にグレンフェル邸を去ると決まってから。
たまたま廊下でマリスとすれ違ったエルフリーデは、義妹を呼び止めた。
「ねえ、マリス」
「はい、お義姉様。なんでしょうか?」
マリスは以前とは違い、感じよく微笑みながら足を止める。
エルフリーデのことも忘れてしまったらしいが、後づけの知識として義姉であると覚えてくれた。
エルフリーデは、一瞬ためらったが、勇気を持って言葉にすることにした。
今この時を逃せば、尋ねるチャンスはきっともうない。
「マリスは、ここではない、どこかにあるだろう不思議な世界の存在って信じる? 今いる世界とほとんど同じなんだけど、でも人の性格は違ったりする感じの……」
マリスはきょとんとした。
「不思議な世界、ですか……? 面白いことをおっしゃいますね。有名な物語ですか?」
答えるマリスの瞳には一点の曇りもない。
「物語とかではなくて――……」
エルフリーデは更に尋ねようとして、しかし考えを改める。
「ううん、なんでもない。変なことを聞いたわね、ごめんなさい」
「いいえ、構いませんわ――ではごきげんよう、お義姉様」
「ええ、ごきげんよう」
エルフリーデは、去っていくマリスの後ろ姿を見送った。
(真実はわからないけど……でもきっと……)
彼女はぎゅっと手を握りしめる。
(これで良かったんだわ。私、あのままだったら……マリスに対して、取り返しのつかないことをしていたかもしれないもの)
実際、マリスがコッパー子爵子息をけしかけてエルフリーデを襲わせようとしたことは、許されるべきことではない。もしこうしてマリスが記憶を失うような事態にならなかったら、エルフリーデは即座に父に話し、また義母も巻き込み、大騒動になったはずである。
ふう、と息をつき、エルフリーデも自分の部屋に向かって歩き始めた。
(きっと……、天使様が助けてくださったのよね。私が……我を忘れないように……と……大騒動になったら、我が家の評判が下がって、もしかしたらギイと婚約が出来なくなったりしたかもしれない)
感情を出すことが悪ではない。
だがなんでも度が過ぎると、それが例え正義だとしても、自分に刃のように戻ってくることだってあるのだ。
それに、自分に全く落ち度がなかったわけではない。
(今までの私の態度がマリスを助長したのよね……)
幸い、エルフリーデは取り返しがつかなくなる前に踏みとどまることができた。
今までの自分のあり方を見直す機会をもらえたから。
エルフリーデが向こうの世界へまぎれこんだのが天の采配だとしたら、マリスの変化もまた天啓なのだろう。
(私に気づきの機会を与えられたように、マリスにも与えられるべきだもの……今まで確かにずっと意地は悪かったけど、本当に酷い目に合わせようとしたのは今回だけで……そのマリスはいなくなってしまったし)
誰にだってやり直すチャンスはあっていい。
願わくば、マリスが行ったのが極端に怖かったり、怯えたりするような世界ではなかったことを。
(それはもう誰にも、分からない、けど……)
マリスは非常に付き合いやすい義妹となった。エルフリーデは今のマリスとの関係を大切にしようと心に決めた。
◇◇◇
ギイとの婚約が本決まりになり、いよいよクレモンヌ家への挨拶を明日に控えた夜。
エルフリーデがベッドサイドテーブルの引き出しを開けると、ガコンッ!と大きな衝撃と共に、つっかかりが外れる音がした。
(あ、あれ……っ、壊しちゃった……?)
慌てて奥を探ると、どこかで見たことがあるノートが出てきたので仰天する。
皮表紙には『もう一人のエルフリーデへ!』と自分の筆跡で書いてあった。
「え、もしかして……!」
エルフリーデはぱっと表紙をめくり、中身に目を走らせる。
『もう一人のエルフリーデへ! これを読んでることを願ってるわ。私たち、入れ違いになっちゃったわよね』
間違いない、もう一人のエルフリーデから、自分への手紙であった。
『貴女、日記の一つも書いておきなさいよっ! 事実関係を把握するのめちゃくちゃ大変だったわよ!! 探偵ばりにジェシカとかオグデンに聞きまくった私を褒めてよね!?!? で、なんなのよ、貴女、根暗!? もう一人の私が根暗だなんて、認められないんですけど!!!!』
と、ものすごい勢いで書かれたそれは、もう一人のエルフリーデの性格を端的に表していた。
(す、すご……っ これが噂の“エルフリーデ節”……っ!)
日記は読んでいたが、こちらは明らかに「もう一人のエルフリーデ」に向けて書かれていることもあってか、遠慮がない。手紙が今にも意思をもって話し始めそうな、そんな勢いを感じる。
ソファに腰かけて、エルフリーデは更に読み進めた。
『でも分かるわ、お義母様もマリスも、めっちゃくちゃ陰険だものね。ま、マリスにはちょっとお灸を据えておいたわよ。しばらくおとなしくなるんじゃない? いいこと、相手の弱点を掴んでおいで、ここぞというときにぶつけることが大事なの、闇雲に突進してもだめよ。って貴女みたいな人は弱点を掴んでも利用するなんて考えないわよね。まぁいいのよ、きっとそこが貴女の良いところなんでしょうね、無理は言えないけど。で、書いて気づいたけど、私の方が陰険かも!』
エルフリーデは夢中になってページを繰る。
『でも、もったいないわ。人生は一度きりよ。貴女がそうしたくてしているならいいけど、そうじゃないでしょ? だって貴女はもうひとりの私なんだもの、私みたいな跳ねっ返りの部分がないわけないわ。ね、怯えなくて大丈夫よ。貴女が好きなように生きて、幸せになったらいいの。そのうち貴女のことを理解して、認めてくれる人は絶対にあらわれる』
(……っ!)
『あとは自分自身の問題よ。ちょっとだけの勇気を持って、足を踏み出すの! 後悔がないように、お互いの世界で生きましょうね』
この日記を書いていたときは、もしかしたら、このエルフリーデも元の世界に戻れるかどうかわかっていなかった可能性が高い。けれど彼女がくよくよしている様子は見られず、現実に向き合って、しっかりと生きているのが伝わってきた。
『追伸……こっちのギイは無骨すぎて私には合わないわ、残念。貴女、もっと甘やかしてもらったほうがいいんじゃないの? でも、きっと好きなんでしょ? 私があっちのギイを好きなんだから、貴女はこっちのギイが好きなんでしょうね。 ま、貴女にはぴったりなのかな』
最後に書き殴られたそれを読んで、エルフリーデは声をあげて笑った。
「ははっ……!」
彼女は自室の花瓶にいけられた、ギイから贈られたカーネーションを眺めながら、微笑む。
自分が向こうのギイでは物足りないと思ったように、彼女にはこちらのギイは合わなかったようだ。そしてやはり、向こうのエルフリーデはあのギイが大好きなのだ。
(あの甘い甘いギイが、元気いっぱいなエルフリーデを見守る図……想像がつくな)
いいカップルなのに違いない。
そしてもちろん、
(人生は一度きり……、本当にそうよね。後悔がないように、生きていきたい)
エルフリーデはノートを閉じると、表紙を眺める。
ゆっくり撫でてから、ちょっと考えて、書き物机に向かった。
ペンを取ると、『もう一人のエルフリーデへ!』と書かれている下に、『未来の、もう一人のエルフリーデへ!』と付け加える。
それから真っ白なページを開いて一気にペンを走らせた。
『今まで日記を書いたことがなかったけど、これからは書いていくことにする……貴女ほど上手に書ける自信がないけど。でもこれからは、やりたいことをして、生きたいように生きるわ。だって人生は一度きり、だものね? この手紙は、その第一歩』
ふふっと微笑んだエルフリーデはそれからしばらく未来の自分への手紙を夢中になって書いたのだった。
FIN
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ここまで読んでくださって本当にありがとうございました。
一区切りさせていただきたく思います。
もしよろしければ★★★で評価いただけると大変大変嬉しいです
&作者はいちゃいちゃが書き足りなく……笑
後日談を書きたいと思っています!
(どうか皆様も読みたいと思ってくださいますように)
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